机をコツン・・
これは「禅の始まりの終り・・終りの始まり」
碧巌録 第六十七則 傅大士経講 (ふたいし きょうを こうず)
【垂示】ありません。
【本則】仏教に帰依していた梁の武帝が、「金剛般若波羅蜜多経」の講釈をしてもらおうと、誌公の紹介で、傅大士(497~?)を招待した。
呼ばれた傅大師は講座に上がると、手にした笏(しゃく)で、コツンとテーブルを一打して、サッサと講座から降り去ってしまった。
武帝は、禅のカナメといわれる金剛経・・その解かり易い話を聞きたいのに、いったいどうなったのか・・愕然(がくぜん)とした。
(この「コツン」・・最も親切で解かりやすい・・禅 入門の行い・・なのに、PC持って右往左往の現代人に似て、サッパリ訳の解からない武帝であった)
誌公が茫然(ぼうぜん)、模糊(もこ)としている武帝に「陛下、金剛経の神髄、ご理解なさいましたか」と尋ねると、武帝は「彼の行ないが一向に解せない」と素直に答えた。
誌公は、同じく武帝の周りに居並んで、キョトンとしている百官たちに「サアサ・・大士の講演はモウ終わりました。これにて閉会いたします」と、その場を取り仕切った。
机をコツンが「禅の始まりの終りで、終りの始まり」なのだ。
もうこれ以上、「ZEN」を語ることはできない。
*仏教学者であり禅者であった故、鈴木大拙翁は、欧米で講演の際、禅・入門の方法を問われて、スピーチ台を「コツン!」と叩かれて、「ここからどうぞ(お入りなさい)」と言われたそうな・・多分、武帝と傅大士の問答、碧巌録 第67則が脳裏を横切られたのかもしれない。
【本則】擧す。梁の武帝、傅大士に、金剛経を講ぜんことを請(こ)いたり。
大士、すなわち座上において案(あん)を揮(う)つこと一下(いちげ)して、
すなわち下座(げざ)せり。
武帝愕然(がくぜん)。
誌公(しこう)問う「陛下、また會(え)せりや」
帝云く「不會(ふえ)」
誌公云く「大士は講(こう)経(きょう)をおわりたるなり」
【頌】静寂と安心に満ちた禅庵に居れば良いものを、梁武帝の首都、金陵(現南京)まで、わざわざ出かけて御前講義をやるとは、傅大士のご苦労、お疲れ様・・と思います。
もし、あの場で、仙人じみた誌公が、閉会宣言をしてくれなかったら、達磨の二の舞。
きっと自尊心や野心のカタマリのような武帝と悶着が起こって、挨拶もせずコソコソ都を逃げ出す羽目になったことだろう・・。
【頌】雙林(そうりん)に向かってこの身を寄せ(よ)ずして、
かえって梁土(りょうど)において塵埃(じんあい)をひけり。
當時(とうじ)、誌公老を得ざりしならんには、
また是れ栖栖(せいせい)として国を去りし人なりしならん。
【附記】傅太士(善慧大士497~514)と誌公(寶誌 不詳)は住所不定。
どこでも裸足で出入りした。頭髪モジャモジャの道行者である。禅観、佛理を語ること、声聞(しょうもん)羅漢(らかん))以上といわれた。碧巌録の武帝問答に混同されて登場する禅者である。堂々と宮中に入り、武帝(481~549)の庇護のもと、仙人の如き祖師禅の前駆者的な禅者に例えられている。
当時、宮廷では、盛んに佛教経典の解釈、講義が行われていて、その引用の一番は「維摩経」「涅槃経」「金剛経」などであった。(・・と、鈴木大拙は禅思想史 第三巻で記述)ただし、武帝は達磨との問答(第1則)でも明らかなように、きわめて自己顕示欲の強い目立ちたがり屋である。仏教に篤いといっても、功徳、顕彰を求めてやまないハダカの王様であった。
とまれ、中国・禅の創世期(初代・達磨から六祖・慧能にいたる)は、欣求的佛教にコンクリされてきた中にあり、無功徳、無心の禅行を、直ちに見せつけられても、禅者の言行への無理解、チグハグ差は避けがたいことだった。
禅のはじめは・・達磨の「不識(しらず)」と、この「コツンと机を叩く」ことからはじまった・・としておきます。それが「純禅」・・というものです。
◆現在、碧巌録(禅者の一語)、無門関(禅のパスポート)の年内、出版をめざして、第3稿を編集、改稿中。雑事や健康状況が差し障り、明年に延びるかもしれません。
この奉魯愚の読者の方には、見るたびに同じ画面が現れて面白みがないでしょうが、せめて1カ月に1回でも、現況をお知らせしたいと思います。
コロナの事大(時代)なればこそ・・たったの3分間・役立たずの独りイス禅・・1日1回でも続けられることを推奨します。
有(会)難とうございました。加納泰次 拝。