禅者(仏教学者)故・鈴木大拙翁の本は、読むほどに歯がボロボロと欠ける覚悟で拝読すべし・・お大事に!

奉魯愚(ブログ)に【スマホに囚われた幽霊もどきになるな】・・と書いただけで、提唱する「3分間独りイス坐禅」紹介blogの閲覧がパタリとなくなった。

どうやら・・スマホのゲーム・情報のやり取りは、知らぬ間に「中毒」となる。本や活字文化を大事にする人だけが、禅に近づける・・禅ニヨル生活ができるのである。

 

禅を世界に広めた「禅者」であり、仏教学者であった故・鈴木大拙は「禅の見方と行ひ方」昭和16年4/20発行 大東出版社の中で‥知的感性・好奇心の高い人だけが、欣求宗教でない禅に関心を持つ。たとえば感情(性)、愛情、罪悪感の強い人は知的直観の働きなど、耳を傾ける余裕はない。禅の「無・空」の霊性を他人事に説いたとて、仏陀自覚の「正覚」=「禅」の本分は信じられない。元来、誰にでもある「禅」=正覚は、独り一人が、自覚するものであって、教導できるものではない。禅では救いがたきぶるいの機根があることを心得ておかなばならない。禅者は一体に歴史や学問には無頓着である。禅は「時・處に囚われぬ」ことが、妙所であり‥その源泉は正覚=禅より湧いてくる‥今でも湧きつつある。これが「禅による生活」の分明なところでは、どこにでも「禅」があることを見て取らねばならぬ。(中略)原始仏教は、ここをしっかり見てとらないといけない。すなわち禅者の目からすれば大乗非佛説がドッチに片付いても全く馬耳東風である。四十九年一字不説底の腹から言えば大小の経典ことごとく非佛説であっても【菩提樹下の正覚さえ事実であれば】それで仏教の成立は確かなのだ。

 

禅が選ばれた者の宗旨であるとすると禅は自然に個人的となる。個人的実証主義を強く主張することになる。独りでよければ それでよいという独脱高踏(どくだつ こうとう)の気風を知らずしらずの内に養いいく。これに反して大衆とともに泣いたり悲しんだりするものは「月白く風清し」などと言ってはおれぬ。禅から見れば、いかにも感情に囚われて悩みに溺れる風でもあろうが、大衆の宗教はこの低所にある。親鸞が聖者の宗教に対して凡夫の宗教を鼓吹(こすい)したのは、実にこの間の人心の機微に徹したからだ。いたずらに聖者・凡夫の区別、差別の話ではなく やむに已まれぬ人の心の働きがここにある。聖者の魂は凡夫にもあり、凡夫の魂は禅者にもある。決して宗教的価値の上下、宗門的な分別ではない。

禅の悟りは徹底的に知的である。看話(公案)禅の弊害に至っては、ほとんど遊戯性さえおびているといいうる。禅家の語録を読んでも同情の涙を浮かべる話が極めて少ない。キリストの(愛に対する)行い・・凡夫への配慮が禅に欠落しているといえよう。

【註】瞑想やヨガなど、女性に好まれるZENのムードは、美容・健康に良いというが、禅とは全く関係がない。禅寺や坐禅を観光名所や心理的な悩み相談所に仕立て上げた寺僧は「禅者」ではないことを断言しておきます。

定価1円50銭のこの本は、わが父の蔵書を借り受けて、ソノママ、自分の蔵書にしてしまったので、この1冊の内容を、わずか1ページに要約しても、何のことやら、サッパリで理解するのは不可能だ。幾度も読むに従い、アリジゴクに落ちるごとき心地がしたり、意味をかみ砕くのに、歯がボロボロになった心地がして、のちに味読できる真の是禅本だ。不立文字‥といっても、世界にZENを広めた大拙翁の著作だけが現代の禅を語る書物である。

他、千年以上前の禅語録では「碧巌録」「無門関」「臨済録」などあるが、漢文であり訳の問題がある場合が多い。私の記録・解説を含めて、読み捨てることを推奨します。

どうぞ関心のある方は、鈴木大拙全集を読まれることを推奨いたします。

有(会い)難う ございました。