坐禅させるものの働きを知れ(故・鈴木大拙翁/禅者・佛教学者)

「悟り・解脱」に「坐禅」は必要か?

今迄【役たたずの坐禅】は、悟り(解脱)への道程に必要な出来事と言ったり書いたりしてきました。

数息のイス坐禅が出来るようになって、無門関や碧巌録の話の一つも、何を言っているのかな・・どうして噛み合わぬ問答なのか・・何故だろう?・・と思い至れることになったら、独り坐禅を捨て果ててください。役立たず(無功徳・ムクドク)とばかりに、捨て去り、忘れ去るのが最も大事なこととなります。

 

無門関 無門慧開の序(冒頭)にある「門より入るものは是れ家珍にあらず」・・「なんぞ言句に滞(とどこお)って解會(げえ)をもとむる・・をや」人間の五感(見る、聞く、觸る、嗅ぐ、味わう)から認識できるものは、本当に(価値ある)宝とするものではない。

街中で薪を売って母を養っていた恵能(638~713)が、思い至って五祖法演の寺に入り、山猿と罵(ののしら)れながら、米つきをしていた時に「菩提もと樹にあらず、本来、無一物」と喝破したのは、決して、坐禅したから悟り得たことではありません。

むしろ、臨済義玄臨済宗開祖?~867)の出た頃までは、坐禅は瓦を磨いて鏡となすような・・愚かな出来事として・・南嶽懐譲(677~744)とその弟子、馬祖道一との磨甎(ません)問答・・のごとく、必要条件ではアリマセンでした。

鈴木大拙翁は、上田閑照・木村静雄との対談「臨済録」を語る・・の「生活の中の坐禅」で「坐禅のはたらきというより、坐禅をさせるもののはたらきだ。そいつを見にゃいかんとわしはいうんだ。 坐禅にとらえられると坐禅の中にいろんな妙な境涯を見ることになる。坐禅を主にする人は、その中から起こる境地を本物だと思う。心理学者や精神分析の人が好むところだ。そいつがいけないんだ(中略)鈴木大拙座談集第5巻 発行読売新聞社・・のように言葉(文字)に囚われて、三昧の境地を禅の境地と思い込みます。

これに警告しておられます。

先日、足かけ50年近く京都で水墨・日本画の京表具をしている方とお話しする機会がありました。

お話の隅々に、タガが職人・サレド職人の、表具師の気骨と正直な「三昧な仕事と生活態度」が感じ取れて、爽やかな想いでした。書画の表装という表に出ない裏方仕事・・一心不乱、無我夢中の仕事に埋没して、我を忘れるのを三昧(ザンマイ)といいます。

この三昧境地は坐禅や瞑想から得られるものとは限りません。

これを禅の境地だと思い込む・・あるいは求道者に、それがサトリへの道筋だとか、精神安定の効用があるのだ・・とか、教導することが、かえって、純禅(解脱)を妨げることになるのです。本やお経や修行・坐禅(瞑想)の教導などに、まるで蜘蛛の糸に囚われてしまうようになるのが、一番、なってはならないことです。

 

ドダイ、悟りといい、頓悟・見性といい、大覚・成道と言い、解脱と道い、用語はいろいろありますが、三昧境地を含めて、すべて・・ソンナ境地は「禅による生活」の境地ではアリマセン。

前に書きましたが、自覚(大悟)したという自覚があるとすれば、それは・・まだ自覚していない・・下らぬナマザトリの証拠です。

チョウド ドコカノ国の政治家が、遺憾に堪えません!とか、反省します!とか・・口で言う内は、叱られた子供のアヤマリ同様、反省していないことなのです。

酒のみ運転で捕まった者が、私は酔っていない、正気です・・と主張するようなものです。

蕎麦屋の釜の中です(湯・ユウばかり)

 

誰からも何の教導も受けず「独り坐禅」は役立たずで行い、自然な数息が出来るようになったら、そんな坐禅すらも忘れて・・禅語録(無門関・碧巌録)の、引っ掛かりのできた1則の【WHY?】に向き合うことです。自分の、何処からか湧き上がってくる【どうして?】だろう・・の、解決のつかぬ思いが、数息坐禅と入れ替わってくれるのです。

どうやら・・そのあたりから、自分の独りポッチの立ち位置(坐り位置・行住坐臥)がボンヤリ見えてきましょう。

世界的なコロナ騒ぎが、政治や社会的な変革の機となりました。この事件は従来の禅にとって滅びの一撃となりましょう。跡には観光・拝観禅つまり寺僧の生業(ナリワイ)禅や効用効果を求める心理坐禅が細々と営業を続けることでしょう。

逆に云えば、純禅にとって、願ってもない告知・認知のチャンスです。

極点を目指すためには、磁石・・この場合は、自分のココロの中の【WHY?】です。そして、歩き(生活行動)です。

達磨の坐禅は、役立たず(無功徳)WHY?です。

目的地は、廓然無聖カラリとした青空)です。

 

 

 

独り坐禅は何時まで続ければ良いのでしょうか?

三分間独りイス坐禅の入門と卒業・・

10年有余の間・・禅は宗教ではない。まず、組織や集団や仲間(二人)以上で、坐禅・修行をしても、悟り(解脱・見性、大覚)は得られないことは、千年昔の碧巌録や無門関を読めば明らかです。

この役立たないタッタ3分間、数息18回(6回×3回繰り返し)で充分。椅子に坐ってでも寝ながらでも・・こだわりなく出来るようになってください。次に、折々に、碧巌録(意訳中)を、どのページからでも読んで、思わず「なぜ・・WHY?」と、引っかかった禅者の修行話を、3分間独り坐禅のテーマにして、繰り返し思い起こして坐禅してください。だんだん役立たず(無功徳・嘸功用 ムクドク・ムクヨウ)の意味が、納得されてきたら、無門関(意訳中)に移りましょう。

素玄居士の提唱中の偈を深く、うなづけるようにならなくてはなりません・・

(禅語録を提唱する禅者は、その大覚したことを その公案ごと、意見できなくてはなりません)・・ここまでです。これまでです。

アナタは・・禅語録などの本に頼り、坐禅の仲間や師の教導に頼り、役立たずだと明言している、この奉魯愚に頼り・・ナントナク、ワカッタ(解った/判った/分かった/別った)ような・・気になり・・思いに囚われているのです。

つまり達磨の道う「無功徳」役立たず・・の坐禅(純禅)から、一歩も抜け出せずにいるのです。

純禅には、進歩も退歩もありません。本来、自分の中にある、無依(無位)の真人(臨済義玄)を発見すること・・に尽きるだけです。・・から、今一度、碧巌録を読んでください。

◆オヤッ・ナンダ・・どうしてだ・・求道者の言動は?

禅語録に登場する求道者たちで、坐禅の最中に悟った者は、一人もいないことに気づかれるでしょう。

ある者は梅の香りで・・ある者は掃除の最中に・・ある者は指をチョン切られて・・ある者は、行灯を吹き消されて・・ある者は、振り落とされそうになった馬の首にしがみついて・・ある禅者は、自分の腕、臂(ひじ)が、逆に曲がらないことに気づいて・・釈尊ですら、胡麻一粒の難行苦行の末、スジャータの乳に助けられ、身心共に、コンデションを整えられて、菩提樹下、坐禅をされたそうですが、大覚(解脱・見性)されたのは、坐禅の最中ではなく、坐禅の坐を立とうとされて、明け方の明星・・金星の輝きが、瞳に飛び込んできた瞬間でした。

釈尊は「不思議だ・・総てのモノ(山河草木)が、悟りに輝いている」・・と叫ばれたそうです。

◆次からは「役立たず(無功徳)」すら 忘れ果てての坐禅です。

最近、コロナ自粛のおかげで、外縁に振り回されていたスマホ幽霊のような若者たちの正気が、少し戻って来たようです。

私は、まず役立たずの「坐禅」=調心を身に着ける・・癖を持つ事。これなら、日常生活で、その癖が忘れられる・・のは、比較的、たやすいことになる・・と思います。

千数百年前、達磨西来から数えて六代目、慧能大鑑(638~713)は、街角に薪を売って母を養う、文字すら読めぬ山猿でした。

寺に入って、年がら年中、米つきバッタの生活の中で「本来無一物」を発見したのです。

この坐禅してからでなけりゃ悟れないと云うのじゃないんだ・・の発言は、世界に禅を知らしめた仏教学者・禅者 鈴木大拙鈴木大拙座談集 第5巻「臨済録を語る」上田閑照/木村静雄との対談項「生活の中の坐禅」編集 古田紹欽(財法)松ヶ岡文庫/発行 読売新聞社・・に詳しい。

◆この坐禅すら忘れ果てて生活する(大地に)・・それが「禅ニヨル生活」の発芽です。

この時から、碧巌録や無門関ですら無功徳となり、坐禅三昧ですら、役立たずとなります。

宗教、寺僧との親離れ子離れをしないと、世界の禅は絶滅します。

この坐禅からの卒業については、今少し、掘り下げて解説します。

有(会)難とうございました。

 

 

 

 

 

 

 

あやまちを改めざる・・これを・・

【禅者の一語】碧巌の歩記(あるき)NO7 

◆過(あやま)ちを改めざる・・これを過ちという(論語 衛霊公)

                                        碧巌録 第七則 慧超 問佛(えちょう もんぶつ)

【垂示】圓悟が座下の求道者に云った。

それぞれ人の生きるべき道はそれぞれにある。それを文言、哲学をもって表示しようとしても、叶うわけが無く、他人に伝授はできない。

本来の面目といい、無位の眞人といい、個人の自覚なくしては猫に小判、価値などあろうはずがない。

たとえ多少の自覚が芽生えたにしても、たちまち迷妄の嵐にまきこまれて、カラスのカア、雀のチュンにも及ばぬナマザトリだ。

天にも地にも、ただ独り、大笑いできる奴だけが少しはZENを会得したと道(い)えるのだ。

否、それとても悪臭無限。

では・・なすこと、やる事・・自由自在、融通無(ゆうずうむげ)の禅者にはどうしたらなれるのだろうか?儂(圓悟)の云うことがわかったか・・と尋ねても、求道者一同、沈黙状況。せっかく、うまい水を飲ませてやろうと、水飲み場に連れて来たのに、鈍馬は飲もうとせぬ。

それはそれとして、ここに雪賓が提起した公案。ひと齧(かじ)りしてみるがよい。

   【垂示】垂示に云く、聲前の一句は千聖も不伝なり。

       いまだ曾って親覲(しんごん)せざれば、大千を隔つが如し。

       たとえ聲前に向かって辨得(べんとく)し、天下の人の舌頭を截断(せつだん)するも、

       またこれ性懆(しょうそう)の漢にあらず。

       ゆえに道う。天も覆うことあたわず、地も載(の)すること能わず、

       虚空(こくう)も容(い)るること能わず、日月も照らすこと能わず

       無佛の處に独り尊(そん)と称して、はじめて些子(さし)にあたれりと。

       それ或いは いまだ然らずんば一毫頭上(いちごうとうじょう)に於いて 

       透得(とうとく)して大光明を放ち、七縦(じゅう)八横(おう)、

       法に於いて自在自由、手にまかせて拈じ来って不是あることなし。

       しばらく道え、この何を得てか、かくの如く奇特なる。(また云く)

       大衆 會(え)すや。従前の汗馬(かんば)人の識(し)るなし。

       ただ重く蓋代(がいだい)の功を論ぜんことを要す。

       即今のことは しばらく致(お)く。

       雪賓(せっちょう)の公案 また作麼生(そもさん)

       下文を看取(かんしゅ)せよ。

【本則】挙す。僧、法眼に問う。

私は慧超(えちょう)という者ですが、ご老師に少しご教示にあずかりたいことがあります。

「禅(佛)とは何でしょうか?」

法眼云く「お前は慧超だったナア」

           【本則】挙す。

               僧 法眼(ほうがん)に問う。

               慧超(えちょう)、和尚に咨(はか)る。

               「如何なるか これ佛」

                法眼云く「汝は これ慧超」

【頌】江南地方に吹き渡る春風は、花を散らすほどではない。

その花の影で、鷓鴣(しゃこ)が啼いている。

法眼文益は、確かな禅者だ。

龍門を昇り尽くした金鱗(きんりん)だ。

憐れむべし、慧超。

龍を生け捕りにしたくて、池の水を掻い出している愚か者だ。

       【頌】江国の春風は吹けども たかまらず、

          鷓鴣(しゃこ)啼(な)いて 深花(しんか)のうちにあり。

          三級の浪(なみ)は高くして 魚(うお)龍と化す。

          痴人なお戽(く)む夜搪(やとう)の水。

【附記】法眼文益(ほうげん ぶんえき・清涼文益 885?~958?)法眼宗 開祖。

慧超(えちょう本名 策眞さくしん 906?~979?法眼の弟子)・・この第7則の問答は、まだ正式に法眼の弟子にならない小僧時代の逸話である。

 

禅とはナニか?

禅者の一語

禅とは何か?

坐禅とは何か?  

禅とは、達磨(ダルマ)の無功徳(ムクドク/役立たず)・・を体験・自覚する事です。

それを「禅ニヨル生活」といいます。

坐禅とは、独り・・(3分間約18回の数息呼吸の間)姿勢を正し、眼を半眼にして椅子に坐っていることです。

これを寂寥の「独 接心」(ドク セッシン)といいます。

・・ただ それだけです。

道元禅師は「眼横鼻直」と答え、臨済禅師は「乾屎橛」(トイレ紙)と答え、世尊は黙して「拈華」し、微笑した摩訶迦葉に付嘱された「何か?」の・・答えは、問いを発した貴方の・・問いを発した中にこそ、真に貴方の納得できる答えがあります。

何のことは無い・・独り一人にある「禅」は・・自分が自分に問わなければ・・釈尊に祈っても、寺僧に問いかけても、万巻の書を読了しても、絶対に答えは理解できません・・

つまり・・思考を思考することができない欠陥頭脳の人間が、自分一人で坐禅をする中でしか、自覚・発見できないことなのです。

 

禅を世界に広めた禅者(仏教学者)鈴木大拙翁は、禅(ZEN)に入門したければ、自分で机の端を、ノック(コンコンと叩いて)そこから入門しなさい!と言っています。

 般若心経の初句に・・行深般若波羅密多時・・とあります。

何か、エタイの知れない般若ハラミッタを深く行ずる時・・という・・前提条件があるうえで「色即是空」と書かれています。要は、独り坐禅をすることが前提で、釈尊や面壁達磨の・・あるいは、四条大橋の人通りを深山木に見立てて、乞食坊主の独り坐禅があり、不生不滅が・・あるのです。

しかも、この空/無の、自覚・体験を「悟り」と云うのですが、煩悩無尽誓願断(四弘誓願)と、何万遍、唱え祈ろうと・・煩悩即菩提の「禅」は、断ち切れるようなものではありません。

せっかく、東洋、日本に禅を尋ねてやってくる求道の人たちに、この電磁的通信手段で、禅の真実をお知らせする次第です。

 

古に純禅に生きた禅者の面影を追い求めた處で、アナタは、心からの安心は得られないでしょう。

科学的な、対比思考する哲学の西洋文化とスペル文字は、漢字で言う「如」や「心無心」の意味を表記できず、理解できない宿命にあります。まして女性は三界に住することが出来ないとする、仏陀のイマシメ(例え)ですら、人権侵害だと糾弾されることでしょう。本当は・・女性は、母性・慈愛(慈悲)溢れるゆえに、煩悩を消し難たい(捨てがたいのでなく)・・だからナカナカ悟れない・・の意味なのです

禅は、欣求したり、祈願したりする宗教ではありません。

長い禅の歴史では、寺僧の揺籃を得なければ、伝燈できないことも多々ありました。しかし、現代・・この日本の禅は

寺僧の接ぎ木や温室栽培のおかげで、絶滅危惧種どころか・・絶滅種となりました。

どこの禅寺でも、観光(料)禅と言うべき、寺僧の生活・商売=生業(ナリワイ)に堕落しました。拝観料と称した1カ月の売上げが何百万円とか・・また、例えば、良寛の・・たむし薬や、白紙の紙ほしさに揮毫した禅境書画が、何百万円で取引される、あさましい資本主義の有様です。

いま残された「純禅」の道は、仲間・組織や金銭に絡まない・・

本当に「独りポッチ」の無価値な坐禅を、誰か一人でもよい・・続けてくれることです。

悟りや安心を期待しない、無功徳・役立たずの坐禅を、例え3分間でも椅子に坐って行ってくれる人がいれば・・と願っています。

その思いで無門関・碧巌録の意訳を電磁的に空中散布しています。

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                          有(会)難うございました。

◆辞めるな首相・・やっぱりか編

 特別編  2020-9-2

  ◆辞めるな! 安倍首相!・・やっぱりか・・編

辞める決断なら、いつでも出来る。医者を国会に侍らせてでも、再度、宰相の座にあるのだから、誠実に・・マコトの字は「言ったことを成しとげる」の意・・憲法改正ぐらい、国会で眼鼻をつけて辞めれば・・と意見したのですが・・ボクシングのタイトルホルダーなみの、ただの人でした。政治と言う魑魅魍魎(ちみもうりょう)の迷界には関与すまい。

選挙でこれは!!と思える人を投票します。

確か、円覚寺の釈宗演老師の座右銘に「ミダリニ過去を思わず、遠く将来を慮(おもんばか)れ」妄不想過去・而遠慮将来・・とあります。

次項・・碧巌の歩記(あるき)を続けます。

        以上・・碧巌の散策を続けます。  有(会)難とうございました。

辞めるな!安倍首相!

元服の書 NO49 特別編  2020-8-29

   ◆辞めるな! 安倍首相!

本日、心臓のカテーテル、ステント入れの手術から、無事生還してみると、安倍首相の辞任表明で、マスコミは大賑わい。

去る2月頃、コロナ騒ぎ勃発に、ゼネストの如き自宅自粛を打ち出した安倍首相を批判した奉魯愚を書きました。

政治と云うのは魔物(利権)の跋扈(ばっこ)徘徊するTPOだと言うしかないようです。

ボクシングの世界タイトル・・7年有余のチャンピオンなら、褒め称えられもしましょうが・・いっぱしの評論家やTVマスコミ(新聞までも)公約の、何一つ実績を作らなかった首相を、ご苦労さんと送り出すのは、国政・国民の恥であろうと考えます。

安倍総理には、総理官邸あて・・本日、速達で、こうした旨の手紙を出しました。

辞職の政局が動くまでに、30日(日曜日)31日(月曜日)の2日間しかありません。

私は、この奉魯愚でしかアピールする方法をしりません。スマホもありません。

どうぞ・・この奉魯愚を読まれた方がた・・拝啓・安倍首相さま・・を知人友人の方々に広げて、ナンとか、こうした思い・・憲法改正を国会で決議するまで、辞めないで、責任を全うしてもらいたいこと・・伝えてもらいたい・・とお願いする次第です。

 

拝啓・・安倍首相さま・・

総理を辞めさえすれば、それで済むような無責任なことでは、何のために再度の首相になられたのか・・せめて公約の憲法改正の眼鼻をつけてから、病気辞任を表明してほしいと思います。

後は「ナルヨウニナル・・シンパイスルナ」一休宗純 遺言の通りでしょう。

とりわけ、自衛隊のあり方や地方自治(コロナ対応)など、非常時(予想時も)の国内問題に、責任が持てる国内・自治の仕組みに、ザックリと憲法及び地方自治法の改正を、国会で採決してから辞めていただきたいのです。

憲法改正など、大方の審議がすみ、後は国会の多数決(それが強行採決であろうと)で、国民審判を仰げる千歳一隅のチャンスです。

中国やロシアや北朝鮮が、ほくそ笑むような総理の病気退陣にしてはなりません。

どうせ北方4島や、尖閣竹島など、領土問題と拉致は、望みたくない戦争でもしなければ・・その受けて立つ戦争で勝たなければ戻ってくることがない・・永久課題です。

安倍首相にだけ責任を押し付けてはならない問題です。

憲法改正が・・仮に国民投票で3分の2を取れず否決されても・・私には、可決されこそすれ否決の理由がワカリマセンが・・国際社会に住む一員として、義務と責任を持とうとしない愚かな日本になったな・・と思う話でしょう。

また、是を国際社会に常時、アピールするために、放送法を改正して、NHKを国営(税)放送に改め、約6千億円の国民負担を軽減してもらいたいと思います。NHKなど見もしないTVをおいている家庭で年間1万2千円・・支払う莫迦らしさ・・まして2万人ほどの職員給与の平均が、国会議員と同列・・それ以上とか・・庶民からすれば、いい加減にせよ・・ですよ。

それにリーマンショック以上の、国際的な不況です。首相が昨暮、予告したように、消費税をゼロにリセツトして辞職してもらいたい・・のです。(どうやら政界、財界、マスコミなど、こぞって黙秘です)放送法の改正を反対するのは(利権をめぐる)議員やNHK職員だけ。

更に、地方行政・自治の確立は、法改正なくしては、コロナ対策ひとつ、マトモニ対応、予算化できない位、私でも理解できます。

元、大阪市長の橋下さんや、武田邦彦(中部大学)教授を相談役にして、主義や利権に関係のない、はたまた名誉・権勢欲に関与しない・・数少ない日本のバランスの取れた識者の意見を聞かれることを推奨します。

オリンピックは、パリのオリンピックの年・・4年遅れの順に、譲ってもらいたいと思います。世界的なコロナ騒ぎが収まって、東京そしてパリへと、順送りにしてやればいいではありませんか。

 禅語「機を看て譲ることなく・事に当たって再思せよ」

安倍総理には、総理官邸あて・・本日、速達で、言葉はきついカモ知れませんが、国会議事堂の首相席で、病に倒れて死んでください・・とお願いする旨の手紙を出しました。

しかし辞職の政局が動くまでに、30日(日曜日)31日(月曜日)の2日間しかありません。

私は、この奉魯愚でしかアピールする方法をしりません。スマホもありません。

どうぞ・・この奉魯愚を読まれた方がた・・拝啓・安倍首相さま・・を知人友人の方々に広げて、憲法改正を国会で決議するまで、辞めないで、責任を全うしてもらいたいと・・伝文する、ご協力をお願いする次第です。この文章は、下記・・3奉魯愚に掲載いたしました。

                          有(会)難とうございました。

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元服の書NO49 特別編 辞めるな!安倍首相

元服の書 NO49 特別編  2020-8-29

       ◆辞めるな! 安倍首相!

本日、心臓のカテーテル、ステント入れの手術から、無事生還してみると、安倍首相の辞任表明で、マスコミは大賑わい。

去る2月頃、コロナ騒ぎ勃発に、ゼネストの如き自宅自粛を打ち出した安倍首相を批判した奉魯愚を書きました。

政治と云うのは魔物(利権)の跋扈(ばっこ)徘徊するTPOだと言うしかないようです。

ボクシングの世界タイトル・・7年有余のチャンピオンなら、褒め称えられもしましょうが・・いっぱしの評論家やTVマスコミ(新聞までも)公約の、何一つ実績を作らなかった首相を、ご苦労さんと送り出すのは、国政・国民の恥であろうと考えます。

  • 安倍総理には、総理官邸あて・・本日、速達で、こうした旨の手紙を出しました。辞職の政局が動くまでに、30日(日曜日)31日(月曜日)の2日間しかありません。私は、この奉魯愚でしかアピールする方法をしりません。スマホもありません。どうぞ・・この奉魯愚を読まれた方がた・・拝啓・安倍首相さま・・を知人友人の方々に広げて、ナンとか、こうした思い・・憲法改正を国会で決議するまで、辞めないで、責任を全うしてもらいたいこと・・伝えてもらいたい・・とお願いする次第です。

今回・・拝啓・安倍総理サマ・・宛て、以下の緊急、意見を書きました。

 

拝啓・・安倍首相さま・・

総理を辞めさえすれば、それで済むような無責任なことでは、何のために再度の首相になられたのか・・せめて公約の憲法改正の眼鼻をつけてから、病気辞任を表明してほしいと思います。

後は「ナルヨウニナル・・シンパイスルナ」一休宗純 遺言の通りでしょう。

  • とりわけ、自衛隊のあり方や地方自治(コロナ対応)など、非常時(予想時も)の国内問題に、責任が持てる国内・自治の仕組みに、ザックリと憲法及び地方自治法の改正を、国会で採決してから辞めていただきたいのです。
  • 憲法改正など、大方の審議がすみ、後は国会の多数決(それが強行採決であろうと)で、国民審判を仰げる千歳一隅のチャンスです。

中国やロシアや北朝鮮が、ほくそ笑むような総理の病気退陣にしてはなりません。どうせ北方4島や、尖閣竹島など、領土問題と拉致は、望みたくない戦争でもしなければ・・その受けて立つ戦争で勝たなければ、戻ってくることがない・・永久課題です。

安倍首相にだけ責任を押し付けてはならない問題なのです。

憲法改正が・・仮に国民投票で3分の2を取れずに否決されても・・私には、可決されこそすれ、否決の理由がワカリマセンが・・国際社会に住む一員として、義務と責任を持とうとしない愚かな日本になったな・・と思う話でしょう。

  • また、是を国際社会に常時、アピールするために、放送法を改正して、NHKを国営(税)放送に改め、約6千億円の国民負担を軽減してもらいたいと思います。NHKなど見もしないTVをおいている家庭で年間1万2千円・・支払う莫迦らしさ・・まして2万人ほどの職員給与が、国会議員と同列・・それ以上とか・・庶民からすれば、いい加減にせよ・・ですよ。
  • それにリーマンショック以上の、国際的な不況です。首相が昨暮、予告したように、消費税をゼロにリセツトして辞職してもらいたい・・のです。(どうやら政界、財界、マスコミなど、こぞって黙秘です)

放送法の改正を反対するのは(利権をめぐる)議員やNHK職員だけ。

  • 更に、地方行政・自治の確立は、法改正なくしては、コロナ対策ひとつ、マトモニ対応、予算化できない位、私でも理解できます。

元、大阪市長の橋下さんや、武田邦彦(中部大学)教授を相談役にして、主義や利権に関係のない、はたまた名誉・権勢欲に関与しない・・数少ない日本のバランスの取れた識者の意見を聞かれることを推奨します。

  • オリンピックは、パリのオリンピックの年・・4年遅れの順に、譲ってもらいたいと思います。世界的なコロナ騒ぎが収まって、東京そしてパリへと、順送りにしてやればいいではありませんか。
  • 禅語に「機を看て譲ることなく・事に当たって再思せよ」とあります。
  • 安倍総理には、総理官邸あて・・本日、速達で、言葉はきついカモ知れませんが、国会議事堂の首相席で、病に倒れて死んでください・・とお願いする旨の手紙を出しました。

しかし辞職の政局が動くまでに、30日(日曜日)31日(月曜日)の2日間しかありません。私は、この奉魯愚でしかアピールする方法をしりません。スマホもありません。どうぞ・・この奉魯愚を読まれた方がた・・拝啓・安倍首相さま・・を知人友人の方々に広げて、憲法改正を国会で決議するまで、辞めないで、責任を全うしてもらいたいと・・伝文する、ご協力をお願いする次第です。

この文章は、下記・・3奉魯愚に掲載いたしました。

有(会)難とうございました。

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碧巌の歩き NO8 翠巌眉毛(すいがん びもう)

【禅者の一語】碧巌の歩記(あるき)NO8 

        碧巌録 第八則 翠巌眉毛(すいがん びもう)

             翠巌夏末(すいがん げまつ)示衆(しゅうにしめす)

【垂示】圓悟が座下の求道者に云った。

達道の禅者は、世の為、人の為に黙々と働くが、その実、まるで龍の水を得た如く、虎が山頂に悠然と横臥しているような様である。

これに比べ、未悟の処世人を見ると、まるで盛かりの付いた雄の羊が、見境もなく跳ね回って、ヤブに角を取られて、身動きできないような有様である。あるいは木株に当って死んだ兎の、再度、あることを願って、何時までも昼寝しているような鈍(なまく)ら態度だ。真の禅者は、ある時々・・ライオンが半分、目を閉じて眠るが如くであっても、気は天地を蔽い迂闊(うかつ)に近づけないし・・ある時は鋭(するどい)金剛の宝剣を一閃するように・・また、ある時の一句は、天下人の評論にグサリ止どめを刺してしまう。さらに、ある時には、人によって法を説く、臨機応変の作法も心得ている。

もし、禅境(地)の深い人に出逢えば・・初対面でも百年の知古の如き付き合いもあり、黙して語らずの悠久を楽しむこともある。

もし、相手が処世術にたけた者であるなら、禅ニヨル生活をなす者として、高い断崖上にあって寄り付く術(すべ)がように・・付き合いをすることだ。

自由活発の禅者ならば、ある時は野に咲く花の一本で、宇宙全体を拈華(ねんげ)できるし、あるいは140億光年の宇宙を小石ひとつに収めることも容易(たやす)いのだ。

どうだ・・ながながの消息・・窺(うかがい)がい見れたかな。

しっかり合点(がてん)のいかない者は、この四人の名優・禅者の一幕芝居を看るがよい。

     【垂示】垂示に云く。

         會(え)すれば則(すなわ)ち途中受用(とちゅうじゅよう)。

         龍の水を得たるが如く、虎の山に靠(よれ)るに似たり。

         會せざれば則ち世諦流布(せたいるふ)、

         羝羊(ていよう)の藩(まがき)に觸(ふ)れ、

         株(くいぜ)を守って兎を待つ。

         ある時の一句は踞地獅子(こじしし)のごとく、

         有る時の一句は金剛王の寳剱のごとく、

         ある時の一句は天下の人の舌頭を坐断し、

         有る時の一句は随波逐浪(ずいはちくろう)。

         もしまた途中受用ならば、

         知音(ちいん)にあって機宣(きぎ)を別(わか)ち        

         休咎(きゅうきゅう)を識り 相ともに証明せん。

         もしまた世諦流布(せたいるふ)ならば、一隻眼(いっせきがん)を具して、

         もって十方を坐断して壁立千仞(へきりゅう せんじん)なるべし。

         このゆえに道う。

         大用現前(たいゆう げんぜん)軌則(ほそく)を存せずと。

         有る時は一莖草(いつきょうそう)をもって

         丈六(じょうろく)の金身(こんじん)となして用(もち)い、

         ある時は丈六の金身をもって、一莖草となして用う。

         しばらく道え、この什麼(なん)の道理にか馮(よ)る。

         還(かえ)って委悉(いしつ)すや。

         試みに挙す看よ。

【本則】翠巌が,求道者一同が夏合宿を終えて解散する日、次のように述べた。

「ひと夏、皆さんに、禅についてアレコレと話しましたが、どうでしょうか・・私の眉毛は、チャント残っているでしょうか?」

*古来・禅林では、あまりに大衆に阿(おも)ねって説話・講義をすると眉毛がなくなるとの言い伝えがある。

これを題材に翠巌とその兄弟弟子の問答・商量が、この則である。

保福「泥棒をする奴に正直者はおりません」

長慶「ついているどころか、伸びています」

雲門「關」

     【本則】挙す。翠巌、夏末(げまつ)衆に示して云く。

         一夏(いちげ)以来 兄弟(ひんでい)のために説話す。

         看よ。翠巌の眉毛(びもう)ありや。

         保福云く「賊となる人の心、虚(いつ)わる」

         長慶云く「生(しょう)ぜり」

         雲門云く「關(かん)」(ソラ・・キケンダゾの意)

【頌】翠巌の眉毛話を看破することは、大変難しい。千年万年たっても正解は出て来ない。雲門は「關」の一字をもって翠巌に応酬したが、翠巌は金庫とカギを失って、その盗られた罪まで加算されて、泣きっ面にハチの有り様。

(注意・・当時、持ち金を失うと、泥棒に罪があるのでなく、失った当人の罪になる法律があったらしい)

保福は、ほめたのか、そしったのか・・当たらず触らずで、無難そのもの。

眉毛話を持ち出した、お喋り翠巌は確かに金庫泥棒だ。無垢の白玉にキズはないが、翠巌の問いのキズ・・真贋は、誰が識別できるのか。長慶は流石(さすが)だ。落としどころをチャントおさえて「眉毛は伸びていますよ」と答えている。

     【頌】翠巌 徒に示す。千古 對無(たいな)し。

        關字 相酬(かんじ あいむく)ゆ。

        銭(ぜに)を失って罪に遭(あ)う。

        潦倒(ろうとう)たる保福、抑揚(よくよう)得難(えがた)し。

        哢々(ろうろう)たる翠巌、分明(ふんみょう)に是れ賊。

        白圭(はくけい)玷(きず)なし。

        誰か眞假(しんけ)を辨(べん)ぜん。

        長慶 相諳(あいそら)んず。眉毛 生ぜり。

【附記】翠巌が夏安居(なつあんご)を終えて開制(かいせい)の日、送行(そうあん)時の一幕問答。

登場人物は 翠巌令参(すいがんれいさん 生年不詳)と雲門文偃(うんもんぶんえん852?~949 雲門宗開祖)は同年配と推測。

長慶慧稜(ちょうけいけいりょう 生年?~918)保福従展(ほふくじゅうてん 生年?~918)

登場人物四名とも雪峰義存(せっぽうぎそん822~908)の弟子。

この則は四名の禅者の境地と、それぞれの「一語」を納得しないと、意訳できないので、第二稿として一カ月を要しました。

第一稿は2015-9-27・・全く駄作の意訳でした。今回も酒ではありませんが、5年有余では醸成期間が短く、出版を予定する第3稿では、似ても似つかぬ意見が出て、改稿する予定です。

禅境は、一人独り、日々新たにあります。

   この則の私の意見・・

  翠巌「安心」・・の禅者の一語を道え

  保福「泥棒にカギをあずけて、ひと安心です」

  長慶「金石麗生、金庫は無事です」

  雲門「金庫もカギも悉皆亡失・・ご用心」

 

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◆お門違いもハナハダシイ話!

【禅者の一語】碧巌の歩記(あるき)NO9

       碧巌録 第九則 趙州四門(じょうしゅう しもん)

【垂示】圓悟が座下の求道者に云った。

明鏡の前に立つと、自分ソノモノがアリノママに映し出されるから誤魔化しようがない。まるで東男に京女の例えの通り、江戸の男はイナセな男前として、また、しなやかな京ことばを喋らずとも、その姿を見ただけで京女として映し出される。古典に・・莫邪(ばくや)という女の作った宝剣を手にした者は、迷いに迷った者を一瞬に引導して活かすこともできるし、大死一番させて活殺自在と言う。

さあて・・このような明鏡台の前で、宝剣を振りかざす禅者に対し、どのように転身の活手腕を看護できようか・・

試みに挙す。看よ。

   【垂示】垂示に云く。

       明鏡台にあたれば、妍醜(けんしゅう)おのづから鞭(べん)じ

       鏌鋣(ばくや)手にあれば、殺活は時にのぞむ。

       漢去れば胡きたり、胡来れば漢さり、死中に活を得、活中に死を得。

       しばらく道え、這裏(しゃり)に到ってまた作麼生(そもさん)。

       もし透關底(とうかんてい)の眼(まなこ)、転身の處なくんば、

       這裏にいたって 灼然(しゃくぜん)として

       奈何(いかん)ともせざらん。

       しばらく道え、如何なるか是れ、透關底の眼、転身の處なるぞ。

       試みに挙す看よ。

【本則】ある日、趙州城(市域内にある)観音院の従諗(じゅうしん)老師に、生座鳥(ナマザトリ/未悟)の求道者が訪ねて問うた。

「趙州とは・・何でしょうか?」

州云く「趙州は東西南北、四つの大門があり、夜はピシャリと往来遮断だ」

        【本則】挙す。僧、趙州に問う。

           「如何なるか 是れ 趙州」

            州云く「東門(もあり)西門、南門、北門(もあり)」

【頌】訳あり顔で趙州城に引っ掛けて「あんたはどなた?」と師匠をテストしたが「何処からでも入ってこい」と言われて、金剛・チタンの槌で叩き壊そうとしたが、ビクとも開く門じゃない。

お門違いもはなはだしいぞ

        【頌】句裏に機を呈して劈面(へきめん)に来れり。

           爍迦羅(しゃから)の眼 繊埃(せんあい)を絶す。

           東西南北 門相対せり。

           限りなき輪鎚(りんつい)をもって撃てども開けず。

【附記】欧米で禅を紹介された鈴木大拙翁は、「ZEN」の入門を問われた時・・コツンとテーブルをノックされて「ここから入りなさい」と言われたそうだ。

また安谷白雲老師は、その著作の中で・・坐禅というと大変難しいものとばかり思う人が多いけれども、たやすいと言えば、坐禅ほどたやすいものはない。日に三分間でも五分間でもよろしい。姿勢を正して、精神統一をやれば、それでよいのである。

なにも正式に足を組まなければだめだというものでもない。

日本式に坐ったままでもよし、極端に言えば椅子に腰かけたままでもできる。

それから公案をやらねば坐禅にならないというものでもない。

数息観と呼ばれる息の勘定をするだけも、立派な坐禅になるものだ。それで健康も増進し、精神も磨かれて、霊肉ともに健全な人になることができる。筆者の同友で「三分禅」と称して、これを熱心にすすめている人もある・・と書かれておられる。

      安谷白雲著 禅の神髄 無門関「達磨安心」・・ヨリ抜粋。1965年春秋社刊 

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碧巌の歩きNO10・・どうとでも理屈は立つ。しかし・・「禅ニヨル生活」は、独り接心(坐禅)でしか成立しない!

【禅者の一語】碧巌の歩記(あるき)NO10

   碧巌録 第十則 睦州 掠虚頭漢(ぼくしゅう りゃくきょとうのかん)

【垂示】圓悟が求道者に云った。

高い低いとか、白い黒いとか、物事を肯定しようと、また、高くないとか、白くないとか、物事を否定しようと・・どうとでも理屈は立っ。

しかし、どうにかなるものではない。

絶対的平等の立場で見れば、達磨さんの「廓然無聖」・・口出し無用の・・カラリとした青空の一語につきる。

また否定・・絶対の価値として見れば、砂一粒、水の原子一個に到るまで、それぞれ唯我独尊。固有の価値に輝いている。

 

だが、思案のしようがない・・絶対的でも相対的でもない・・そのいずれでもない事については、どのように扱えるのだろう。

この問答の・・規定があるなら、商量に要する規定の通りに・・規定がないのなら、従来の慣例に従がい 肩の力を抜いて、看て見なさい。

 

【垂示】垂示に云く

    恁麼(いんも)恁麼、不恁麼(ふいんも)不恁麼。

              もし論戦せば、また箇々転處に立材す。

              ゆえに道う、もし向上に転去せば、直に得たり。

              釈迦、彌勒、文殊、普賢、千聖万聖。

              天下の宗師、あまねく皆 気を飲み 声を呑み、

             もし向下に転去せば 醯鶏(けいけい)蠛蠓(べつもう)

              蠢動(しゅんどう)含霊(がんれい)一々 大光明を放ち

              壁立萬仞(へきりゅうばんじん)ならんと。

             もし あるいは不上不下(ふじょうふげ)ならば、

             また作麼生(そもさん)か 商量せん。

             條(じょう)あれば條を攀(よ)じ、

             條なければ例(れい)を攀(よ)じよ。

             試みに挙す看よ。

 【本則】ある求道者が睦州の處にきた。

睦州「お前さんは、何処からいらっしゃった」

求道者スカサズ一喝「カーツ!」

睦州「オヤオヤなんとお前さんに一喝されたよ」

求道者さらに一喝「カーッ!」

睦州「どれだけ莫迦ガラスのように(カァカァと)啼き続ける気か」と叱りつけた。

求道者はタネが尽きて黙り込んだ。

睦州は「この独りよがりの奴め」とピシりと打ち据えた。

    【本則】挙す。睦州、僧に問う。「近頃いづれの處を離れたるぞ」

    僧 すなわち喝す。

    州云く「老僧、汝に一喝せらる」

    僧 また喝す。

    州云く「三喝四喝の後、作麼生(そもさん)」

    僧 語なし。

    州すなわち打って云く「この掠虚頭(らくきょとう)の漢(かん)」

【頌】世評では 睦州という大虎の頭を叩いた 危険この上ない求道者だと批判する者がいる。しかし、虎に喰われることを承知で、一喝二喝したのなら、見どころアリである。

(サア・・雪賓重顯のいう・・)この求道者の何が大虎の頭を叩いた 見どころなのか・・

禅者の一語を持ち来れ。

天下の公衆面前で笑ってやろうではないか。

   【頌】両喝と三喝と、作者は機変を知れり。

      もし虎頭(ことう)に騎(の)れりといわば、

      ふたりともに瞎漢(かつかん)とならん。

      誰か瞎漢。

      拈(ねん)じ来れ。天下、人とともに看ん。

 【附記】睦州(陳尊宿)道明(780~877)黄檗希運の弟子。非凡・奇人の禅者といわれた。同時代に、徳山宣鑑・趙州従諗・・少し遅れて、雲門文偃(852~949)その弟子 洞山守初がいる。純禅=達磨禅が隆盛をきわめた時代である。

●意訳中、圓悟の垂示、冒頭の・・「恁麼、不恁麼」の語を略してしまい、指摘を受けました。6/27 加筆修正いたします。

圓悟老師・・ならぬ堪忍するが堪忍。お許しあれ。三拝。

 

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碧巌の歩き NO11 禅なしとは云わず・・

【禅者の一語】碧巌の歩記(あるき)NO11

碧巌録 第十一則 黄檗 噇酒糟の漢(おうばく とうしゅそうのかん)

【垂示】圓悟が座下の求道者に云った。祖師の教導、手腕は全くの自由自在。総ての出来事は、彼の禅者の指揮の元、タッタの一語で群衆を驚かすことも 動かすことも出来る。また、チョットした動作(揚眉、瞬目)で鎖に縛りつけたり、一挙手一投足(アクビや片足立ち)で、くびかせを取り払ったりして、向上一途に修行するものであろうと、教外別伝・不立文字・・「禅ソノモノ」の提唱ができる・・ソンナ上出来の輩がいるぞ。さて、かって如何なる人物が、それをなし得たのか・・

ソコの上を向いてポカンと聞いている・・お前さん・・どうだ?。

マア、この公案について、拈弄してみるがよい。

       【垂示】垂示に云く、仏祖の大機は 全く掌握に帰し、

           人天の命脈は ことごとく指呼(しこ)をうけ、      

           なおざりの一句一言も、群をおどろかし衆をうごかし

           一機一境にても 鎖を打し枷をすて、

           向上の機を接し 向上のことを提(ひっ)さぐ。

           しばらく道え、なんびとか曾って恁麼(いんも)なりしぞや。

           また落處をしることありや。

           試みに挙す看よ。

 

【本則】ある日、黄檗希運が求道者に云った。

「お前さんたちは、全員、お粥腹の穀(ごく)つぶしだな。まるで安物の酒カスで酔っぱらう・・本物の酒を知らないコピペばかりだ。もしワシ(黄檗の若い時)が、あちらの寺、こちらの寺と、お前たちの如く、ほっつき廻って乞食行脚をしていたら、今日のワシの(禅)境地は得るべくもない。この大唐国に純禅の師家など、ひとりもいやしない」

求道者が言い返す。

「お言葉ですが、方々に僧堂を開設して、求道者の修行を教導する師家は沢山おられますのに、どうだと云われるのですか」

黄檗「禅なしとは云わない。ただ禅の師がいない」

        【本則】挙す。黄檗(おうばく)示衆して云く

           「汝ら諸人は、ことごとく これ噇酒糟(とうしゅそう)の漢なり。

            恁麼に行脚したらんにも、いずれの處にか今日あらん。

            また大唐国裏に禅師なきを知るや」

            時に僧あり。出でて云く

           「ただ諸方の徒を匡(ただ)し、衆を領するがごとき、また作麼生」

            檗云く「禅なしとは道わず、ただ是れ師なし」

【頌】黄檗希運は凛々として、その禅風は孤峰であり、気安く寄り付きようはない。ただし禅者の龍蛇を見抜く眼識は大変に優れている。

佛教の外護者として有名な宣宗皇帝が・・(810~21歳/黄檗60歳の頃)よせばよいのに、癇癪持ちの黄檗をからかって3回も大目玉をくらい、アタマをピシャリと叩かれたことがある。

禅はあれども、正師はいない・・という黄檗の短気、自ら誇らずの涼味が爽やかである。

       【頌】凛々(りんりん)たる孤風(こふう) みずから誇らず、

          寰海(かんかい)に端居(たんきょ)して龍蛇をさだむ。

          大中の天子も かって軽觸(けそく)し、三度(みたび)親しく

          爪牙(そうが)を弄するに遭(あい)たり。

 

【附記】中国、福建省 黄檗山に住した黄檗希運(おうばくきうん ~850年頃没)百丈懐海の弟子。黄檗宗 開祖。法嗣に臨済宗開祖、臨済義玄がいる。

百丈の弟子に、潙山霊祐(その弟子 仰山慧寂・・潙仰宗)がおり、同年代に趙州従諗、徳山宣鑑、柳宗元、韓退之、白楽天など時代を同じくしている。時代はまさに禅の勃興期だった。

京都宇治の黄檗山万福寺は、1663年中国僧 隠元隆琦(いんげん りゅうき)開創の黄檗宗 日本の本山である。インゲン豆を伝来した僧である。

 

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◆踊る阿呆に・・見る阿呆!碧巌の歩記(あるき)NO12

【禅者の一語】碧巌の歩記

私は釣れなくとも釣りが大好きだ。誰か寄ってきて「釣れますか?」と聞く阿呆より・・自分は「釣れずとも釣りする阿呆」である!

      碧巌録 第十二則 洞山麻三斤(どうざん まさんぎん)

【垂示】禅者の行ないを、殺人刀とか活人剣とかいうのは昔からだが、求道者の(死生の)首根っこを押さえつけて自在に操(あやつ)る達道の師がいる。殺を論ずる時でも、まるで相手に殺気を悟られないし、また、活きる・・禅行そのもので、止めを刺されていることを気づかせない腕前である。

だから禅者の・・ギリギリの一語は、釈迦・達磨と云えども不傳である。昔(中国の故事に)井戸に写った月を本物と見誤って、飛び込んで溺れた猿がいたそうだ。求道者や教導の輩は、よくよく注意するがよい。すでに「不伝」と云っているではないか。

それなのに、どうして膨大な禅語録や公案、理屈がついて回るのか。祭り見物は・・阿呆のスルコト・・それならば「観る」より踊れだ。

サア・・具眼の者ナラバ・・この本則を看るがよい。

      【垂示】垂示に云く、

          殺人刀、活人剣は、すなわち上古(じょうこ)の風規にして

          また今時の枢要(すうよう)なり。

          もし殺を論ずるも また一毫も傷つけず、

          もし活を論ずるも また喪心失命せん。

          ゆえに道う 向上の一路は 千聖も不傳なりと。

          学者の形を労することは 猿の影を捉(とら)うるがごとし。

          しばらく道え、

          すでに是れ不伝なるに なんとしてか 

          かって許多(そこばく)の葛藤、公案かある。

          具眼の者に 試みに説く 看よ。

【本則】求道者が洞山に尋ねた。

「禅(佛)」とは、どのようなものでしょうか。

洞山、手許の麻布を見ながら「是は重さ三斤だネ」

             【本則】挙す。僧 洞山に問う

                「いかなるか これ佛(禅)」

                 山云く「麻三斤」

【頌】太陽と月は、日々 働く人と共にある。

洞山の返事は、どうして どうしてナカナカのもんだ。

求道者は麻布を手にした洞山に「禅とは何ですか」と語りかけた。まるで泥中のスッポンか・・泳げない陸亀が、浮かぶ瀬のない所を、あてどなく流離(さすら)うばかりの問いかけである。

銅山は不立文字の處を、端的に答えたが・・求道者は立ちすくんで声も出ない。

花いっぱい・・山は錦イッパイ・・南の温かい地方には竹林が・・北方には木々の林が碧なす天に連なっているではないか。

これについて、言語を絶して行いで禅境を示した者で思い出すのは・・かって・・南泉(普願)の示寂(834年)に際し、弟子の陸亘太夫(りくこうだゆう)が棺桶の前で大笑いしたことである。葬儀の場で、大笑いしたことを非難された陸太夫は、今度は「悲しや」と涙して慟哭。周囲の者をあきれさせた。のちにこのことを聞いた百丈の弟子・・長慶大安が「よくわかるぞ。死というなら笑うべし。哭(な)くべからず」と評したという。

これほど率直、単的に「麻三斤」だと計量されたら、地獄の閻魔様でも舌は抜けない。大笑いの天地イッパイだ。

【頌】金烏(きんう)は急にして 玉兎(ぎょくと)はすみやかなり。

   善應(ぜんおう)なんぞ かって軽觸(けいしょく)あらん。

   事(じ)を述べ 機に投じて洞山を見たるも、

   跛鱉(はべつ)盲亀(もうき)の空谷(くうや)に入りしなり。

   花 簇々(ぞくぞく)錦(にしき)簇々。

   南地には竹、北地には木。

   よって思う。長慶(ちょうけい)と陸太夫(りくだゆう)

   道うことを解せば笑うべし。哭(こく)すべからず。

   咦(い・・笑うこと)

 附記】無門関第18則「洞山三斤」同義の公案あり。

長慶大安(百丈懐海の弟子。陸亘と同年の知人/㊟長慶慧稜ではない)

陸亘太夫(南泉普願の弟子)

洞山守初(910~990)雲門文偃の高弟。

 

雲門は、同じ問いに乾屎橛(カンシケツ・・糞かきヘラ)と答えている。臨済義玄臨済録)無位の眞人とは・・との問いに「何の、乾屎橛ぞ」と言い捨てている。

麻三斤・・麻糸約1・5㎏・・麻について回る(コダワル)と、永久に理解できない話です。

 

佛=禅のこと・・(buddha仏陀ブッダの略)賢者、覚者、智者の意。インドでは釈迦出世以前から、普通名詞として使用されていた。大乗(欣求)仏教的に釈迦を「佛」と表現した誤りは、現代の寺僧の生業、観光禅の元にもなっている。釈尊や仏教(宗教)と混同、誤解する人多くいて、これは「禅」と表現するのが一番シックリとする。

碧巌の歩記(あるき)NO13 

【禅者の一語】碧巌の歩記(あるき)NO13

 碧巌録 第十三則 巴陵銀椀盛雪(はりょう ぎんわんにゆきをもる)

                   巴陵銀椀裏雪(はりょう ぎんなんりのゆき)

【垂示】求道者に圓悟が垂示した。

宇宙の実相が、あまねく世界に満ち満ちていること・・これを詩的に表現すれば、低く雲と山河が区別なく一体となって見えたり、川べりに繁茂した葦の花に、降り続く雪が一面に覆いつくして、花か雪か判別できないようなものだ。

また宇宙を冷厳なものとみたら、絶対零度(マイナス273度)まで冷やしつくす無常であるし、大小の細部を見ると、原子・電子・量子・・エネルギーにいたっても、まだまだ、宇宙解明に到らぬ謎だらけだ。この深遠、神秘な宇宙は仏陀であれ、悪魔であれ、人智を集めた科学であれ、これを測ることが出来ない。

一を聞いて十を知る達道の禅者なら、マア、どうにかこうにか、造作を忘れて、凌(しの)いでいる・・としておく。

けれども、論理、哲理を振りかざす口先達者な輩を、ウンともスンとも云わせないヒトコト・・言える者がいるか・・どうか。

ここに、「洞山麻三斤」と並び称される難透(公案)巴陵の「禅者の一語」をあげるから、看よ。

       【垂示】垂示に云く、

           雲は大野のあつまって徧界(へんかい)にかくれず、

           雪は蘆花をおおうて朕迹(ちんせき)を分かち難し。

           冷處は冷ややかにして氷雪のごとく、

           細處は細やかにして米末のごとし。 

           深々(しんしん)たる處は佛眼(ぶつげん)も窺(うかが)いがたく

           密々たる處は魔外(まげ)も測ることなし。

           挙一明三(こいつみょうさん)は即ちしばらくたる。

           天下の舌頭を坐断せんには、作麼生(そもさん)か道(い)わん。

           しばらく道え、これなんびとの分上(ぶんじょう)の事(じ)ぞ。

           試みに挙す看よ。

【本則】求道者が巴陵に問う。

   「提婆宗(禅)とは何でしょうか」

    巴陵云く

   「銀椀裏(ぎんわん)に雪を盛る」

             【本則】挙す。

                 僧、巴陵に問う。

                 「如何なるか 是れ提婆宗(だいばしゅう)」

                 巴陵云く「銀椀裏(ぎんなんり)に雪を盛る」

 【頌】老いた新開寺の巴陵顥鑒は雲門文偃の弟子だが別格の見識がある禅者だった。彼は「禅」を「シロガネの器に白雪を盛る」と頗(すこぶ)る詩的に答えた。これが納得できないのなら、山辺にかかる月に問え。

ああ、提婆宗(禅)十五代 迦那提婆尊者よ。

教宗・外道の多くいた時代に、よく龍樹の法を得て広められましたネ・・相対の問答のコトゴトクを説破して、凱旋の赤旗を立て、清風を興したと伝えられますが、今一度、理屈ばかりの輩を、キレイさっぱり掃除してもらえないでしょうか

     【頌】老新開(ろうしんかい)は 端的(たんてき)別なり。

        いうことを解(げ)したり。銀椀裏に雪を盛ると。

        九十六箇 まさに自知すべし。

        知らざれば かえって天辺の月に問え。

        提婆宗提婆宗、赤旙(しゃくばん)のもとに清風を起(おこ)せよ。

【附記】岳州(湖南省)・・風光明媚な洞庭湖の東岸、巴陵(はりょう)の新開院の禅者、顥鑒(こうかん)生死年月不明。雲門文偃の弟子兄弟に洞山守初(とうざんしゅしょ910~990)がいる。

彼は美しい韻文で詩的に禅境(地)を表現した。

巴陵の三句 その⑴「銀椀裏に雪を盛る」当則

      その⑵「珊瑚は枝々に月を撐着(とうじゃく)せり」碧巌録第百則 巴陵吹毛釼参照。

      その⑶「鶏 寒むうして樹に上り、鴨 寒うして水に下る」

      又は「如何なるか是れ道」・・巴陵「明眼の人 井に落ちる」

提婆宗・・禅の第15祖迦那提婆(かなだいば)は片目の禅者だ。龍樹(⒕祖)の弟子にあたり三論哲学、空宗の祖師。昔、インドで排佛の外道(哲学者)と問答して勝利し門外に赤旗を立てて凱歌したと史実にある(提婆達多(だいばだった)とは別人)

新開院の老禅者(巴陵顥鑒)は・・諸法皆空、一切の否定を、詩的な「空即是色」に表現して見せた。

九十六箇・・釈尊出世の頃の九十六人の外道(哲学者)のこと。

◆佛=禅なり・・(buddha仏陀ブッダの略)

賢者、覚者、智者の意。インドでは釈迦出世以前から、普通名詞として使用されています。

大乗(欣求)仏教的に釈迦を「佛」と云った求道者は、釈尊や仏教(宗教)と混同、誤解しています。これは素直に「禅」と表現しておきます。

◆信じる・・とは「人の言葉」と書きます。

【禅者の一語】碧巌の歩記(あるき)NO⒕

この14則・15則は「拈評三百則」上巻第95則と「五燈會元」第15巻雲門山文偃禅師の章でも連続の問答になっており、この碧巌の歩記では、2則を1則とみて紹介します。

碧巌録 第十四則 雲門對一説(うんもん たいいっせつ)

                                                                雲門一代時教(いちだいじきょう)

【垂示】ありません。

【本則】雲門文偃に求道者が問うた。

釈尊が一代に説かれた教えは数々あります。

しかし真理はひとつのはずでしょう?」

雲門「對機一説」(問者に応じての・・応病与薬だから、どれもこれも適切ならざるものはない)

                                                         【本則】挙す。僧 雲門に問う。

                                                             「如何なるか これ一代時教」

                                                             雲門云く「對一説」

【頌】雲門老師の一語は、どの問答でも、ヒトコトで求道者を金縛りにする杭と縄で出来ている。

對一説は「對機一説」と同義・・釈尊臨機応変に対応されたことに、ガンジガラメで身動きできない求道者の様子を現わしている。

この広大な宇宙の片隅の、チッポケな地球の片隅で、大口をたたいた求道者は、臍(ホゾ)を噛んだにちがいない。

それを木陰で笑って看ている者がいる。用心せよ。

韶陽(雲門文偃)老人は、まだまだクイをイッパイ持っているぞ。

                【頌】對一説は はなはだ孤絶。

                          無孔(むこう)の鉄鎚(てつつい)もて重く楔(せつ)を下したり。

                          閻浮(えんぶ)樹下(じゅげ)にて笑い呵々(かか)。

                          昨夜 驪龍(りりゅう)は角を拗(よ)じて折(はば)む。別々。

                          韶陽(しょうよう)老人は一撅(いっけつ)を得たり。

 

【附記】雲門文偃(うんもん ぶんえん852?~949 雲門宗開祖。雪峰義存の弟子。碧巌録第6則、雲門日々好日の公案が有名である。

韶陽老人とは、雲門が広東省の韶陽に住庵している由来による。

頌で、雪賓重顯は「揳(せつ)と撅(けつ)」クイを同意語としている。

釈尊の生涯(一代)は、説法を五時(華厳/阿含/方等/般若/法華・涅槃時)の時代別に小区分したもの。八教(蔵・通・別・円の化法四教と頓・漸・秘密・不定の化儀の四教)を法理分類して言ったものである。天台智者大師の創唱にかかる。この五時八教を一代時教と言う・・と井上秀天著(碧巌録講話)に記述されている。こうした解説は、仏教学者にまかせて、出版の折には、省略、割愛する予定。

いずれにせよ禅者は、独り、不言実行の(禅ニヨル)生活が大事です。

 

◆このことだけは・・何も言えねェ!

【禅者の一語】碧巌の歩記(あるき)NO15

  碧巌録 第十五則 雲門倒一説(うんもん とういっせつ)

【垂示】第十四則に続く・・圓悟の垂示である。

すぐれた禅者は、求道者の問いに、瞬時に総てを奪い去り(把住・殺人刀)・・あるいは総てを与える(放行・活人刀)自在な禅機がある。

さあて今、どれがナンデ、何がコレなのか看よ。

        【垂示】垂示に云く、殺人刀と活人刀とは

            乃(すなわ)ち上古の風規にして

            これ今時の樞要(しゅよう)なり。

            しばらく道(い)え、如今(にょこん)

            那箇(なこ)か これ殺人刀、活人刀なるぞ

            試みに挙す看よ。

【本則】求道者が雲門に問う。

釈尊の説法・・一代時教が「応病与薬」であることは承知しました。

それじゃ・・釈尊は、迷える大衆がいない(TPOの)場合、どうなさったのでありましょうか」

雲門は「何も説かない・・」と答えた。

   【本則】挙す。僧 雲門に問う、「これ目前の機にもあらず。

       また目前の事にもあらざる時、如何(いかん)」

       門云く「倒一説」

【頌】雲門、今度は「對一説」の片割れ「倒一説」と答えた。

どうも この求道者が、お気に入りのご様子だ。

昔 釈尊は、沢山の信者を集めて説法されたけれど、その中で唯のヒトリだけ、拈華に微笑した迦葉に「禅」正法眼蔵・涅槃妙心を附嘱(ふしょく・預け托さ)れたこと。迦葉から達磨まで二十八代。中国二祖の慧可から六祖の恵能まで・・計三十三代。どうにか息を繋いできたが、もともと禅は、ゴリヤクなしの水辺に写るお月様なのである。

        【頌】倒一説は分一説なり。

           同死同生きみが為に訣(けっ)す。

           八萬四千は鳳毛(ほうもう)にあらず。

           三十三人は虎穴に入り。別々。

           擾々忽々(じょうじょうそうそう)たり水裏(すいり)の月

【附記】倒一説・・一説を逆にする/何も説かないとか、何も道(い)えないとかの意。

鳳毛・・釈尊の弟子、八万四千人、すべて禅を託される俊才の者ではない。ただ、わずか三十三人だけが、虎穴に入った禅者と呼ぶにふさわしい、素敵な者達である・・の意。

禅者・雲門の一語「對一説」「倒一説」こそ・・「役立たずの独り坐禅」の公案だと思います。