【禅者の一語】碧巌の歩記(あるき)NO2
碧巌録 第二則 趙州至道無難(じょうしゅう しどう ぶなん)
【垂示】圓悟が垂示した。(現代風の意訳です)
(140億光年もある)宇宙が、いかに広大であるといっても、どれほどに太陽や月など明るいといっても、禅(至道)の般若「空」の前には、先の見えない暗黒(ブラックホール)に落ちたような・・それすら窮屈千万な話となる。
また、例え徳山の棒で、三十回殴りつけたところで・・臨済が雷嚇して「喝」と怒鳴りつけたところで、こんなことが「禅」の極み・・至道である訳がない。釈尊が百万の菩薩を引き連れて説法したとしても叶わないことだし・・「禅=至道」は自らが自悟自得することだから、歴代の祖師といえど、プレゼンテーション(全提)できないこと。
たとえ一切蔵経に書かれても、また達道の禅者であれ、解釈、説明できないシロモノなのである。
さあ、それでは どのようにして、この至道=禅を実現、表明できるか・・いな・・至道を禅ニヨル生活であると云ったり、絶対であると書いたりすることすら見苦しく、口を漱ぐべきことだ。
このことは・・少し、禅を齧(かじ)った者であるなら、今さらに、事を荒立てることはしないだろう。
ただ初心の求道者は、グズグズしないで自分の中で究明して看よ。
【垂示】垂示に曰く、乾坤窄(すぼく)日月星辰、一時に黒し。
たとい棒は雨點(うてん)の如く、喝は雷奔(ほん)に似たらんも、
また未だ向上 宗乗中の事には當得(とうとく)せず。
たとい三世の諸佛(たりと)も、ただ自知すべく、
(たとい)歴代の祖師(たりと)も、全提不起(ぜんていふき)
(たとい)一大蔵経(たりと)も、詮注不及(せんちゅうふきゅう)
明眼の衲僧(のうそうたりと)も、自救不了(じぐふりょう)。
這裏(しゃり)に到って作麼生(そもさん)か請益(しんえき)せん
この佛の字を道(い)うも、柂泥帯水(だでいたいすい)。
この禅の字を道うも、満面の慚惶(ざんこう)。
久参(きゅうさん)の上士は、これを言うことを待たざらんも、
後学の初機(しょき)は直に究明すべし。
【本則】ある日、趙州従諗(じょうしゅう じゅうしん)が求道者に・・至道(禅ニヨル生活)は別段 難しいことじゃない。嫌擇底(けんじゃくてい・・相対的差別・比較・分別)をしないことだ。しかし、文字や言葉で明白底(めいはくてい・・絶対的・禅境(地)をチョットでも表現しようとすれば、タチマチ差別(嫌擇)の世界となってしまう。私(趙州)は明白底の世界にすら囚われたりしてはいない。お前たちはどうだ?・・と問うた。
これに釣られて、求道者が反論した「ご老師の眼中に、差別も絶対もないとキッパリ言われるのなら、至道の差別(嫌擇)はするな・・とか、本来無一物、廓然無聖の 絶対(明白底)もないとか、ソンナ言葉がどうして出てくるのでしょうか。
さらに、お前たちはどうなのだ?とお尋ねなさるのは・・どのお立場でのことですか」
趙州「私も、よく知らないのだ」
求道者「知らないなどとよく言えますね。知らないのなら、どうして老僧は明白裏にあらずと言えるんですか」と切り込んだ。
趙州「お前さんの理屈はナカナカのもんだが、この話は終わった。礼拝をして退席するがよい」と答えた。
【本則】挙す。趙州、衆に示して云く「至道(しどう)は無難。
ただ嫌擇(けんじゃく)を嫌う。わずかに語言あらば、これ嫌擇。
これ明白。老僧は明白裏にあらず。
これ汝また護惜(ごしゃく)すや否や」
時に僧あり問う「すでに明白裏(めいはくり)にあらずんば、
この什麼(なに)をか護惜せんや」
州云く「我もまた知らず」
僧云く「和尚すでに知らざるに、何としてか却(かえっ)て
明白裏にあらずというや」
州云く「事を問うことは即ち得たり。
礼拝し了(おわっ)て退(しりぞ)けよ」
*老師・・先生の意 *至道無難 唯嫌揀擇・・支那、達磨⇒慧可⇒に師事した三祖 鑑智僧璨(?~606)の語録「信心銘」の四言二句の七十二の対句から抜粋した詩(584文字) *嫌擇・・大小・正邪・美醜・黒白・愛憎・生死など比較・差別の意 *明白裏・・至道(禅)の絶対性・洞然明白・金石麗生の意
【頌】至道は無難(行うに難しいものではない)と鑑智僧璨(かんちそうさん)が信心銘で述べている。世間の人は日頃の朝の挨拶「お早いことです。今日も元気で仕事しましょう」英語で「good Morning」毎日、日ごとに佳き(GOOD)な朝ですネ(悪い日などない)・・と言っているが、自然や社会は何時でも、何処でも、至道に、無尽蔵に、アルガママに良き日だけで悪(あ)しき日はないのである。
世界は 差別とか絶対とか、そんなコダワリの中にはない。
山が高いから雪が降るのか・・空が寒いから雪となるのか・・ドッチもドッチだ。
至道そのものから見れば、髑髏(どくろ)すら美しく生きている。髑髏が寂寥の風吹き声で歌を歌うのが聞こえるのも、枯木のヒョウヒョウと奏でる龍吟も、一にして一ならず、二にして二ならず、天地が同根に流転している働きである。
だが、所詮・・これは理論・・口先、言葉に過ぎない。この至道を「禅ニヨル生活」に織り込んで、冬温かく、夏は涼しく・・好き嫌いなしで暮らすには、凡人にとって無難どころか至難の努力が必要だ。このことは趙州が云わずとも、独り一人が発見、体得することである。
【頌】至道は無難と、言も端(たん)なり語も端なり。
一なれども多種あり。二なれども両般(りょうはん)のみにあらず。
天際(てんさい)に日上(ひのぼ)れば月下(つきくだ)り、
檻前(かんぜん)に山深ければ水寒し。
髑髏(どくろ)の識(しき)は盡きるも喜(き)何ぞとどまらん。
枯木の龍吟は鎖(しょう)したるも 未(いま)だ乾(けん)ならず。
難難(なんなん)。嫌擇と明白とは君自(きみみず)から看よ。
【附記】趙州従諗(778~897)唐代、武宗皇帝が寺院四萬餘寺を打ち壊し、僧尼二十余萬人を還俗させる仏教迫害の荒廃した社会にあって、あまたの禅者のみ深山幽谷に遁れて難を逃れていた時代・・背景である。
チョウド趙州が25才(802年)の頃、日本の最澄(伝教大師)37才で入唐。27才の頃、空海(弘法大師)が32才で入唐している。これは禅が日本に伝わる初期にあたる。
この碧巌録では、趙州従諗は、この第二則を皮切りに、計十二則も登場する、まるで唇から光を発するかのようだ・・と例えられた達道の禅者である。師の南泉普願に30年間仕え、師が遷化したのち、60歳から求道行脚、行雲流水に徹底し、120才・・禅ニヨル生活を全うした卓越の禅者である。
無門関では第1則「狗子佛性」・・禅機禅境(地)両方を問われる、難透の公案で登場します。