『カサ~コソ・・と、枯れ葉と風のフラダンス!』

自力・他力、哲学、欣求宗教ETC・・何の力も借らず・・禅を自覚!

(前略)禅において最も注目すべき事は・・宇宙や生物・人類の興亡のみならず、我々自身の苦しみと危機を・・人間あるいは自力・他力、あるいは危機を救う神の力「deus ex machina」なしに・・全く何の力も借りず解決できうるということである(後略) 

鈴木大拙選集 第24巻 【大拙と禅を讃えて】R・H・プライス       

この1冊 保存版 第2刷追巻第3巻(株)春秋社発行 (後略/抜粋要約p278~英文解説 石橋 裕訳16頁の15頁目)・・ラストのR・H・プライスの英/訳文を読み終えて、著者 鈴木大拙先生が、発行の昭和37年頃(僕が19才 明大の2回生頃)北鎌倉 円覚寺の向かい側、駆け込み寺=東慶寺 山頂の松ヶ丘文庫に坐住、執筆されていたのを思い出した。                          

父が戦前から、参禅の師として師事、法人 松ヶ丘文庫の創設に奔走したご縁があればこそ・・またそれ以前、富山県高岡の臨済宗 国泰寺で江南軒勝平大喜老師に参禅して「大魯」の居士号を受け、また{禅}を世界に紹介した・・鈴木大拙翁から「白鷗」の居士号を、重ねでもらった稀な禅境書画 作家であつた。1914(大正3)年9月28日~2007(平成19)年1月3日(寅・逝去)

達道の禅者は、自分をヒケラカサナイ。自分に正直な生活・行動をする。

禅者は他のことは云わぬ。何故なら「他は誤魔化せても己れの心は誤魔化せぬこと」を、骨の髄まで・・身に染みて承知しているからである。                  

私が父のことを、このように記録しているかというと、生前に・・「禅の墨蹟書画全集」の発行制作を約束しており、どうやら体力・気力ともに衰えてきたので、明年あたり写真を撮影・準備しなければならない時期がきたからです。

禅境書偈・墨蹟画は、文字、言句に頼れない禅(境地)を代弁して、よくその禅機・禅境を表現すると思います。

禅は、もともと「独り自分を自分独り=生活・体験する」そのものだからです。

禅は宗教でもないし、道徳やヨガ、茶道や柔剣道のような錬磨修行のようなものでもアリマセン。禅を世界に知らしめた仏教・宗教哲学者・・禅者である鈴木大拙翁といえど、独り「冷暖自知」するにしかずと、禅の公案を引いて事例を紹介するのが限度なのである。

だから、とりわけ外国人で「禅」に関心のアル方が、東洋の神秘主義に憧れたり、鈴木大拙全集を齧り読みして、ドップリ英文や外国語文献に浸りこんで、日本を尋ねても、著名な禅寺を尋ね、団体で、カシコマッテ「独坐大雄峰」を型真似したところで、無功徳・無一物の禅はドコニモ見ツケルことは出来ません。

文字や言葉でない【生きた禅ニヨル生活】は、独り・・自分の中だけで・・ウソだらけの自分を、坐禅で剥ぎ取り振り捨てて忘(失)しなければ・・逆に摂取することは出来ません。

イヤ・・アリガタ提唱や有料の坐禅会、有名寺の観光禅・・これでは日本から「純禅」が絶滅してしまいます。

冒頭、自力/他力/神仏・哲学など・・何の力も借らず 独り自(おの)ずから会得する境地を、鈴木大拙選集 第24巻 P158の禅問答から紹介しておきます。

般若寺 啓柔禅師が上堂の際 板声が三度高らかに打ち鳴らされるのを聞いて、大衆はすべて堂に集まってきた。

そこで師 一偈を示して曰く『妙なるかな 板鳴ること三声、諸僧 みな来参す。すでによく時報を心得ておるから、今わしが改めて繰り返すには及ばぬ』

こういったまま師は堂を去って退いたソウナ・・(同-雲六/五十五丁のA) 

 

有(会)難とうございました。

(注)禅者の一語/禅のパスポート/羅漢と真珠・・いずれも同一テーマを貼り付けています。

坐禅について(高校生/若者と老生の方々の求道の問いに)応えています*       

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