数息のイス禅は、心の免疫をつくる!

◆息(呼吸)は・・心の免疫づくり!

赤チャンが誕生する時、力の限り泣きます。誰から教わったのでもない、この世に生まれて、初めて息をするのに産声をあげるのです。 

赤ちゃんが「生きる」第一の働きは、息(呼吸)をしたこと・・息(イキ)は「自(おの)ずから心を生(しょう)ずる」と書きます。

誰もが、当たり前にしている息が、坐禅の一番、大事な出来事なのです。

坐禅は、まず・・息を数え、息と姿勢を整え、眠らぬよう目を半眼にして行います。昔は、数息(スウソク・息を数える/呼吸)を何万回と数えたり、南無阿弥陀仏と口の中で祈念したり、ヨガの姿勢にしたり、滝に打たれたり、いわゆる集中する修行を集団でしたのですが、無心とか三昧とか、・・ナカナカ団体、組織的な難行苦行は、気が散って成功しません。

現代でも寺僧の跡継ぎを養成する専門道場が、トマトや苺の温室栽培もどきに、形式重視の坐禅研修をして坊さんの資格を与えています。

佛教を生業(ナリワイ)にする僧籍でない一般人は、自宅や仕事・職場、学校の合間に独りで行う・・リラックスした正当な坐禅をなさるよう推奨します。

坐禅に効能書きは要りません。独り接心ともいう坐禅は、独りで、それこそ3分間ほど、静かにやることができれば、達磨 無功徳の禅が体現してきます。

「禅」を建物とすれば、チャント「玄関」=数息・・呼吸から入るのです。

*玄関・・禅語・・最初の関所・・入口の意。

知識や迷いや欲望など、身に着けた思惑、造作を忘れ、捨て去る時・・最後に残るのは「呼吸」と「心臓」の働きです。

此のふたつとも、自分で自分の制御が出来ないことなのです。

制御の不可能なことを成している人間の、もう一つの大事な点は「思考を思考することの出来ない」ことです。

頭脳(思考・感性)は、本能から発達した「言葉や文字」によって思考しています。つまり、産まれた時からの、母親や兄弟や学校などの教育と社会環境で学んだことを、比較し分別して、わが身の利害、損得に利用、判断している訳です。

では、自分と他者を区別する「免疫」のメカニズムはどうなっているのでしょうか。自他を分別するには、自他共通の土台がないと区分できないはずですが、何を自己とし、何を異物として認識するのでしょうか。それにアトピー性皮膚炎とか花粉症は、自己免疫の過剰反応だといわれますが、どうしてソンナ間違いが起こるのでしょうか。不思議です。

*この免疫の考察は、医学者や生物学などの学者、先生にお任せします。

私は、身体と同様、精神(心)にも「免疫作用」があると思っています。

これを、心(霊性)の免疫と呼ぶことにしていますが、それぞれの人が、一人独り、自己参究する・・坐禅の数息(呼吸)から始まり、分析、区分できない矛盾の公案から・・突然、頓悟(飛躍)・・見性/自己同一/透徹・・の自覚(境地)にいたる・・それでいて、ハッキリ、禅ニヨル生活を淡々と営んでゆく・・そんな境地を、悟りと言い、この心の免疫を体験(体得)した悟者を禅者という・・と思うのです。

つまり頭脳の神経回路が、普段の思考回路とは別に、公案を拈弄するうちに直観(霊性)的な共感回路として創られ、結成するのでないか・・文字を書けなかった米つき恵能が、突如 頌(悟りの詩)の代筆を頼んだり、梅の香りで大覚したり、竹に石の当るカチンと云う音で見性したりする禅者の・・大悟するのは釈尊以来、独りひとり、さまざまです。坐禅して悟るのではアリマセン。

禅を海外に紹介された、故・鈴木大拙先生(仏教学者・禅者)は、白隠慧鶴の「毒語注心経」・・般若心経の毒舌的解説の書・・の不生不滅の項の一節・・手臂不向外曲(手臂 外に向かって曲がらず)の一語で悟られた・・と、大森曹玄著(株)春秋社発行にあります。

手首やヒジは、内に曲がっても、海のタコではあるまいし、外側には曲がりません。この当たり前の、誰でもわかっている「不自由な自由」の事実に、どうして禅機(悟り)がヒラメキ・・一瞬の内に「天地同根・真空妙用」が体観できたのでしょうか。

後年・・禅者(仏教学者)鈴木大拙翁は、アメリカで「ZEN」に入門するには、どうしたらよいのか・・の問いに、哲学的仏教的解説を加えられることなく、サラリと・・机をコツン!と叩かれて「ココからどうぞ」と答えられたそうです。どうして、コンナ音一つでZENにわが身が投入され、公案が透化されるのでしょうか。

不思議です。この悟りの実態を、もっと脳内革命として研究する禅学者が出てきてほしいものです。

禅を「心の免疫」というのは、身体の免疫(細胞)が、他と自己とを、どんな仕組みで判断、区別してしまうのか・・極めて単純、自由闊達な答えがあると思うのです。それには・・理屈や造作抜きに、無功徳の達磨禅・・役立たずの数息イス坐禅を、独り行なうこと・・分別・意識・好嫌・感情や自利他利の損得が及ばない・・ココロのTPO状態でのみ、禅機・発見・悟りといわれる「心の免疫作用」が機能機作する・・と今のところ思っています。

心の免疫は、体の自己免疫同様、独り一人に備わる無功徳な働きですから、頭脳(の認識)に関与しない・・数息坐禅の実行で体得してください。

よくわからない免疫のことを、禅の場合に当てはめてみました。碧巌録第3稿の編集の合間に、無功徳(無価値)の一人坐禅をご紹介しました。

有(会)難うございました。