碧巌の歩記(あるき)NO83 ♪ホ-タル来い・・こっちの水は甘ーマイぞ!  

Q,どうして「役に立たない」坐禅を力説されるのですか? 

これでは・・ワザワザ奉魯愚(ぶろぐ)を読んでくれるな・・という態度じゃないですか?

単的にお答えします・・体が疲れたら、どうしますか?

動かないようにして、休ませますね。

では、頭脳はどうでしょう。

詳しくは脳科学者の研究に任せるしかありませんが、肉体の休む夜であってもたゆみなく頭脳は、夢を見ながら働いているそうです。

それでは頭脳は、疲れることを知らないのでしょうか・・

私は、頭脳の疲れ(ストレス)を取るのは、肉体が動くことをやめて、疲れを取るように・・「何も考えない」ことだと思っています。ところが「何も考えない」ことを「考え・・」てしまうのが頭脳なんですね。何も考えずに休んでいるといっても、休んでいるはずの頭脳は、休まずに「自分の利得を考えて働いて」いるのです。

頭脳の「考える」という本能的な機能機作を、自然に休ませるのは、催眠術や麻酔(麻薬)ではなく、科学的に解明されていない・・どうやら「禅」によるしかないようです。

絶対矛盾的自己同一・・と西田哲学では言うそうですが、論理や分析的思考では、歯の立てようのない=解明不可能な「公案=禅語」命題を脳に与えて、その頭脳の働き(分析・解明、思考)を放棄させてしまうのです。

つまり達磨の「壁観」坐禅法=独りポッチ禅です。

例えば ●「両親が生まれる以前のお前とは何だ?」とか・・あるいは・・●「両手を打てば音(拍手)がするが、片手の声はナント言っているか?」・・

「闇の世に泣かぬカラスの声を聴けば、生まれぬ先の父母が恋しい」とはどうゆう事か・・

●般若心経の「眼や耳,鼻,舌,身體,意識」はあっても「看る、聞く、味わう、触覚、意思する・・心の働きはない」とは、どういうことなのか?

●「禅(悟り)とは何ですか?」禅者の答え「その柱に問え」・・あるいは「金石麗生(きんせきれいせい)」や「黄金は糞土の如し」など、どうした観点・実感で云えるのか。

●自分とは何なのか?・・何のために生まれてきたのか?

●どうして坐禅をするのか?・・坐禅で何を得たいのか?

この「何故・・どうして・・何のために・・」の想い(好奇心=思考)が続くかぎり、人は安心して仕事したり、ぐっすりとした眠りにつけません。まして、欲得、利権の亡者や有名・権勢病に憑りつかれると、顔つきまで変わります。

また、思い(妄想)に取り憑かれてしまうと、よく街中で見かける「スマホ」教信者・・と私は言います・・のように、周囲の景色や人の動き、花や鳥、自然の美しさまで・・見えても見えなくなるのです。いや、見えていても見えない自己中=ストレス「こだわり・・執着」の、依存症状・・中毒的症状になってしまいます。

ゆるぎない安心の境地を求めて、達道の禅者に教えを乞う、次の公案・・イキナリ超能力な異次元空間に放り出されたような問答を看てください。

この碧巌録は、今から千年前にできた禅語録です。

坐禅の「役立たず」そのままが禅者の話でまとめられています。

この中の、どれでもよい・・一則の問答に【?】と感じられたら、それが「役立たずの頭脳休息のテーマ」です。嘘も方便とばかり、座禅を組めば悟りが得られる・・とか、心が安らぐとか、捨てきれば落ち着くとか、効能効果をいう提唱・修行は、悩みや想いが深まるばかりです。思い切って、自分に「これは役立たず、ロクデナシの坐禅だ」と、ダメモトでスタートするのが肝要です。

 

 碧巌録 第八十三則 雲門古佛露柱 (うんもん こぶつ ろちゅう) 

【垂示】欠如・・言葉を絶して・・ありません。

【本則】雲門文偃が坐下の求道者にむかって、「禅機」を語った。

「この本堂にある古佛像と、本堂の円柱とは深く相関しているが、それはどんな(時の)ことであるか・・」と、一足飛びに時空を超えた問いを発した。

座下の者たち、いずれも無言なので、雲門は有名な「日日是好日」の如く・・その自らの問いに自ら答えて云わく・・

「南方の山に黒雲が湧き起これば、北方の山にザアザア雨が降る」

   *擧す。雲門、示衆して云く「古佛と露柱と相交(あいまじ)わるとは。

    これ第幾機(だいいくき)ぞ」

    自(みず)らかわって云く「南山に雲を起こせば、北山には雨をくだす

【頌】南山に雲湧けば、北山には雨が降ると雲門は言っているが、禅を伝えたすべての祖師たち(釈尊から達磨、恵能)は、当然のことと承知している仏殿の仏像と柱の関わり合いである。

それはチョウド、大唐国で法事の太鼓や鐘を搗く・・合図の前に、すでに遠く朝鮮、新羅国で、法事(上堂式)をやっているような出来事だ。

誰かが(禅月貫休の詩中に・・)苦、却(かえ)って楽。楽却(かえ)って苦とか。黄金は糞土の如しとか言っているが、こんな見解(けんげ)では確かなモノにはなっていない。

(ハッキリ言えば、苦即楽。楽即苦。これは言葉は悪いが、味噌くそ一緒・・だが天地同根や無依の真人には、チャントしたケジメがいるのだヨ)

  *南山には雲。北山には雨と。四七二三まのあたり相観(あいみ)たり。

   新羅国裏(しらぎごくり)にては、かって上堂せり。

   大唐国裏(だいとうこくり)にては未(いま)だ皷(く)を打たざるに。

   苦中には楽。楽中には苦。

   誰か道(い)いしぞ、黄金は糞土(ふんど)のごとしと。

 

【附記】禅者の一語・・雲門の「日日好日」は、碧巌録 第六則にあり、毎日が良き日であるように努めましょう・・などと、宗教・倫理の言いそうな、現代語意訳をしている本や、作家にでくわします。大間違いです。無門関 第十九則「平常心(びょうじょうしん)」是道や、大鑑慧能「本来無一物」・・あるいは「放下着」「喫茶去」など、どの禅語の解訳をみても、坐禅などしたことがないようなの人の、文字解釈にすぎない意訳です。

おり、おりに、このような附記で、命懸けで修行体得した「禅者の一語(悟)」を紹介します。雲門の「平常心」問答・・素玄居士の「一語」・・公案に即することがあっては、透過(悟り)することなし・・の、甘くない「一悟」を記述しておきます。

●9/17補足【首吊りの足にかみつく野犬かな】この頌、間違って第44則の頌を紹介しました。この頌でも、平常心の「禅者の一語」たりえるのですが、理解される人・・まずいないと思います。さて、確認の結果・・以下のとおり・・「禅は、大学の口頭試問じゃあるまいし、口先のペラペラはどうでもよいのじゃ・・」素玄曰く「カラスがカアカア鳴いている。雀がチュンチュン鳴いている。それで私もチュンチュン、カアカア」

この「何が・・平常心」なのか・・納得できない人が、意味・解釈をするのは、すべて誤訳です。

♪ホウタル・・コイ・・こっちの水はカーライぞ!

【首吊りの足にかみつく野犬かな】

♪ホウタル・・コイ・・あっちの水もカーライぞ!