碧巌の歩記(あるき)NO5 ◆鉄鉢(てっぱつ)の中へも霰(あられ)・・山頭火

【禅者の一語】 

     碧巌録 第五則 雪峰盡大地(せっぽう じんだいち)

                     雪峰粟粒(せっぽう ぞくりゅう)

【垂示】圓悟が求道者に垂示した。

時代を指導し薫陶する人は、英俊麗妙でなければならぬ。

キョロキョロ、アチコチ周囲ばかりを慮(おもんばか)っての輩には務まらない。*宗教・・根本を認知、体得した教えにより人を感化させること・・の意。

状況に応じ、即座に大悟徹底させうる活殺自在であり、また実態や現象など有事に拘泥せず、空観に拘泥せず、まったく円融無碍(えんゆうむげ)の禅者であらねばならない。

だが初心者を指導せねばならない時、最初から文字言句を捨てて行うことは、かえって求道者を迷わせ、無関心を装うことにもなろう。

ワシ(圓悟)とて過日は説法、今日も引導と、実に罪科(つみとが)の多い事ばかりしている。しかし、この大衆の中に、即今見性して禅機・禅境(地)に成る者があるとするなら、舌を斬られ、眉毛が無くなることも厭(いと)わない。

もし聴いている お前たちに明眼の士なくば わが説法は大毒。

まるで虎口に身を横たえたようで、助かる術はない。

ここに 達道の禅者 雪峰義存の一語があるから話してやろう。

       【垂示】大凡(おおよそ)宗教を扶竪(ふじゅ)せんには、

           人を殺すに眼(まなこ)を眨(きっ)ざるていの手却ありて、

           まさに立地に成佛すべし。

           ゆえに照用(しょうゆう)同時、

           卷舒(けんじょ)斎(ひと)しく唱え理事不二、權實並らべ行なう。

           一着(いちじゃく)を放過(ほうか)して、

           第二義門を建立(こんりゅう)し直下(じきげ)に葛藤を裁断すれば

           後学初機は湊伯(そうはく)しがたからん。

           昨日、恁麼(いんも)なりしは 事やむをえざりしなり。

           今日もまた恁麼、罪過(ざいか)彌天(みてん)なり。

           もし是れ明眼(みょうげん)の漢ならば、

           一點(いってん)も他を謾(あなど)ることを得ず。

           それ或いは未だ然らずんば 虎口裏(ここうり)に身を横たえ

           喪心失命(そうしんしつみょう)を免(まぬが)れず。

           試みに挙す看よ。

【本則】支那、福州の雪峰義存は 座下の求道者に垂示した。(現代風に意訳します)

この140億光年に広がる宇宙は、電子や量子より小さい一点から、膨張したものだと言われている。

満天の星屑を眺めていても、それが指の先で摘まみあげられるほどのものなのに、アタマ・デッカチには理解できない真っ黒けのケだ。さあ、TVやPCでお互い知らせ合うなり、望遠鏡で探すなりして、身の程に合った宇宙とやらを探し出してみせて看よ。

             【本則】挙す。雪峰 衆に示して云く。

                 盡大地は撮(さっ)し来たるに 

                 粟米粒(ぞくべいりゅう)の大きさのごとし。

                 面前に抛向(ほうこう)するも、漆桶不會(しっつう ふえ)。

                 鼓(く)を打って普請(ふしん)して看よ。 

【頌】地獄の獄率、牛頭、馬頭たちは、とっくの昔、姿をくらまし

曹溪慧能(そうけいえのう)の頓悟禅には、明鏡また台に非ず・いずれにか塵埃を惹(ひ)かん・・とある。

まったく宇宙の根源は、塵ヒトツ見当たらないことになってしまった。宇宙の果ても、地獄の果ても 如何なる電磁的遠眼鏡を発明しても見極めのつかない 名もなき「∞」である。思考の限りをつくしても、宇宙(禅)は解明できない。たとえ・・大発見できなくとも、それはそれとして、春の来たるに及んで、百花、誰のために競い開くのか・・?

・・このWHY?に 答えてみよ。

          【頌】牛頭(ごづ)は没し、馬頭(めづ)は囘(かえ)る。

             曹溪(そうけい)の鏡裏(きょうり)に塵埃(じんあい)を絶したり。

             皷(く)を打って看せしめきたるも、君には見えざらん。

             百花の春に至りて、花開くは誰が為にぞ。 

【附記】あえて千年前の公案と禅者の教導を紹介するのは、禅は独り一人にあり、それぞれが自覚して、それを生活の中、仕事や暮らしに行じていく・・つまり「禅ニヨル生活」をすることに尽きるからです。まして、どの公案でもよい・・自分が「WHY?」と関心を持った禅者の一語(悟)を、自分なりに突き詰めて行けばよいだけで、坐禅すら役立たずの、独りポッチの自己追及です。

雪峰義存(822~908)は三たび投子山(とうしざん)の大同に・・九たび洞山の良价に参じて、飯炊き(典座・てんぞ)役の奉仕をして禅境(地)を深めた大器晩成の禅者です。彼の道友に、巌頭全豁(がんとうぜんかつ)と欽山文邃(きんざんぶんすい)の三人が伴侶として行脚しています。

私の好きな話の一つ・・師の徳山宣鑑(とくさんせんかん)が遷化した後、巌頭と雪峰の二人が湖南禮州の鼇山鎮(ごうざんちん)で、大雪で立ち往生して民家の納屋で数日、雪の晴れるのを待っている時、巌頭の一語に雪峰が大悟徹底した鼇山成道(ごうざんじょうどう)があります。

まだ未徹底だった雪峰、寝る間も惜しんで坐禅三昧の傍(かたわ)らに、寝るほどの楽はなかりけりの巌頭。たまりかねて雪峰が安心(さとり)について問いかけ、自分の苦心談を語ります。話が終わる前に、巌頭は、ピシりと無門関の冒頭、無門慧開(むもんえかい)の序の一節「門より入るものは是れ家珍にあらず」と喝します。

他から学得した一切のものは、他人の宝物。借り物は捨て去り、直に本来の自身の流露する・・これを吐き出せ・・と。

機は熟して雪峰 忽然(こつぜん)と大悟した。

山頭火の詩を添付しておきます。

◆ひとりひっそり竹の子竹になる・・山頭火(1882~1940)