坐禅させるものの働きを知れ(故・鈴木大拙翁/禅者・佛教学者)

「悟り・解脱」に「坐禅」は必要か?

今迄【役たたずの坐禅】は、悟り(解脱)への道程に必要な出来事と言ったり書いたりしてきました。

数息のイス坐禅が出来るようになって、無門関や碧巌録の話の一つも、何を言っているのかな・・どうして噛み合わぬ問答なのか・・何故だろう?・・と思い至れることになったら、独り坐禅を捨て果ててください。役立たず(無功徳・ムクドク)とばかりに、捨て去り、忘れ去るのが最も大事なこととなります。

 

無門関 無門慧開の序(冒頭)にある「門より入るものは是れ家珍にあらず」・・「なんぞ言句に滞(とどこお)って解會(げえ)をもとむる・・をや」人間の五感(見る、聞く、觸る、嗅ぐ、味わう)から認識できるものは、本当に(価値ある)宝とするものではない。

街中で薪を売って母を養っていた恵能(638~713)が、思い至って五祖法演の寺に入り、山猿と罵(ののしら)れながら、米つきをしていた時に「菩提もと樹にあらず、本来、無一物」と喝破したのは、決して、坐禅したから悟り得たことではありません。

むしろ、臨済義玄臨済宗開祖?~867)の出た頃までは、坐禅は瓦を磨いて鏡となすような・・愚かな出来事として・・南嶽懐譲(677~744)とその弟子、馬祖道一との磨甎(ません)問答・・のごとく、必要条件ではアリマセンでした。

鈴木大拙翁は、上田閑照・木村静雄との対談「臨済録」を語る・・の「生活の中の坐禅」で「坐禅のはたらきというより、坐禅をさせるもののはたらきだ。そいつを見にゃいかんとわしはいうんだ。 坐禅にとらえられると坐禅の中にいろんな妙な境涯を見ることになる。坐禅を主にする人は、その中から起こる境地を本物だと思う。心理学者や精神分析の人が好むところだ。そいつがいけないんだ(中略)鈴木大拙座談集第5巻 発行読売新聞社・・のように言葉(文字)に囚われて、三昧の境地を禅の境地と思い込みます。

これに警告しておられます。

先日、足かけ50年近く京都で水墨・日本画の京表具をしている方とお話しする機会がありました。

お話の隅々に、タガが職人・サレド職人の、表具師の気骨と正直な「三昧な仕事と生活態度」が感じ取れて、爽やかな想いでした。書画の表装という表に出ない裏方仕事・・一心不乱、無我夢中の仕事に埋没して、我を忘れるのを三昧(ザンマイ)といいます。

この三昧境地は坐禅や瞑想から得られるものとは限りません。

これを禅の境地だと思い込む・・あるいは求道者に、それがサトリへの道筋だとか、精神安定の効用があるのだ・・とか、教導することが、かえって、純禅(解脱)を妨げることになるのです。本やお経や修行・坐禅(瞑想)の教導などに、まるで蜘蛛の糸に囚われてしまうようになるのが、一番、なってはならないことです。

 

ドダイ、悟りといい、頓悟・見性といい、大覚・成道と言い、解脱と道い、用語はいろいろありますが、三昧境地を含めて、すべて・・ソンナ境地は「禅による生活」の境地ではアリマセン。

前に書きましたが、自覚(大悟)したという自覚があるとすれば、それは・・まだ自覚していない・・下らぬナマザトリの証拠です。

チョウド ドコカノ国の政治家が、遺憾に堪えません!とか、反省します!とか・・口で言う内は、叱られた子供のアヤマリ同様、反省していないことなのです。

酒のみ運転で捕まった者が、私は酔っていない、正気です・・と主張するようなものです。

蕎麦屋の釜の中です(湯・ユウばかり)

 

誰からも何の教導も受けず「独り坐禅」は役立たずで行い、自然な数息が出来るようになったら、そんな坐禅すらも忘れて・・禅語録(無門関・碧巌録)の、引っ掛かりのできた1則の【WHY?】に向き合うことです。自分の、何処からか湧き上がってくる【どうして?】だろう・・の、解決のつかぬ思いが、数息坐禅と入れ替わってくれるのです。

どうやら・・そのあたりから、自分の独りポッチの立ち位置(坐り位置・行住坐臥)がボンヤリ見えてきましょう。

世界的なコロナ騒ぎが、政治や社会的な変革の機となりました。この事件は従来の禅にとって滅びの一撃となりましょう。跡には観光・拝観禅つまり寺僧の生業(ナリワイ)禅や効用効果を求める心理坐禅が細々と営業を続けることでしょう。

逆に云えば、純禅にとって、願ってもない告知・認知のチャンスです。

極点を目指すためには、磁石・・この場合は、自分のココロの中の【WHY?】です。そして、歩き(生活行動)です。

達磨の坐禅は、役立たず(無功徳)WHY?です。

目的地は、廓然無聖カラリとした青空)です。