独り坐禅は何時まで続ければ良いのでしょうか?

三分間独りイス坐禅の入門と卒業・・

10年有余の間・・禅は宗教ではない。まず、組織や集団や仲間(二人)以上で、坐禅・修行をしても、悟り(解脱・見性、大覚)は得られないことは、千年昔の碧巌録や無門関を読めば明らかです。

この役立たないタッタ3分間、数息18回(6回×3回繰り返し)で充分。椅子に坐ってでも寝ながらでも・・こだわりなく出来るようになってください。次に、折々に、碧巌録(意訳中)を、どのページからでも読んで、思わず「なぜ・・WHY?」と、引っかかった禅者の修行話を、3分間独り坐禅のテーマにして、繰り返し思い起こして坐禅してください。だんだん役立たず(無功徳・嘸功用 ムクドク・ムクヨウ)の意味が、納得されてきたら、無門関(意訳中)に移りましょう。

素玄居士の提唱中の偈を深く、うなづけるようにならなくてはなりません・・

(禅語録を提唱する禅者は、その大覚したことを その公案ごと、意見できなくてはなりません)・・ここまでです。これまでです。

アナタは・・禅語録などの本に頼り、坐禅の仲間や師の教導に頼り、役立たずだと明言している、この奉魯愚に頼り・・ナントナク、ワカッタ(解った/判った/分かった/別った)ような・・気になり・・思いに囚われているのです。

つまり達磨の道う「無功徳」役立たず・・の坐禅(純禅)から、一歩も抜け出せずにいるのです。

純禅には、進歩も退歩もありません。本来、自分の中にある、無依(無位)の真人(臨済義玄)を発見すること・・に尽きるだけです。・・から、今一度、碧巌録を読んでください。

◆オヤッ・ナンダ・・どうしてだ・・求道者の言動は?

禅語録に登場する求道者たちで、坐禅の最中に悟った者は、一人もいないことに気づかれるでしょう。

ある者は梅の香りで・・ある者は掃除の最中に・・ある者は指をチョン切られて・・ある者は、行灯を吹き消されて・・ある者は、振り落とされそうになった馬の首にしがみついて・・ある禅者は、自分の腕、臂(ひじ)が、逆に曲がらないことに気づいて・・釈尊ですら、胡麻一粒の難行苦行の末、スジャータの乳に助けられ、身心共に、コンデションを整えられて、菩提樹下、坐禅をされたそうですが、大覚(解脱・見性)されたのは、坐禅の最中ではなく、坐禅の坐を立とうとされて、明け方の明星・・金星の輝きが、瞳に飛び込んできた瞬間でした。

釈尊は「不思議だ・・総てのモノ(山河草木)が、悟りに輝いている」・・と叫ばれたそうです。

◆次からは「役立たず(無功徳)」すら 忘れ果てての坐禅です。

最近、コロナ自粛のおかげで、外縁に振り回されていたスマホ幽霊のような若者たちの正気が、少し戻って来たようです。

私は、まず役立たずの「坐禅」=調心を身に着ける・・癖を持つ事。これなら、日常生活で、その癖が忘れられる・・のは、比較的、たやすいことになる・・と思います。

千数百年前、達磨西来から数えて六代目、慧能大鑑(638~713)は、街角に薪を売って母を養う、文字すら読めぬ山猿でした。

寺に入って、年がら年中、米つきバッタの生活の中で「本来無一物」を発見したのです。

この坐禅してからでなけりゃ悟れないと云うのじゃないんだ・・の発言は、世界に禅を知らしめた仏教学者・禅者 鈴木大拙鈴木大拙座談集 第5巻「臨済録を語る」上田閑照/木村静雄との対談項「生活の中の坐禅」編集 古田紹欽(財法)松ヶ岡文庫/発行 読売新聞社・・に詳しい。

◆この坐禅すら忘れ果てて生活する(大地に)・・それが「禅ニヨル生活」の発芽です。

この時から、碧巌録や無門関ですら無功徳となり、坐禅三昧ですら、役立たずとなります。

宗教、寺僧との親離れ子離れをしないと、世界の禅は絶滅します。

この坐禅からの卒業については、今少し、掘り下げて解説します。

有(会)難とうございました。