あやまちを改めざる・・これを・・

【禅者の一語】碧巌の歩記(あるき)NO7 

◆過(あやま)ちを改めざる・・これを過ちという(論語 衛霊公)

                                        碧巌録 第七則 慧超 問佛(えちょう もんぶつ)

【垂示】圓悟が座下の求道者に云った。

それぞれ人の生きるべき道はそれぞれにある。それを文言、哲学をもって表示しようとしても、叶うわけが無く、他人に伝授はできない。

本来の面目といい、無位の眞人といい、個人の自覚なくしては猫に小判、価値などあろうはずがない。

たとえ多少の自覚が芽生えたにしても、たちまち迷妄の嵐にまきこまれて、カラスのカア、雀のチュンにも及ばぬナマザトリだ。

天にも地にも、ただ独り、大笑いできる奴だけが少しはZENを会得したと道(い)えるのだ。

否、それとても悪臭無限。

では・・なすこと、やる事・・自由自在、融通無(ゆうずうむげ)の禅者にはどうしたらなれるのだろうか?儂(圓悟)の云うことがわかったか・・と尋ねても、求道者一同、沈黙状況。せっかく、うまい水を飲ませてやろうと、水飲み場に連れて来たのに、鈍馬は飲もうとせぬ。

それはそれとして、ここに雪賓が提起した公案。ひと齧(かじ)りしてみるがよい。

   【垂示】垂示に云く、聲前の一句は千聖も不伝なり。

       いまだ曾って親覲(しんごん)せざれば、大千を隔つが如し。

       たとえ聲前に向かって辨得(べんとく)し、天下の人の舌頭を截断(せつだん)するも、

       またこれ性懆(しょうそう)の漢にあらず。

       ゆえに道う。天も覆うことあたわず、地も載(の)すること能わず、

       虚空(こくう)も容(い)るること能わず、日月も照らすこと能わず

       無佛の處に独り尊(そん)と称して、はじめて些子(さし)にあたれりと。

       それ或いは いまだ然らずんば一毫頭上(いちごうとうじょう)に於いて 

       透得(とうとく)して大光明を放ち、七縦(じゅう)八横(おう)、

       法に於いて自在自由、手にまかせて拈じ来って不是あることなし。

       しばらく道え、この何を得てか、かくの如く奇特なる。(また云く)

       大衆 會(え)すや。従前の汗馬(かんば)人の識(し)るなし。

       ただ重く蓋代(がいだい)の功を論ぜんことを要す。

       即今のことは しばらく致(お)く。

       雪賓(せっちょう)の公案 また作麼生(そもさん)

       下文を看取(かんしゅ)せよ。

【本則】挙す。僧、法眼に問う。

私は慧超(えちょう)という者ですが、ご老師に少しご教示にあずかりたいことがあります。

「禅(佛)とは何でしょうか?」

法眼云く「お前は慧超だったナア」

           【本則】挙す。

               僧 法眼(ほうがん)に問う。

               慧超(えちょう)、和尚に咨(はか)る。

               「如何なるか これ佛」

                法眼云く「汝は これ慧超」

【頌】江南地方に吹き渡る春風は、花を散らすほどではない。

その花の影で、鷓鴣(しゃこ)が啼いている。

法眼文益は、確かな禅者だ。

龍門を昇り尽くした金鱗(きんりん)だ。

憐れむべし、慧超。

龍を生け捕りにしたくて、池の水を掻い出している愚か者だ。

       【頌】江国の春風は吹けども たかまらず、

          鷓鴣(しゃこ)啼(な)いて 深花(しんか)のうちにあり。

          三級の浪(なみ)は高くして 魚(うお)龍と化す。

          痴人なお戽(く)む夜搪(やとう)の水。

【附記】法眼文益(ほうげん ぶんえき・清涼文益 885?~958?)法眼宗 開祖。

慧超(えちょう本名 策眞さくしん 906?~979?法眼の弟子)・・この第7則の問答は、まだ正式に法眼の弟子にならない小僧時代の逸話である。