【禅者の一語】碧巌の歩記(あるき)NO9
碧巌録 第九則 趙州四門(じょうしゅう しもん)
【垂示】圓悟が座下の求道者に云った。
明鏡の前に立つと、自分ソノモノがアリノママに映し出されるから誤魔化しようがない。まるで東男に京女の例えの通り、江戸の男はイナセな男前として、また、しなやかな京ことばを喋らずとも、その姿を見ただけで京女として映し出される。古典に・・莫邪(ばくや)という女の作った宝剣を手にした者は、迷いに迷った者を一瞬に引導して活かすこともできるし、大死一番させて活殺自在と言う。
さあて・・このような明鏡台の前で、宝剣を振りかざす禅者に対し、どのように転身の活手腕を看護できようか・・
試みに挙す。看よ。
【垂示】垂示に云く。
明鏡台にあたれば、妍醜(けんしゅう)おのづから鞭(べん)じ
鏌鋣(ばくや)手にあれば、殺活は時にのぞむ。
漢去れば胡きたり、胡来れば漢さり、死中に活を得、活中に死を得。
しばらく道え、這裏(しゃり)に到ってまた作麼生(そもさん)。
もし透關底(とうかんてい)の眼(まなこ)、転身の處なくんば、
這裏にいたって 灼然(しゃくぜん)として
奈何(いかん)ともせざらん。
しばらく道え、如何なるか是れ、透關底の眼、転身の處なるぞ。
試みに挙す看よ。
【本則】ある日、趙州城(市域内にある)観音院の従諗(じゅうしん)老師に、生座鳥(ナマザトリ/未悟)の求道者が訪ねて問うた。
「趙州とは・・何でしょうか?」
州云く「趙州は東西南北、四つの大門があり、夜はピシャリと往来遮断だ」
【本則】挙す。僧、趙州に問う。
「如何なるか 是れ 趙州」
州云く「東門(もあり)西門、南門、北門(もあり)」
【頌】訳あり顔で趙州城に引っ掛けて「あんたはどなた?」と師匠をテストしたが「何処からでも入ってこい」と言われて、金剛・チタンの槌で叩き壊そうとしたが、ビクとも開く門じゃない。
お門違いもはなはだしいぞ。
【頌】句裏に機を呈して劈面(へきめん)に来れり。
爍迦羅(しゃから)の眼 繊埃(せんあい)を絶す。
東西南北 門相対せり。
限りなき輪鎚(りんつい)をもって撃てども開けず。
【附記】欧米で禅を紹介された鈴木大拙翁は、「ZEN」の入門を問われた時・・コツンとテーブルをノックされて「ここから入りなさい」と言われたそうだ。
また安谷白雲老師は、その著作の中で・・坐禅というと大変難しいものとばかり思う人が多いけれども、たやすいと言えば、坐禅ほどたやすいものはない。日に三分間でも五分間でもよろしい。姿勢を正して、精神統一をやれば、それでよいのである。
なにも正式に足を組まなければだめだというものでもない。
日本式に坐ったままでもよし、極端に言えば椅子に腰かけたままでもできる。
数息観と呼ばれる息の勘定をするだけも、立派な坐禅になるものだ。それで健康も増進し、精神も磨かれて、霊肉ともに健全な人になることができる。筆者の同友で「三分禅」と称して、これを熱心にすすめている人もある・・と書かれておられる。
安谷白雲著 禅の神髄 無門関「達磨安心」・・ヨリ抜粋。1965年春秋社刊
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