碧巌の歩記(あるき)NO13 

【禅者の一語】碧巌の歩記(あるき)NO13

 碧巌録 第十三則 巴陵銀椀盛雪(はりょう ぎんわんにゆきをもる)

                   巴陵銀椀裏雪(はりょう ぎんなんりのゆき)

【垂示】求道者に圓悟が垂示した。

宇宙の実相が、あまねく世界に満ち満ちていること・・これを詩的に表現すれば、低く雲と山河が区別なく一体となって見えたり、川べりに繁茂した葦の花に、降り続く雪が一面に覆いつくして、花か雪か判別できないようなものだ。

また宇宙を冷厳なものとみたら、絶対零度(マイナス273度)まで冷やしつくす無常であるし、大小の細部を見ると、原子・電子・量子・・エネルギーにいたっても、まだまだ、宇宙解明に到らぬ謎だらけだ。この深遠、神秘な宇宙は仏陀であれ、悪魔であれ、人智を集めた科学であれ、これを測ることが出来ない。

一を聞いて十を知る達道の禅者なら、マア、どうにかこうにか、造作を忘れて、凌(しの)いでいる・・としておく。

けれども、論理、哲理を振りかざす口先達者な輩を、ウンともスンとも云わせないヒトコト・・言える者がいるか・・どうか。

ここに、「洞山麻三斤」と並び称される難透(公案)巴陵の「禅者の一語」をあげるから、看よ。

       【垂示】垂示に云く、

           雲は大野のあつまって徧界(へんかい)にかくれず、

           雪は蘆花をおおうて朕迹(ちんせき)を分かち難し。

           冷處は冷ややかにして氷雪のごとく、

           細處は細やかにして米末のごとし。 

           深々(しんしん)たる處は佛眼(ぶつげん)も窺(うかが)いがたく

           密々たる處は魔外(まげ)も測ることなし。

           挙一明三(こいつみょうさん)は即ちしばらくたる。

           天下の舌頭を坐断せんには、作麼生(そもさん)か道(い)わん。

           しばらく道え、これなんびとの分上(ぶんじょう)の事(じ)ぞ。

           試みに挙す看よ。

【本則】求道者が巴陵に問う。

   「提婆宗(禅)とは何でしょうか」

    巴陵云く

   「銀椀裏(ぎんわん)に雪を盛る」

             【本則】挙す。

                 僧、巴陵に問う。

                 「如何なるか 是れ提婆宗(だいばしゅう)」

                 巴陵云く「銀椀裏(ぎんなんり)に雪を盛る」

 【頌】老いた新開寺の巴陵顥鑒は雲門文偃の弟子だが別格の見識がある禅者だった。彼は「禅」を「シロガネの器に白雪を盛る」と頗(すこぶ)る詩的に答えた。これが納得できないのなら、山辺にかかる月に問え。

ああ、提婆宗(禅)十五代 迦那提婆尊者よ。

教宗・外道の多くいた時代に、よく龍樹の法を得て広められましたネ・・相対の問答のコトゴトクを説破して、凱旋の赤旗を立て、清風を興したと伝えられますが、今一度、理屈ばかりの輩を、キレイさっぱり掃除してもらえないでしょうか

     【頌】老新開(ろうしんかい)は 端的(たんてき)別なり。

        いうことを解(げ)したり。銀椀裏に雪を盛ると。

        九十六箇 まさに自知すべし。

        知らざれば かえって天辺の月に問え。

        提婆宗提婆宗、赤旙(しゃくばん)のもとに清風を起(おこ)せよ。

【附記】岳州(湖南省)・・風光明媚な洞庭湖の東岸、巴陵(はりょう)の新開院の禅者、顥鑒(こうかん)生死年月不明。雲門文偃の弟子兄弟に洞山守初(とうざんしゅしょ910~990)がいる。

彼は美しい韻文で詩的に禅境(地)を表現した。

巴陵の三句 その⑴「銀椀裏に雪を盛る」当則

      その⑵「珊瑚は枝々に月を撐着(とうじゃく)せり」碧巌録第百則 巴陵吹毛釼参照。

      その⑶「鶏 寒むうして樹に上り、鴨 寒うして水に下る」

      又は「如何なるか是れ道」・・巴陵「明眼の人 井に落ちる」

提婆宗・・禅の第15祖迦那提婆(かなだいば)は片目の禅者だ。龍樹(⒕祖)の弟子にあたり三論哲学、空宗の祖師。昔、インドで排佛の外道(哲学者)と問答して勝利し門外に赤旗を立てて凱歌したと史実にある(提婆達多(だいばだった)とは別人)

新開院の老禅者(巴陵顥鑒)は・・諸法皆空、一切の否定を、詩的な「空即是色」に表現して見せた。

九十六箇・・釈尊出世の頃の九十六人の外道(哲学者)のこと。

◆佛=禅なり・・(buddha仏陀ブッダの略)

賢者、覚者、智者の意。インドでは釈迦出世以前から、普通名詞として使用されています。

大乗(欣求)仏教的に釈迦を「佛」と云った求道者は、釈尊や仏教(宗教)と混同、誤解しています。これは素直に「禅」と表現しておきます。