【禅者の一語】碧巌の歩記(あるき)NO16
◆啐啄の機・・親鳥が卵のヒナと内外で同時に突つき合って誕生する・・大悟の瞬間の例え!
碧巌録 第十六則 鏡清啐啄機(きょうせい そったくのき)
【垂示】圓悟が座下の求道者に云った。
「禅ニヨル生活」を行う禅者は、独り、寂寥の大道を歩む。
これを誰が、どのように解釈、評価しようと、窺い知れない境地の自由闊達な働きがあるのが禅者である。
毎日ピチピチした若鮎の如き生活態度で、事に当たって自在に啐啄(そったく)の機(タイミング)を操り、楽しみ、行い、しかもチャント捉えたり放したり、TPOに応じた行動をとるのである。
ただし、独りよがりに、こうした無作為、無功徳なことを良しとするのではない。薫風自南来・・清々しい風流が禅者にはある。
*この話に登場する鏡清道怤(きょうせいどうふ868~937)は、雲門文偃、長慶慧稜、保福従展と同期の、雪峰義存の弟子にあたる。
(禅語録・・景徳伝燈録に鏡清道怤の高論(禅境)は人の窺がい知れないことだと書かれている)
会い逢うて会わず・・見ても看ず、聞いても聴かず・・ここに効能書きをクダクダしく仕掛ける求道者の問答があるので、よく看るがよい。
【垂示】垂示に云く、道に横徑(おうけい)なく、立つ者は孤危(こき)なり。
法は見聞にあらず、言思も迥絶(けいぜつ)す。
もし、よく荊棘林(けいきょくりん)を透過(とうか)し、
佛祖の縛(ばく)を解開(げかい)して、
この隠密(おんみつ)の田地を得(う)れば、
諸天 花を挿さぐるに道なく
外道 潜(ひそか)に窺(うか)がうに門なし。
終日 行じても未だかって行せず。
終日説(と)いても未だかって説かず。
すなわち自由自在をもって 啐啄(そったく)の機を展(の)べ、
活殺(かっさつ)の釼(けん)をもちうべし。
直饒(たとえ)恁麼(いんも)なるも、
さらに須(すべか)らく権化門中(ごんげもんちゅう)
一手は擡(もた)げ、一手は榒(おさ)えて、
なお些子(しゃし)にあたることあるを知るべし。
もし是れ本分事上ならば、
作麼生(そもさん)が是れ本分の事なるか。
試みに挙す看よ。
【本則】求道者が鏡清老師に云った。
「私は、今・・大悟の機を迎えて、まさに卵の殻を破らんとするヒナであります。どうぞ・・ご老師が親鳥ヨロシク、くちばしで外からコンコン、つついてくだされば、すぐに中から飛び出せます」
鏡清「ホンマかいナ・・死にもしないで、生まれてこれるかなぁ・・」
求道者「もし私が生まれそこなったら、ご老師が師家としての能力なしとみなされて、笑いものになりますよ」
鏡清「アァ・・やっぱし孵化し損なったナ」
【本則】挙す。僧 鏡清(きょうせい)に問う。
「学人啐(そっ)す、師の啄(たく)を請(こ)う」
清云く「また活をうるや、また無しとて」
・・(生死 見定めがたしの意)
僧云く「もし活っせざれば 人の怪笑(けそう)にあわん」
・・(ご老師が世の笑い者になるの意)
清云く「また是れ艸裏(そうり)の漢」・・愚ろか者め・・の意
【頌】鏡清道怤は、卓越した禅者だ。卵の外側から「死なずに生きて出て来れるか・・」と叩いてやっているのに、ヤッパシ内側から出て来ないヤクザ者だ。コンナ口先だけの奴は、いっそのこと 棒でブッ叩いてやるに限る。
(現代は・・孵卵器(ふらんき)で人工的にヒナを養成しているが、ソンナ輩たちに「禅」を語ってもらいたくないね)
【頌】古佛には家風あり。
對揚(たいよう)して 貶剥(へんばく)せらる。
母、あい知らず。是れ、誰か啐啄を同じくせんや。
啄・覚なお殻にあり。重く撲(うた)れたらんには・・。
天下の衲僧(のうそう)は、いたずらに名邈(めいばく)するなり。
*邈→摸が正しい・・小知小見で、大義を見る様子。
衆盲、象をなでる様子。
【附記】この話、禅機・禅境の公案ではありません。
雪賓の頌に、啐啄を問われた瞬間、ガツンと棒で一打して眼から火花を飛び散らせたら面白かったろうに・・とあります。