【禅者の一語】
◆禅は、常に「孤高性」を身にまとう「坐禅」が大事です。
碧巌録 第二十五則 蓮華峯拈拄杖(れんげほう しゅじょうをねんず)
蓮華庵主不住(れんげあんしゅ ふじゅう)
【垂示】圓悟が座下の求道者に垂示した。
心の働きが止まって活動しないなら、有毒の大海におぼれ死ぬようなものである。素晴らしい、非凡な表現がなければ月並みな俗人になり染まる。
情報過多の現代人は、ご飯を食べるにも、カロリーがどうだとか、ダイエットがドウダとか、ドコ何処の店がおいしいとか、効能書きのスマホ・TVに振り回されている。
禅は「無功徳・役立たずの独り坐禅・・行い」が大事である。
では、禅者は、日頃、どのように生活しているのか・・どうすればよいのか・・3行目からの垂示を意訳すると・・(禅者たるもの)雷光一閃の内に黒白を見極め、大悟一番、あらゆる関(かかわ)りを坐断して、誰も寄り付けぬ千尋の碧巌に立つことだ。
サア・・お前さんたち・・コンナ「禅による生活」が日頃、何処で行われているか知っているか?
以下、先達の話を窺(うかが)い看よ。
【垂示】垂示に云く
機(き)位(くらい)を離れざれば、毒海に堕在(だざい)し、
語、群を驚かさざれば流俗(りゅうぞく)に陥(おち)いる。
たちまち撃石(げきせき)火裡(かり)に緇素(しそ)を別かち、
閃電(せんでん)光中に殺活(せっかつ)を辨(べん)ずるが如きは、
もって十方を坐断して、壁立千仞(へきりゅうせんじん)なるべし。
また恁麼(いんも)の時、節あるを知るや。試みに挙す看よ。
【本則】雲門文偃の弟子➡金陵道深の弟子➡この則の主人公 盧山蓮華峯の祥(しょう)庵主は天台山の山奥に、隠者の生涯をおくっていた。
時に、求道者が尋ねてきて、問答を仕掛けると、いつも手にしている杖をあげて「昔の人は、どうして仙人の如き洒脱の生き方が出来なかったのか」と問いかけた。
(これにマトモニ答える者がいないので自らが答えて・・)
「無我無欲で安心立命できないで、名利の奴隷になっているのだろう」(と、云われても、さらに応える人がいないので・・)
庵主は自ら云う「やめた、やめた。話し相手がいないのなら、これからは杖を担いで白雲青山を友に暮らすことにする」
(この真意を知りたければ、雪賓(せっちょう)の頌を看取せよ)
【本則】挙す。蓮華峯 庵主、拄杖を拈じて示衆(じしゅう)して云く
「古人 這裏(しゃり)に到って、なんとしてか住するこを肯(がえん)ぜざりしや」
(衆 語なし。自(みず)ら代わって云く)
「他の途路(とろ)に力をえざりしがためなり」
(また云く)「畢竟(ひっきょう)いかん」(また自ら代わって云く)
「櫛傈(しつりつ・拄杖の意)を横に擔(にな)って 人を顧(かえ)りみず、
直に千峰萬峰に入り去らん」
【頌】ガリ(我利)ガリ亡者に、スマホ幽霊・・現代はまるでバーチャル世界。月白風清の深山も住みづらいことになってしまった。
しかし、見渡せば・・花いっぱい香いっぱい。溪聲いっぱい。
名聞利養の輩には、祥庵主が杖をつきつき、いったい何処へ行ったのか・・何をしてることやら・・キット見えないことだろう。
【頌】眼裏(がんり)は塵沙(じんしゃ)、耳裏(じり)は土。
千峰萬峰にも住することを肯(がえん)ぜざらん。
落花流水は はなはだ茫々(ぼうぼう)。
眉毛を剔起(てっき)すれば、何処(いずこ)にか去りしぞ。