【禅者の一語】碧巌の歩記(あるき)NO26 世界一の美人・・楊貴妃の一つ年下に生まれた禅者・・百丈山の懐海!

碧巌録 第二十六則 百丈独坐大雄峰(ひゃくじょう どくざ だいゆうほう)

【垂示】この則には【垂示】が欠落しているので、百丈を取り巻く環境を書いておきます。

ここに登場する百丈(ひゃくじょう)懐海(えかい720~814)が生まれたのは、中国史で誰でも知っている楊貴妃が719年に生まれた1年後(玄宗皇帝35才)である。

蜀のげんえんの娘が楊貴妃となったのは745年。玄宗皇帝61歳。楊貴妃27歳・・百丈懐海26歳・・当時・・安禄山の謀反があり、ひどく風紀が乱れ頽廃の時代にあって、寺院や僧たちも相当に堕落していたようだ。

彼が禅林(百丈)清規(しんぎ=禅の宗団生活の規則)を定めたのもうなずける。

五燈會元に、老齢の百丈が、率先して働く(作務する)ので、弟子たちが密かに作具を隠したところ、自分の不徳の所為だ・・と食を絶った・・との逸話がある。その時の有名な言葉が「一日作(な)さざれば、一日食せず」・・である。

彼の法系は、大鑑慧能→南嶽懐譲→馬祖道一から→百丈懐海となる。弟子に黄檗希運黄檗宗)→臨済義玄臨済宗)と、別に・・百丈→潙山霊祐→仰山慧寂(潙仰宗)の禅宗派の始祖となる・・すぐれた禅者達を打出した。

もし、玄宗皇帝の世に、百丈がいなければ、はたして日本に伝播した禅はどうなっていたことか・・解からない程の影響力がある。

百丈山(別名 大雄山)は中国江西省洪州にあり、そう高くもない、のんびりした山だ・・そうだが、大雄と云う(山)峰に独り坐す・・と決めつけたおかげで、日本の富士山のような雄大な山になってしまった。

 

【本則】奇抜で面白い「山」の話を紹介する。

百丈(大雄)山の萎(しな)びた禅庵に、少しは問答のできる求道者が尋ねてきた。

「何かめずらしいこと・・特別に賞賛に値することはありませんか?」

百丈懐海「奇特なこと?・・なにもない。ただ、独り山奥(大雄峰)に坐っているだけさ」

それを聞いた求道者、何故か、恭(うやうや)しく一礼した。

百丈、すかさず手にした竹箆(しっぺい)で、ピシリと求道者を打った。

        【本則】挙す。

            僧 百丈に問う「如何なるか これ奇特のこと」

            丈云く「独り大雄峰に坐す」

            僧 礼拝(らいはい)す。

            丈 すなわち打つ。

【頌】馬祖道一の弟子である、百丈懐海は まるで天馬の如き稀代の名馬である。禅の積極的な働き(向上・放行)と消極的な働き(把住・向下)を自由自在に楽しんでいる。

ちょうど、雷光一閃の瞬間、天地が逆さまになるような、すぐれた働きをする・・こんな非凡な禅者の前に来て「如何なるか是れ奇特事」とは。あたかも猛虎の髭をなでるような出来事だぞ。

ピシャリと打たれて済んだのも果報の内だよ。

(打たれるには意味がある)

      【頌】祖域(そいき)に交馳(こうち)す天馬駒(てんまく)

       化門(けもん)の舒巻(じょけん)は途(と)を同じゆうせず。

       電光石火に機変を存(そん)す。

       笑うに堪えたり人の来って虎髭(こしゅ)を捋(ひ)くことを。

【附記】「一日 作さざれば、一日 食せず」と、萎(しな)びた山間に独り、坐っている爺さん・・どうも一致しずらいのは、世の中に出回る勇壮な書一行「独坐大雄峰」のせいだ。

大雄峰は、日本の富士山のイメージで、一行の禅書にモッテコイの素材です。

ですが、百丈の生きていた現実は、僅か千メートルに満たない、竹林と滝があり、虎の出る山奥の・・素貧なひとり住まいの禅者の一語です。

この百丈懐海・・原の白隠一休宗純より、越後の(国上山)五合庵に住んだ良寛さんのような方だったのか・・興味はつきない。

現代社会は情報社会と言う・・けれど、頭脳の何千万人分、図書館の何千館分の知識がパソコンで利用できるのだが、広大な宇宙の果て銀河世界や、逆に最小単位のミクロ、量子物理学を究めつつあるとは言え・・親殺しや子殺しが頻発する(病める現代の世情を見極めきれない)宿業に振り回されている存在が人間です。そうした社会の為になる研究や開発、頭脳そのものの研究、自然科学の研究に情報の活用は大事です。・・だからこそ、釈尊以前からインドの地にあった「空・無」を拠りどころにする浄慮・静寂の「禅」が、現代社会の(心の)免疫不全に役立つのです(役立たずの禅が、無功徳という解毒剤の役割をもっているのです)

そして、先達が歩いた足跡・・禅語録(公案)が禅境(地)を語ってくれています。千年・二千年前であろうと、ひたすら内面に「自己とは何か」を問いかけることに、何の科学的情報や社会・寺僧の名利、教導とやらが必要でしょうか。

むしろ知的思考に頼り、スマホやパソコンの情報を解析のツールにする以上、バランスを失った理性は、般若(智慧)の真実から遠ざかります。思考は、分別分析の作業そのもの・・対比、検索の作業だから、まるでパソコンに、永久運動の機械設計を依頼するようなもの。円周率を計算させるような働きになってしまうのです。百丈に、竹箆で打たれた求道者は、自分の一大事は、自分でしか解決できないことを知ったでしょう(釈尊も、独り菩提樹下、スジャータの牛乳をもらって坐禅された。そして、釈尊の悟りが禅は宗教以前にある・・ことを証明しています)

釈尊以来「禅による生活」をなしてきた禅者たちは、万象の獨露身そのものの禅境(地)を体現しています。「自分とは何か・・」「幸福・安心とは何か」の問いに、答えを発見しようと行脚する・・いわゆる・・求道(好奇)心がある限り、どこかで誰かが「独り坐禅」を介して(キット禅の)発芽があることでしょう。

世の中で、最も奇特で大事な事・・とは、萎びた山中で、むさくるしい爺さんではあるが・・まるで「富士山のように聳え立つ般若の真ん中で、どっしりと坐っている自分(自我)・・これである」・・と自賛する百丈。まるで天上天下 唯我独尊を凌ぐ禅者の一語である。

 

 どうやら地球を尻に敷いて「ドン」と坐りこむ大虎の傍らで、仔猫のように、跳ね回るのは止めて、静かに大雄山から退散するとしましよう。

有(会)難うございました。この奉魯愚を看ていただいて☆マークをつけてもらいました。ただ、お返しの☆マークの操作も解らぬ(モチロン ツイッターなどしたことのない・・写真は旧、ミノルタフィルムカメラで撮影する)・・AI不適性のPC未熟者(アナログ老翁)です。どうぞ、それに懲りず、役立たず(無功徳)だからこそ、役に立つ・・3分間独りポッチのイス禅・・おりおりになさってください。お大事に。