碧巌の歩き(あるき)NO44 ホ―タルこい!こっちの水は・・

碧巌の歩記(あるき)    

      ◆注意ホ―タル来い。こっちの水は甘―まいぞ

  碧巌録 第四十四則 禾山 解打皷 (かさん かいたこ)          【垂示】ありません。

【本則】ある日、禾山老師が座下の求道者に、僧肇(そうじょう)の宝蔵論を引用して垂語した。

「習得の知識は聞き覚えの知識であり、絶学~云々は、悟道の方法論を阿羅漢となって放擲(ほうてき)した境涯をいう。真の禅者は、この習学・絶学の二門を透過して眞人の境地に入らねばならない。これを眞過(眞の悟り)というのである」

そこに求道者が飛び出してきて・・「どのようなことが眞の悟りでしょうか?」と問うた。

禾山「お前さん、もっと骨折って、太鼓を打つ稽古をしなさい」

求道者「禅の最高教理(達磨・廓然無聖)とはなんでしょうか」

禾山「お前さん、太鼓の稽古をしなさい」

子ども扱いされたと誤解した求道者、さらに言葉をついだ。

「この心が、即、禅である位は承知しております。その正反対の非心即・・非禅とは何のことでしょうか?」と難問を突き付けた。

禾山「お前さんは、一所懸命に太鼓の稽古をしなさい」

求道者は、次第に逆(の)ぼせあがって問いかけた「ご老師は私を子ども扱いになさいますが、ここに達道の禅者がやってきた時は、どのように対応なさるおつもりですか(茶化すのもいい加減にしてください)」

禾山「本音の太鼓は稽古が大事だぞ」

●解打皷・・「太鼓の稽古をしなさい」の意。問いに答えて、言い方をかえておきます。

    【本則】挙す。禾山 垂語して云く

     「習学これを聞といい、絶学これを鄰(りん)といい、

      この二つの者を過(す)ぐるを眞過(しんか)となす」

     僧 出でて問う「如何なるか 是れ眞過なるぞ」

     山云く「解打皷(かいたこ)」

     また 問う「如何なるか 是れ眞諦(しんたい)」

     山云く「解打皷」

     また 問う「即心即佛は すなわち問わず。如何なるか非心非佛」

     山云く「解打皷」

     また 問う「向上の人 来る時 如何が接せんや」

     山云く「解打皷」

【頌】眞人検定(廓然無聖の禅境)には、学科試験は役立たず、石を運ばせたり、土を運搬させる土木工事の働きが一番よくわかる。

禾山の師、雪峰(義存)は(人の)度量を試すのに、木製の毬(まり)を投げつけて(弟子)玄沙の禅機を試したそうだが、そんなボール遊びより、禾山の太鼓の稽古の方が余程にマシである。

君たちによく言って聞かせよう。

うっかりしてはならない!

甘いものはあまく、にがいものはニガイのだ。

   【頌】一には拽石(えいせき)、二には般土(はんど)、

    機を発せんには、これ千鈞(せんきん)の弩(ど)をもちいよ。

    象骨(ぞうこつ)老師(雪峰義存)は かって毬(きゅう)をめぐらせしも、

    いかでか似(し)かん 禾山の解打皷には。

    君に報じて知らしむ、莽鹵(ぼうろ)なることなかれ。

    甜(あま)きものは甜まく、苦(にが)きものは苦し。

 

【附記】吉州(江西省)禾山(大智院)無殷(かざん むいん 891~960)、始め福州(福建省)雪峰(山)義存(76才)時に侍童となり、908年 雪峰示寂の後、910年、筠(いん)州(江西)の九峰道虔(きゅうほう どうけん)に師事。

禾山は、六祖恵能に次ぐ青原下七世・・石頭→薬山→道吾圓智→石霜慶諸→九峰道虔→禾山無殷(達磨より十三世、祖位の禅者)

禾山の師、九峰道虔の逸話・・石霜が遷化の時、全山あげて第一座(名不伝)に跡を継がせようとしたが、九峰ひとり猛反対した。

「石霜七去の話」・・先師の意を領得した者だけが当山の主たるべし・・「休しさり、歇(けつ)し去り。一念萬年に去り、寒灰枯木し去り、古廟香炉にし去り、冷湫々地にし去り、一條の白錬(びゃくれん)の如くにし去る」・・しばらく道え、これ、那辺(なへん)の事を明かすや・・と。

第一座は「先師の意は、大悟のあとに、なお悟臭あり」(一色邊;イッシキヘンのことを明かす・・)としたが、九峰はキッパリと否定した。

そこで第一座、大悟の証明に、坐脱立亡をして見せる・・と大見得を切って香をたくことを命じたのである。命がけの問答である。

居並ぶ大衆、注目の内に香炉に香がたかれ、第一座は粛然と坐亡したのである。

九峰は、生けるが如き第一座の屍に、断然と言い放った。

「坐脱立亡はなきにしもあらず。

首座は先師の意、いまだ会せざることあり」・・と。

このように峻烈、厳密な九峰に随侍(師事)してきた禾山である。

後日談がある。

ある時、九峰は、黙々と作務(さむ・畑仕事)する禾山に・・「独り、のらりくらりの毎日をすごす。お前さん、いったい、どのような境涯を目当てに修行しているのか・・どうだ?」と問う。

禾山「真っ暗な夜がカラリと明けても、眼が見えない者は、やはり目が見えません」と答えたという。

太鼓を叩いても、本音でナカナカ為(な)らないものである。

この附記は・・はてなブログ【禅・羅漢と真珠】至言の禅語(3)解打皷・・で紹介しています。