碧巌の歩記 NO47 道具抜きで 止めようとして止められないものは・・?

碧巌の歩記(あるき)NO47     

雲門文偃(うんもん ぶんえん 852?~949)は、この碧巌録に18回も登場する雲門宗の開祖、雪峰義存の弟子。語録に紹介される各則のいずれもが余りにも簡潔すぎるので、意訳するにもイキナリ鉄まんじゅうを口にねじ込まれるような、手も足も出ない 歯がボロボロになる問答の師だ。

 

このことは編集者の圓悟克勤がよく承知していたと見え、雲門の禅境(地)を直截に味読させたいとの意図からか、あるいは禅を解説することは不能と見限ったのか・・

【垂示】が欠落している則が多くある。

(百則中二十一則が 解説抜き本則のみのスッポンポンだが、幸いこの則にはある)

とにかく、雲門の一語は、日日是好日(碧巌録第6則)のように、春の海の、ノタリノタリした茫洋さに包まれているが・・

ああだ、こうだ・・と解説すればするだけ 雲門が遠くなって最後は見えなくなってしまう。

 

    碧巌録 第四十七則 雲門六不収(うんもん ろくふしゅう)

【垂示】圓悟が座下の求道者に垂示した。

孔子論語で言った通り、天地には言葉なく四季豊かに変化し、萬物は霊妙に養育されている。

この天地運行の実体は何か・・働きはどのようなことなのか・・

よく会得することが大事だぞ。    

達道の禅者は、無言・無功用に天地同根とばかりに坐禅するが、イッタイその何処が禅者たる行ないなのだろうか・・

どうだい・・ワシ(圓悟)の意見がわかるか?

  【垂示】垂示に云く 天、何をか云うや 四時(しじ)行わる。

    地 何をか言うや 萬物生ず。

    四時の行われる處に向かって、もって體(たい)を見るべく

    萬物の生ずる處において、もって用を見るべし。

    しばらく道え、いずれの處に向かって 

    衲僧(のうそう)の言語動用(ごんごどうよう)、

    行住坐臥(ぎょうじゅうざが)を離却(りきゃく)し、

    咽喉唇吻(いんこうしんぷん)を併却(へいきゃく)することを

    見得(けんとく)せんや。

    また辨得(べんとく)すや。

【本則】求道者が雲門に問う。

 宇宙(時空)の永遠、不滅の実体とは・・?

 門云く「地・水・火・風・空・識

     (遍在する)に収まらないヨ」

       【本則】挙す。

        僧 雲門に問う「如何(いか)なるか これ法身

        門云く「六不収」

 

【頌】宇宙の実体は、ご破算で願います・・だ。

ZEROを発明したインドからの達磨ですら、ソロバンを忘れたぞ。

その極意書は、少林寺で慧可に預けたと云うが・・

そそくさと、かた足の草履で、ヒマラヤ越えで帰ったとも云うが・・

 

インダス河畔は広すぎて、菩提樹の森に隠れて見つけられない。

イヤ待てよ、達磨は昨夜、雪賓山(重顯の處)に居候しているぞ。

   【頌】一二三四五六。

    碧眼(へきがん)の胡僧(こそう)も数ええじ。

    少林みだりにいう神光(しんこう 二祖慧可)に付(ふ)したりと。

    衣を巻いて、また説く天竺(てんじく)に帰れりと。

    天竺は茫々(ぼうぼう)として討(たず)ぬるにところなし。

    夜来(やらい)かえって乳峰(にゅうほう)にたいして宿(しゅく)せり。

 

      ◆道具なしで、止めようとしても 

       止まってくれないものは・・A:心臓