碧巌の歩記(あるき)NO55 真夏 太陽の香りがするトマトやキュウリが食べたい!

  碧巌の歩記(あるき) NO55   

田舎の悪ガキだった頃、畑のスイカやトマトをチョロマカシて、井戸で冷やして食べたもんだが、夏の香りがイッパイだった!

 

碧巌録 第五十五則 道吾漸源弔慰(どうご ざんげんとちょういす)

 

【垂示】圓悟が垂示した。

禅による生活の源泉は、坐禅時の静寂そのもの・・云えば云うだけ「ソノこと」から遊離してしまう。

瞬間、突発の出来事において、判断処置をあやまらない働きや、虎の頭とシッポをつかまえて、猫の如くならしてしまう行いとか・・

独立独歩、誰も寄りつけない境地に生活するようなことは、マァ、それはそれでよいとして、悩める求道者を相手に、達道の禅者たる者、意義ある指導ができたか・・どうか。

試みに挙す。看よ。

 【垂示】垂示に云く、隠密(おんみつ)全眞(ぜんしん)、當頭に取證(しゅしょう)し、

  涉流(しょうる)に轉物(てんもつ)し、直下(じきげ)に承當(じょうとう)せよ。

  撃石火(げきせっか)、閃電光中に向かって、訤訛(こうか)を坐断し、

  虎頭に據(よ)って虎尾をおさむる處において

  壁立千仞(へきりゅうせんじん)なることは、則ち(すなわ)且(しば)らく置く。

  一線道(いっせんどう)を放(はな)って、

  為人(いにん)の處 有りや、また、いなや。 試みに挙す看よ。

 

【本則】ここに死生に関する痛切な問答がある。

潭州・道吾山の禅院、道吾(どうご 圓智えんち)老師が、弟子の漸源(ぜんげん 仲興ちゅうこう)を連れての、葬儀の帰り道でのことである。

漸源「老師。私は葬儀の時、死人の入った棺桶を叩いて、この人は『生きているのか、それとも死んでいるのか』と訊ねました。

その時、老師は『生とも道(い)へないし、死とも道へない』と曖昧に答えられた。どうしてですか・・と問い詰めても『道(い)わじ、道わじ』の一点張り。(葬儀も終わり、ここは誰もいない野道です)どうか、棺桶の人は・・生か死か・・ハッキリ答えてください。この私の解くに解けない生死の問題に、さきほどのように、グズグズ、あいまいな答えをされるのなら、私はご老師と云えど打ちますよ」

道吾「打つなら打ってもよい。しかし、その死生のことは、何も道(い)いはしないぞ」と、かたくなに言い張った。

ので、いいががり上、漸源は老師をピシャリと打った。

その後・・よほどたってのこと・・道吾が遷化(せんげ)した。

師を失った漸源は当時、同じ潭州の石霜山に禅院を構えていた兄弟子の石霜慶諸(せきそう けいしょ)の元に寄寓する事となった。

ある日、かねてから気がかりでしようのなかった「棺桶の生死」問題と、道吾老師を叩いてしまった出来事を石霜に話しをした。

すると石霜・・「私だって道吾老師と同様、死とも生とも道わない。これを誰がが・・ナンのカノと云っても、それで問題がかたづくものではない」と答えた。

漸源は再び「どうして言ってくれないのか」と迫ると、石霜は「道(い)わじ、道わじ」とオウム返しで、突っ放した。

ところが漸源は、今回は・・どうゆう理由か・・は本人が知るのみで、おおいに納得するところ・・があったのである。

ある日、漸源は、畑の作務のついで、鍬(くわ)をかついで法堂の廊下を西へ・・東へ往ったり来たりした。これを見た石霜・・「何をしているのか」と、咎めた。

漸源「道吾老師の舎利(お骨)を探しているのです」

石霜「ナント・・先師は舎利なんぞになってはいない。この盡大地(じんだいち)に満ち満ちておわしますぞ」

(ここにオセッカイにも雪竇(せっちょう)・・この石霜の申し分に・・アア悲しいかナ哀しいカナ・・と着語(附言)した)

それでも漸源は、石霜の言い分を真面目に聞いて「どうあれ私は、先師のご恩に報いるため、衷心からこうしているのです」と、法堂を往復していた。

太原(たいげん)の孚上座(ふじょうざ)・・漸源の態度に感服して「本当ダネ・・神イマスガ如クニシテ祭ルトコロニ神ハイマスノダ」=「先師、道吾の霊骨、今、猶、在(いま)すが如しである」といった。

  【本則】擧す、道吾 漸源と一家に至って弔慰す。

    源 棺を拍(う)って云く、「生(しょう)か死(し)か」

    吾云く「生(しょう)とも也(また)道( い)わじ、死とも也 道わじ」

    源云く「什麼(なん)としてか道(い)わざる」吾云く「道わじ、道わじ」

    囘(かえ)って中路に至って、源云く

   「和尚、快(すみ)やかに某甲(それがし)が興(た)めに道(い)へ。

    もし道(いわ)ざれば、和尚を打ち去らん」

    吾云く「打つことは即ち打つに任(まか)す。道(い)うことは即ち道(い)わじ」

    源 すなわち打ちぬ。

    後、道吾 遷化せり。

    源、石霜に至って、前話(ぜんな)を擧似(こじ)す。

    霜 云く「生とも また 道わじ。死とも また 道わじ」

    源云く「なんとしてか道わざる」

    霜云く「道わじ、道わじ」

    源 言下(げんか)に於(お)いて省(しょう)あり。

    源 一日 鍬子(しゅうす)をもって 法堂上(はっとうじょう)に於いて

    東より西に過(す)ぎ、西より東に過ぐ。霜云く「なにおかなすや」

    源云く「先師の霊骨をもとむるなり」

    霜云く「洪波浩渺(こうはこうびょう)、白浪滔天(はくろうとうてん)なり。

    なんの先師の霊骨をかもとめん」

    (雪竇 着語して云く、蒼天(そうてん)蒼天)

    源云く「正に報恩謝徳(ほうおんしゃとく)の行為、力をあらわすべきなり」

    太原(たいげん)の孚(ふ) 云く

   「先師の霊骨は、猶(なお) 在(い)ますがごとし」

【頌】もし、兎や馬に角がある・・と断定すれば、牛や羊には角がないと言わねばならなくなる。死生のことどもも、また、かくのごとし。道吾も石霜も、死かならずしも死にあらず、生かならずしも生にあらず・・と道っているが、そのとおりだ。

先師の霊骨は、在るにはあるが、この全宇宙の(素粒子)のどれにもいきわたっているのだから墓のような住所はない。(鍬をかついで探すので正解だ)

達磨さんだって、片足草履で、故郷に帰ったというではないか。

(注意すべきは、達磨はインドのどこかに止住しているのではないということだ)

  【頌】兎馬(とば)に角(つの)あれば、牛羊には角なし。

     毫(ごう)を絶し釐(り)を絶するも、山の如く、嶽(がく)のごとし。

     黄金の霊骨は、今なお、在(い)ますが如きも

     白浪滔天なれば、いずれにか處着(しょじゃく)せん。

     箸くるに處なし。

     隻履(せきり 達磨)は西に帰って曾(か)って失卻したり。

 

【附記】この則は、道吾圓智(769~835)の弟子、漸源(不明)、兄弟子、石霜(807~887)太原孚上座(雪峰の弟子、禅者)の四名が登場する棺桶の死者をめぐる「生死」問答である。

(昔の禅僧は、作務=生活の為に働いていた。この仕事上で禅機に触れて、悟道・見性する者が多くいた。坐禅は、煩悩即菩提・・の見えない土台、礎石にすぎない)

今時は葬式知らずで、ますます葬儀、死生に縁遠いことになりつつある。かわいがった犬猫ぐらいしか、直接の死を知らない・・こんな社会環境は、人を人とみなさない殺伐社会だといえよう。

殺人や戦争を、まるで別世界の出来事であるかのようにバーチャル映像で処理する・・おそろしいスマホ社会になったものだ。