好きだ・嫌いだ・・さえ無ければ・・大道は足下にある!
碧巌録 第五十九則 趙州何不引盡(じょうしゅう かふいんじん)
趙州只這の至道(じょうしゅう ただこのしどう)
【垂示】圓悟が座下の求道者に垂示した。
天地を一まとめにくくりこみ、凡聖を超越するとなれば、路傍の石ひとつ、草花一輪を通してでも自然の妙用を観賞できるのだ。
はたまた、世事の是非や善悪の争議の渦中にあっても、チャント正しい価値、判断ができる。
サテサテ・・このような対応は、とどのつまり、どのような加護、助力に基づくものであろうか。試みに挙す。看よ。
【垂示】垂示に云く、天を該(か)ね、地を括(くく)り、
聖(しょう)を超え凡を超ゆれば、百草頭上(ひゃくそうとうじょう)にては、
涅槃妙心(ねはんみょうしん)を指出(ししゅつ)し、
干戈叢裏(かんかそうり)にては、
衲僧(のうそう)の命脈(めいみゃく)を點定(てんじょう)せん。
しばらく道え、このなんびとの恩人(おんりき)をうけてか、
すなわち恁麽(いんも)なることを得るぞ。
試みに挙す看よ。
【本則】ある求道者が、有名な「信心銘」の一語を担ぎ出して趙州に問うた。
ご老師は日頃・・【至道無難、唯嫌揀擇】(しどうぶなん ゆいけんけんじゃく)と言われます。しかし、文字言句をもって至道の何たるかを説明しようとすると、それは揀擇(けんじゃく)そのもの。ご老師といえども、やはり語言をもって、アレコレ提唱されておられるのですね・・と突っ込んだ。
趙州「ワシが常日頃、云うのはそれだけじゃない。お前さんは、両目両耳のまだ片方でしか見聞していない。人の説を正そうとするなら、ワシの道う もう半分の意見(続き)があるはずだ。どうしてそれを残らず道(い)わないのか」
求道者「私は、ご老師のお言葉を、これだけしか記憶しておりません。聞いた文句は【至道無難、唯嫌揀擇】ただ、それだけです」
州云く「至道は無難なり。ただ揀擇を嫌う。お前さん、ただこれだけなら、それでもうたくさんだ」
【本則】挙す。僧 趙州に問う、
「至道無難(しどうぶなん)唯嫌揀擇(ゆいけんけんじゃく)。
わずかに語言あれば、是れ 嫌擇(けんじゃく)なりと。
和尚、いかにしてか人の為にする」
州云く「なんぞ この語を引盡(いんじん)せざる」
僧云く「それがし ただ這裏(しゃり)を念到(ねんとう)するのみ」
州云く「ただ この至道は無難。ただ嫌擇を嫌う」
【頌】趙州は、余計な理屈は要らないとばかり・・だが、その通り。至道とは、雨風にぬれても、ナンのその。現代の撥水、防風ガッパだ。
虎の如く歩み、龍の如く行き、鬼神の如く叫び、福禄寿の如き長命の趙州こそ、非凡な大人物だ。
ああだ・・こうだと絡みつかれても、いつの間にか手元を抜け出して、独り、つくねんと、ただ立っているだけだ。
【頌】水 そそげども着(つ)かず、風吹けども入(い)らず。
虎(のごとく)歩(あゆ)み 、龍(のごとく)行き、鬼(のごとく)さけび、
神(しんのごとく)泣く。頭(こうべ)の長きこと三尺、知りンぬ、これ誰ぞ。
相対して無言。ひとり足立(そくりつ)せり。