碧巌の歩記(あるき)NO65「かくれんぼ・・ご飯ですよ・・の声かかり」

碧巌録 第六十五則 外道良馬鞭影(げどう りょうめべんえい)

           外道問佛(げどうもんぶつ)

【垂示】禅について、説明のできない禅機、禅境、禅による生活を、何とか求道者に解からせたくて、手を変え品を変えて、そのドンズマリを、圓悟は垂示している。

禅は、あらゆるところに充満していると云っても、まるでダークマターや量子のように、論理的、物理的に説明がつかないものだ。

「無」とか「空」は、無限の包容力で、花となり、月となり、山となり、海となる。一切、人や社会の生業(ナリワイ)の中でも、コセコセ、ズルガシコクしていない。ただし、一を聞いて十を知る者がいても、ナカナカ我執は離れがたく、この場合、禅者の痛棒を浴び、百雷のごとき喝の洗礼を受け、あるいは独りポッチ禅で鞭撻しなければ、真の達道の人にならないし、成れないのだ。

心得違いをするなよ。

ただの努力や学道では、向上の禅者にはなれない・・

その例を看よ。

  【垂示】垂示に云く、夢相にして形(あらわ)れ、

   十虚(じゅっこ)に充(み)つるも方廣(ほうこう)なり。

   無心にして応じ刹海(せいかい)に偏(あまね)くも煩(はん)ならず。

   挙一明三(こいつ みょうさん)、目機銖両(もっき しゅりょう)にして

   直(じき)に棒は雨點(うてん)のごとく、

   喝(かつ)は雷奔(らいほん)に似たるを得るも、

   また未だ向上人(こうじょうにん)の行履(あんり)のところに当得(とうとく)せず。

   しばらく道(い)え、作麼生(そもさん)か是れ向上人の事なるぞ。

   試みに挙(こ)す看(み)よ。  *向上人・・悟道の禅者の意。

 

【本則】ある時、外道(出家していない一般の求道者)が、釈尊の前に来て「有言の常見説、無言の断見説(言葉・文字による禅の説明)は求めません。私は自分で禅を解明できず煩悶しています。どうぞ釈尊よ・・二見対比でない禅=悟境(地)をお示しください」と、ギリギリに迫る問いを放った。

釈尊はジッと空(す)き透った目で何も言わず外道を見られた。

外道は、すべてが認められて在る・・生かされて在る、天地同根の禅境(地)に包まれている・・自分に気づきハラハラと涙していった。

「世尊よ。すべての迷いの雲が晴れ渡り、いま、ソノコトに包まれております」

・・外道が去って後、釈尊の傍らにいた阿難(アーナンダ)が「あの者は釈尊にジッと見られただけで、大変有難がって涙を流していましたが、いったい、どんなことがわかったのですか」と尋ねた。

釈尊は「ソウダネェ・・例えるなら、優れた馬は鞭の影をみただけで、御者の行かんとする道を走り出すのだよ」と答えられた。

  *これは中国の禅行の逸話ではなく、めずらしくインドの釈尊の行状である。

   現代・・もし路上に釈尊を見れば、私とてハラハラと泣き伏すことだろう。

  【本則】挙す。

   外道(げどう)佛に問う「有言(うごん)を問わず、無言(むごん)を問わず」

   世尊(せそん)良久(りょうきゅう)せり。

   外道、讃嘆して云く

  「世尊は大慈大悲にして、我が迷雲を開いて我を得入(とくにゅう)せしめたり」

   外道去って後、阿難、佛に問う

  「外道、何の所證(しょしょう)あってか得入せりと言いしぞ」

   佛云く「世の良馬(りょうめ)の如く鞭影(べんえい)をみて行けるなり」

【頌】釈尊は外道の問いに「黙然」としておられたが「絶対」について、何かヒトコトでも言えば、すでに相対比較。分別の世界だ。

外道は、徹底的に釈尊に見透かされ、オカゲで涙あふれる「廓然無聖(かくねんむしょう)カラリと晴れた青空の如く」の境地に入ることができた。(まるで長い便秘腹に下剤をかけられたように、さぞかしスッキリしたことであろう)

注意すべきは「無言」と「語黙」・・釈尊のコピペの語黙をして見せても泣き出すような求道者はいない。(泣き出すのは外道・・一般人ではなく、睨み据える顔におびえる子供だけだ)

サアテ・・この1日千里を走る駿馬とやらを・・今一度、喚び返してみせようか(悟境、さらに深くあるべし・・の意)

呼び戻すのに大声や追手は無用。

私(雪賓重顯)なら指を三回鳴らすだけで充分だ。

  【頌】機輪(きりん)かって未だ転ぜず。

   転ずれば必ず両頭(りょうとう)に走る(がゆえに)。

   明鏡(みょうきょう)たちまち台に臨(いど)み、

   当下(とうげ)に妍醜(けんしゅう)を分(わか)てり。

   妍醜(けんしゅう)は分(わか)れ、迷雲は開けたり。

   慈門いずれの處にか塵埃(じんあい)を生ぜん。

   よって憶(おも)う良馬の鞭影を窺(うかが)うことを。

   千里の追風(ついふう)喚(よ)びえて回(かえ)さん。

   指を鳴らすこと三下(さんげ)して。

 

【附記】無言と語黙は大違い・・もし釈尊やキリストの「語黙」に接することができれば、キット私は大泣きすることでしょう。

釈尊やキリストのお姿を見ただけで、その当時の人々は、思わずひざまずき合掌したことだろう・・と思います。

つまり、私が禅者の「語黙」に接して、泣けない状況なら、世に云う如何なる聖人でも、私の信ずるにたる聖人ではない・・と確信します)

 奉魯愚「禅のパスポート・・無門関 素玄居士提唱」「羅漢と真珠・・禅の心、禪の話」おりおりに、ご覧いただければ幸甚です。