碧巌の歩記(あるき) NO68 「君の名は?」

臨済の「無位の真人」の名を、三聖に問うた仰山・・さて・・どう答えたものか。

 

碧巌録 第六十八則 仰山問三聖(きょうざん さんしょうにとう) 

               仰山汝名什麼(きょうざん なんじのななんぞ)

 

【垂語】圓悟が坐下の求道者に垂示した。

およそ禅者は、天地をひっくり返し、虎や犀牛(さいぎゅう)を捕まえたり、龍か蛇かを識別したりする、これには溌溂(はつらつ)たる禅機を要する。

このような非凡な人物は、如何なる問いかけにも明確な応答ができ、どのような場合にも、臨機即応(りんきそくおう)の働きができるのである。

さあて・・昔から今日まで、この禅門に、こんな禅者が、如何なる活動をなしたものか・・その例をあげるから、とくと看よ。

    *天關(てんかん)をかかげ、地軸(ちじく)を翻し(ひるがえ)、虎兕(こじ)をとらえ、                                    

    龍蛇を弁ずるには、須く(すべから)是れ、

    この活驋驋(かつぱつぱつ)の漢にして、初めて句句(くく)相投(あいとう)じ、

    機機相応(ききあい)応ずるを得(う)べし。

    且(しばら)く従上来(じゅうじょうらい)、

    什麼人(なんびと)か合(まさ)に恁麼(いんも)なるべかりしぞ。

    請う擧す看よ。

 

【本則】相手の名前を知っていながら、その名前を尋ねる奇妙な話を一つあげよう。

仰山慧寂(きょうさん えじゃく)が三聖慧然(さんしょう えねん)に、あなたの名前は何ですか・・とたずねた。

三聖は、真面目に「慧寂です」と答えた。

仰山は「慧寂とは、そりゃ、わしの名だ」

三聖「それなら・・私の名は慧然です」

仰山はこれを聞くなり、腹を抱えて笑った・・と・・さ。

   *擧す。仰山(きょうざん)、三(さん)聖(しょう)に問う。

   「汝 名はなんぞ」聖云く「慧(え)寂(じゃく)」

    仰山云く「慧寂はこれ我」

    聖云く「我が名は慧(え)然(ねん)」

    仰山 呵呵大笑(かかたいしょう)せり。

 

【頌】三聖が自分の名を問われて、相手(仰山)の名を答え、とがめられて、早速に自分の名を言い返す手際のよさ。まるで・・奪うも捨てるも、二つながらの自在の働きは、猛虎にうちまたがったような禅者である。

三聖の答話を聞いた仰山、思わずの大笑いだが、その笑い声は風にのってどこかに消えた。

さあて・・さて・・この笑い声、千年万年、何時までも天下の求道者の謎となり、寂寥の虎落笛(もがりぶえ)となって、求道者にとりつくことであろう。

(仰山、大笑の落處=汝の真人は何処にありや・・)

   *雙収雙放(そうしゅうそうほう)なんたる宗ぞ。

    虎に騎(の)るには由来(ゆらい)絶功(ぜつこう)を要す。

    笑いやんで知らず、いずれの処にか去りしぞ。

    只(ただ)まさに千古悲風(せんこひふう)を動(どう)ずることになるべし。

【附記】相逢不相逢(あいおうて あわざる) 共語不知名(ともにかたりて なをしらず・・臨済

仰山慧寂(814~890)は、潙山霊祐の片腕として潙仰宗を創唱した穏健にして円熟の禅者である。

一方、三聖慧然(不詳)は臨済義玄の弟子。仰山、徳山、雪峰などと問答した記録があり、年齢的には、彼らより後輩であつたろうと推測されます。

彼は北方禅、臨済(866寂)宗祖・・「赤肉団上(しゃくにくだんじょう=君の顔から出入する)一無位(むい)の真人(しんじん)」を看よ・・と迫る、将軍禅の鞭撻を受けた禅機はつらつな禅者である。

臨済の弟子であり、彼の名は百も承知で、「無位=無依の真人」禅による生活をなす者・・の名をきく仰山。

(実に辛辣な、禅境(地)・・を尋ねる問答です)

自分は「名づけようもなき無位の真人=禅(による生活)者である」・・これも百も承知で、仰山を名乗る三聖。

相逢うて、語るも互いの名を知らず・・と、禅機まるだしの三聖。

無位(依)とは、露裸裸(ろらら)、赤灑灑(せき れいれい)、浄堂堂(じょうどうどう)と、この世で得た、あらゆるものをかなぐり捨てて、そのままに立つ(眞人)姿を言う。

臨済の「無位の真人」を、三聖に問うた仰山。「君の名は?」

素っ裸で道を歩く訳にもいかず、衣をまとい、衣の名を「慧寂」として仰山の名を騙(かた)る三聖の答え。

「そりゃ、わし(仰山=真人)の名だ(お前さんの真人の名は何だ」と詰め寄る仰山。あらゆる形骸を両忘して・・(ともに語りて名をしらず)答える三聖。それを、「得たり」とばかり・・腹の底から大笑いする仰山。

 

虚栄・虚識に満ちた現代より、千年も昔の出来事の方が、はるかに、露堂々、明歴々・・スガスガしい生き方をしている・・と言えましょう。

この問答、重箱の隅をつつくような解説になりましたが、論理的に解説できる話ではありません。禅の問答は、どれをとっても、その人、それぞれの禅機(はたらき)禅境(地・・行い、心がけ)そのものだからです。 その禅者の言動で、何か「気にさわる」・・「心惹かれること」が、導きとなって坐禅(禅境)を深めていってくれる・・はずです。

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