碧巌の歩記(あるき) NO79  

◆「禅による生活」とは、どうゆう暮らしのことでしょうか?

◆これから「独りポッチ禅=3分間ひとりイス禅」をしたいのですが心構えは?

禅語では、「言う」を「道う」と書きます(この項では行う・・の意で「道」とします)

常日頃、行いのすべてに、ピチピチと活きている、好奇や躍動、生命力をほとばしらせて、(作為的な表現ではなく)情=心を自然につくしている、造作(はからい)がない「表情」・・のある生活を、私は「人生、裸で生きるべし」と道っています。

 

だから「禅による生活」は、一人独り、皆、違うのです。

ミンナ、宇宙で、ただ、独りだけのDNAを持って誕生しているのだ・・と、頭のてっぺんからつま先まで、浸み込んだら・・どんな暮らしもミンナ、ミンナ「禅による生活」となってくるでしょう。

「独りポッチ禅=3分間ひとりイス禅」は、足の痛みや雑念の苦行坐禅と違い真の穏やかな坐禅です。身も心もゆったりバランスのとれた態度で坐禅する、何かを自分に(効能効果を)期待しない「何の役にも立たない坐禅」ソノモノに集中する坐禅です。

そして・・3分間でも、無心に放ち切った境地の、日ごとの積み重ね・・が大事なのです。

あえて、その心構え・・といえば、姿勢を正し、眼を半眼にして、腹式呼吸で、六回の数息を計三巡。計十八回の数息・・をくりかえす・・だけです。(つまり、一回の呼吸がゆっくりと十秒程度であれば、十八回で三分間となる勘定です・・もうちょっと続けられれば、それを繰り返すだけ・・です)

これに慣れて、寝る時は「寝禅」。起きる時は「起床禅」食事の前には「食禅」。電車の中で「車中禅」仕事の前後に「仕事禅」・・トイレの時は「手洗い禅」お風呂では「風呂禅」・・など、オリオリに、サッと出来るようになられたら、次に、禅語録の碧巌録や無門関から、ドウモ気に障る、矛盾に満ちた「公案=則」を一つ、訳の解からぬ飴玉を与えたつもりで、数息の代わりに拈弄(ねんろう・・余分な妄想の代わりに、集中)なさってください。

この訳が分からない、役に立たない公案を拈弄する「独りポッチのイス坐禅」を、後生大事に繰り返し、繰り返し(造作、意図のない坐禅)なさることです。くれぐれも「悟り・悟達」への希望や期待や、スガスガシイ気分や効能を求めることなど、欣求・祈願の対象にしてはなりません。

坐禅で、心が落ち着くとか、安心の境地になったとか・・そんな目的のための手段は忘れることです。

坐禅が、何の役にも立たないこと・・であればこそ、何も成果を期待しない坐禅により、勝手に、人知れずに大覚、見性が醸成されていくのです

*仏教の四弘誓願に、煩悩無尽誓願断=煩悩は尽きることなく、誓ってこれを断じます・・とありますが、禅は、煩悩即(そのまま)菩提です。ところが、禅寺では、坐禅の修行中に、この四弘誓願をモゴモゴ唱えさせるのですから、ひどく矛盾した教導です。

白隠坐禅和讃でも「衆生、本来ほとけなり。水と氷の如くして・・」とあります。

●コトバや文字にこだわれば、木の葉が万札に見えてくる!

ハッキリ書いておきます。

禅は宗教ではありません。禅語に出てくる「佛・佛性」の字は「悟り」の意で、私は、ことごとく「禅」と意訳しています。千年前の中國の禅者には、頭髪を剃らず行者(あんじゃ)と呼ばれた指導者もおり、師家・和尚は「老師」(先生)とし、行脚・修行の僧は「求道者」としました。

例えば、次の一切佛聲は「一切禅声」の意です。

 

碧巌録 第七十九則 投子一切佛聲 (とうすいっさいぶっせい)

【垂示】圓悟が求道者に垂示した。

春夏秋冬、万物は何の思惑も無く自然に働き、目的をもってなしていない。禅=至道は好き嫌いがないだけだ。

解き放つのも、生け捕りにするのも、たいした力は要しない。

さあて、昔から今までに、どんな輩が、この「至道」とやらを、生け捕りにしたのであろうか。試みに挙す看よ。

  *垂示に云く、大用は現前、軌則(きそく)を存せず。

   活捉(かつそく)にも生擒(せいきん)にも、餘力を労せず。

   且(しば)らく道(い)え。

   是れ、なん人(びと)か曾(か)って恁麼(いんも)にし来たる。  

   試みに挙す看よ。

 

【本則】ある日、求道者が投子山の大同和尚に「仏教では、この宇宙そのものが佛陀の本体(宇宙即佛陀=佛陀即宇宙)であるから、総ての音や声は、これ佛陀の声でありましょうな」と念押しした。

投子「もちろん本当だ」

求道者「それじゃ、放屎(ほうし)放屁(ほうひ・クソダシ・オナラの音)はどうですか。あれも佛陀の尊い教えですか」と、からかったのである。

投子、ソレを聞くより早く、ピシャリと求道者を打った。

求道者は、それでもタジロギもせず、二の問いを仕掛けた。

「粗暴な言葉も、丁寧な言語も、大乗、小乗すべて佛陀の教えは、第一義=仏性本体(ZEN)である・・これは真実でしょうか」

投子「本当である」

すると、待ってました・・とばかりに、求道者は言った。

「それなら、今、私が、ご老師を、一匹の愚かな驢馬だと言っても、間違いではありませんね」

投子は、それを聞くより早く、求道者をピシャリと打った。

  *擧す。僧 投子に問う「一切聲(いっさいせい)は、これ佛聲(ぶつせい)なりと。

   是(ぜ)なりや否(いな)や」

   投子云く「是(ぜ)なり」

   僧云く「和尚、とく沸碗鳴(ふつわんみょう)の聲(こえ)なるものなしや」

   投子すなわち打てり。

   又問う「麤言(そごん)および細語(さいご)は、みな第一義に帰すと。

   是なりや否や」

   投子云く「是なり」

   僧云く「和尚を喚(よ)んで一頭の驢(ろ)となし得るや」

   投子すなわち打てり。

 

【頌】さすがだね・・投子よ、アンタはエライ。誰もその働きを止められない。

「是」の一言で、思い切り叩かせてもらったところなんか、まるで、小エビで太鯛を釣りあげたようなもの。

それが一度ならず二度までも大成功とは・・。

可哀そうに、かの求道者は、くだらない屁理屈を陳べているが、波浪に戯れて、しまいに溺死するのを知らない哀れな奴だ。

遂に、二度も打たれて溺れ死んだぞ。

もしも・・だが、あの二度目の時に、投子の棒を奪い取って、したたかに投子を殴りつけていたなら、百千の大河が、轟々と逆流するような一大活劇が演じられたろうに・・

(投子も泣くほど喜んだことだろう)惜しいことをしたものだ。

  *投子投子。機輪(きりん)に阻(へだて)てらるることなし。

   一を放って二を得、彼(かれ)に同じく此(こ)れに同じ。

   憐(あわ)れむべし限りなく潮(うしお)を弄(ろう)せし人、

   畢竟(ひっきょう)また潮の中に落ちて死せリ。

   忽然として活かせば、百川(ひゃくせん)倒流(とうりゅう)して

   閙聒々(とうかつかつ)たらんに。

 

【附記】投子大同(818~910)は、石頭希遷、丹霞天然の流れをくむ翆微無学の弟子。

この雪竇の頌は、味噌くそ一緒の、悪平等の邪観を打散せしめた、投子の力量を誉めている。どうやら言葉や文字に執着すると、木の葉が万札に見えてくる。チョウド次の則(80則)で「般若心経」意訳を紹介した。この79則の鍵穴にも「般若心経」はピタリと合うはずだ。

この般若心経は・・ZENのマスターキーとして、どの則、どの公案にも合致するが、神出鬼没・・在って無く、なくてある・・量子的キーなので、利用不能だ。アラビアンナイトの「開けゴマ」とは、えらい違いだと心得ることだ。

このあたりで「一切聲是佛聲」は蘇東坡の「山色渓聲 是廣長舌」と同義であるとしておきます。