般若心経とZEN・・碧巌の歩記(あるき)NO80 

「あるともサ・・流れに桃を放り込んでご覧ナ~ドンブリコ~ドンブリコ」

「般若心経」と「ポッチ禅」・・まず数息で調(醒)心が出来るようになったら、禅語の一語を、鉄の飴玉だと思って拈弄する・・この段階で、般若心経を看返すのがいいでしょう。

歌でも詩の朗読でも、声に出して自分に聞かせると、どうしても意識過剰・・気が散ります。般若心経も同じことですから、声をあげてとなえるのはやめて、まず、心経の言葉(文字)・・「色と空」の、理解しがたい矛盾・・例えば「眼や耳や鼻、舌、身・意(思いは、あるのに)ソレは無いことだ・・」を、そのまま、矛盾のままに黙読ください。昔、坐禅に集中するのに「南無阿弥陀仏」と念仏する坐禅法がありました。心経を坐禅の対象としてはなりません。

 

私は、般若心経で、誰も、肝心なところを素っ飛ばしている・・と思う・・のは、はじめに出てくる・・「行(ぎょう)深(じん)般若(はんにゃ)波羅蜜多時(はらみったじ)=禅による生活・坐禅を深く行う時は・・形あるもの、すべて空なりと照らし見るので、一切の苦しみと不安から解放される」とあります。

つまり、坐禅をして、深い揺らぎと造作の無い=依る辺なき境地に至って、はじめて、一切の苦しみや厄災から解放(度=ど)される・・のですから、大いなる智慧=般若はどこにあるのだ?・・と、探し回ることは出来ないことだ・・ということでした。人間は「考える葦」パスカル・・ですが、その「考える」こと・・そのものを考えるように出来てはいません。

般若心経は、「即=そのまま」の世界があり、「そのままが空=無」の世界である・・と、説くのです。この大いなる知恵の教えは、禅者の「禅による生活」の神髄ですから、求道者には理解できない呪(マントラ)でいいのです。

 

般若心経は、禅境(地)の入り口にたったと思うと、そのまま出口にいる・・紙の表裏の関係ではなくて、入口が出口、出口が入口だと説く、禅者のための教えなのです。

出口に立つと、入口に立っていますし、入口を入ろうとしたら出口に出ている・・ですから何時までも般若心経の直中(ただなか)に座り込むことはできません。

この般若心経の文言に囚われては、坐禅はなりませんから、ある程度、坐境(地)が進捗したあと、悟境の是非をリトマス試験紙のようにして般若心経を看ることを推奨します。

どの禅語録(碧巌録・無門関・臨済録など)の話にも、ピッタリと合致して、その実体のない禅機を発揚する・・この意訳の心経をご紹介します。

摩訶般若波羅蜜多心経 (まかはんにゃはらみったしんきょう)

 『無い・無いずくしの智慧の教え』

 

観自在菩薩        禅(行)の者よ

行深般若波羅蜜多時    禅による生活(智慧の完成)を深く行う時

照見五薀皆空       宇宙のすべては空(無)だと照らし見るから 

度一切苦厄        一切の苦しみと不安から解き放たれる

舎利子          禅(行の)者よ

色不異空         あるは空にことならず

空不異色         空は自在にことならない

色即是空         あるのは、そのままに「ない」のであり

空即是色         ないは、そのままに「ある」のである

受想行識亦復如是     感覚や思い行いや知識も またこのとおりだ

舎利子          禅(行)の者よ

是諸法空相        これら世の分別事は ことごとく空だから

不生不滅         生じてもいないし 亡びてもいない

不垢不浄         汚れてもいないし きよくもない

不増不減         増えてもいないし へってもいない

是故空中無色       このゆえに空の中に「ある」はなく

無受想行識        思いや行いや 認識することなどもない

無眼耳鼻舌身意      眼や耳などの感覚などや意識の一切もなく

無色声香味蝕法      五感や執着する欲望のすべてもない

無眼界乃至無意識界    意識する世界も無意識、本能のすべてもなく

無無明亦無無明尽     因果応報や煩悩もない、ないと思う事もない 

乃至無老死        さらに、老いて死ぬこともない

亦無老死尽        また老いて死なないということもない 

無苦集滅道        死苦八苦する、輪廻の業や愛執もない

無智亦無得        智もなく また得るものもない

以無所得故        その得るところ無きゆえに

菩提薩埵依般若波羅蜜多故 大いなる智慧(禅)により            

              禅(さとり)を体得(かんせい)するのだ

心無罣礙無罣礙故     こだわりがなく 疑いなきゆえに                   

無有恐怖         恐れおののくことがない

遠離一切顛倒夢想     あらゆる妄想と執着が離れ消えて無くなり  

究竟涅槃         ついに安心となる 

三世諸仏         過去現在未来、無限に大覚した禅者は

依般若波羅蜜多故     禅(さとり)の行(かんせい)

              禅による生活のゆえに              

得阿耨多羅三藐三菩提   ピチピチと躍動するいのち・・そのもの

故知般若波羅蜜多     禅による生活をただ、そのままに享受する         

是大神呪 是大明呪    (ゆえに)この霊妙で光り輝く真言をのべ 

是無上呪 是無等等呪   この比較できない心の不思議をのべ 

能除一切苦        よく一切の苦しみを除き、

真実不虚         真実にして虚(むな)しからざる 

故説般若波羅蜜多呪    禅による生活を呪(マントラ)に説く

即説呪曰         呪に説いていわく

羯諦羯諦(ギャテイ ギャテイ) 来たぞ 着いたぞ

波羅羯諦(ハラ ギャテイ)   まったき青空のただ中に

波羅僧羯諦(ハラソウギャテイ) よくぞまあ すがすがしいこと

菩提娑婆訶(ボジソワカ 禅者は かく自然(ありのまま)なり

般若心経 

 

碧巌録 第八十則 趙州初生孩子 (じょうしゅう しょしょうのがいし)  

【垂示】欠如・・ありません

【本則】求道者が趙州従諗(じょうしゅう じゅうしん778~897) に問うた。

「生まれたての赤ん坊は、六識六覚(眼=色=視/耳=聴/鼻=嗅/舌=味/身=色=触/意=知)を兼ね備えておるのでしょうか」

趙州「あるともさ。流水にボウルを投げ入れて見よ」と爽やかに云った。だが求道者は、そんな理窟離れの言葉で、趙州の真意がつかめなかった。

今度は舒州の投子大同(とうすだいどう818~914)の所で、趙州の言い分の解説を乞うた。

投子はズバリ・・「念々とどまることなく流れていく」と答えた。

   *擧す 僧、趙州に問う「初生の孩子、また六識を具するや否や」

   趙州云く「急水上(きゅうすいじょう)に毬子(きゅうす)を打(だ)せよ」

   僧、後に投子に問う。「急水上の毬子を打せよは、意旨(いし)如何(いかん)」

   子云く「念々不停流(ねんねん ふていりゅう)」

 

【頌】百二十才の長寿を保った趙州は、その深い禅境(地)を披露する時、唇から光を放っている・・と言われた禅者である。

事もあろうに、その老師に、百も承知の質問(生まれたての子に六識の有無を尋ねる)を投げて、たちまち、生命の渦潮に呑まれてしまった。流れくだるボウル(いのち)は流転している。

流れてやまぬ生命の行先などイッタイ誰が看届けられるものか。

(附記)おとぎばなしの、桃から生まれた桃太郎だって、ドンブリコ~ドンブリコと流れて、どこかの婆さんに川から拾い上げられたではないか。

   *六識無功(ろくしきむく)に一問を伸(の)ぶ。

   作家(さくけ)かって共に端(たん)を辦(べん)じ来(きた)る。

   茫々たる急水に毬子(きゅうす)を打せよと。

   落處(らくしょ)に停(とど)まらざるものを誰が看ることを解(げ)せん。

【附記】趙州は、求道者の問いに答えて、無門関 第一則「狗子仏性」で、犬には仏性(禅=悟)は無い・・と答えている。坐禅の初心者には、この「趙州無字」公案は、東大の入学試験に、小学一年生が合格するほどの難問・難透中の難透と言われている。畳の上の水練で、オリンピック金メダリストに太刀打ちしようとする・・ホントによくやるよ。