碧巌の歩記(あるき)NO81 注意!ソラ・・矢が飛んできたぞ・・

 

●瞑想や坐禅が「役立たない修行」なら、どうして釈尊は、菩提樹下、坐禅なされて悟りを開かれたのだろう・・?  

悩みや苦しみから解脱するために「禅」はあるのだろうか・・?

「独りポッチ禅=何の役にも立たない三分間ひとりイス禅」・・を推奨される理由がわかりません。

今、世界中に流行っている瞑想や坐禅は、効能・効果が一杯あって、悩みスッキリ、チャント役立っている・・と思われているのなら、ことさら、私が提唱する「独りポッチ禅=金ヒマかけず、自分一人で、好きな時に、椅子に坐る三分間程度の、眼を半眼にした、何の役にも立たない坐禅をおやりなさい」・・に関心を持たれることも、この奉魯愚(ぶろぐ)をご覧になる必要もないことになりましょう。この無価値な「ポッチ禅」に、何か心惹かれるものがあるとすれば、「無価値」とか「無功徳」とか、「役立たず」とかの言葉の持つ・・何か・・問いかけてくるもの・・のはずです。

さて、坐禅は・・「役立つとか・・役立たない」・・とか、イッタイ何に対して・・機能機作する目的と方法、手段なのでしょうか。

自分の心が安らぐ・・とか、ストレスを解消したい・・とか、自分の心の落ち着きが欲しくて、病気の対処療法の「薬」のような効用効果を求めたい時には、どこかの寺僧の指導を受けられたり、PCや本で学習されるのが、お手頃かも知れません。

ここで提唱している「独りポッチ禅=三分間ひとりイス禅」は、達磨がインドから中国へ「禅」を伝えた時の「無功徳」=何のご利益(りやく)もない・一切、役立つことがない・・禅(の心)・・達磨は、この禅境(地)を「廓然無聖(かくねん むしょう)」=カラりと晴れた青空・・といっています。

その禅境を自覚したい、目的のために坐禅という方法をとる・・つまり「何にも役立たない【禅】を自覚したいのなら、何にも役立たない「坐禅」をする」のが、一番、最良の方法・・という訳です。

実際、禅の専門道場(僧堂)で、悪戦苦闘、難行苦行の雲水(僧)が大悟見性した例は、余り多くありません。皆さんがよく知っている一休(宗純)さんは、二度自殺を図って参禅修行された方ですが、師からの印可状(見性=悟りの証明書)を焼き捨てて、風狂の禅者と言われた生涯でした。亡くなられる時の遺偈に「誰か我が禅を会す」と独りポッチ禅を称揚されています。また、新潟の五合庵の(大愚)良寛さんは、子供たちと手鞠をついて遊びながら、権力、権威の生活社会から離れ、宗教色を微塵も出されなかった自由人でした。

臨済宗、中興の祖と言われる白隠(慧鶴)さんは、托鉢の途中、農家の婆さんに、箒で頭をどやされて、サトリを開いた方ですし、鐘の音を聞いてとか・・庭掃除の最中、石ころが竹にあたる音で大悟した人や、花の香りや、暁の星の輝きから・・これは釈尊です・・中には鼻を痛いほど捻られてとか、雷に撃たれて・・大喝、突き飛ばされて・・などなど、沢山の人が大悟されていますが、ワザワザ禅寺の専門道場で坐禅の最中、悟りを開いたと言う人は、ヒドク少ないのです。

(もっとも、禅寺の跡継ぎ養成の為の期間限定での修行では、卒業証書ほしさの勉強と同じで、形ばかりの修行で無理からぬことです)

昔の禅修行は、自分を本当に鞭撻(べんたつ)してくれる師を求めて、行脚(探訪)した、弟子が師を選ぶ・・生徒が先生を選ぶ、真の見識のある手に手をとった指導と修行法でした。                 ですから、オリオリに坐禅もする・・働き(作務)もする・・普通の生活の中で、米麹が次第に醗酵して「美酒」が熟成するように、自然と「禅」が大覚・見性されているのです。臨済

厳しくいましめる・・「造作」=「ハカリゴト」は、一切、ありませんし、思惑は効能書きにすぎないのです。

何とか坐禅して悟りたいとか、不安な心を解消したいとか、自分本位に坐禅を考えたり、利用しようとする人には、サトリは絶対に得られることはありません。(欧米の禅ブームのほとんどは、心理学禅・病理学禅で、精神病を治療する方法として研究されていますので、ひどく「悟り」とは縁遠いものです)むしろ悩みが一層、深刻になって心身とも病気になりかねません。禅を利用したり、役立てたい・・と思う「欲求、分別」心や文字、言葉に「執着」する心こそ、マスマス 禅から遠ざかることですから、まず、どうせ「役立たない」坐禅なのだ・・と、その効能効果、機能機作を捨て去るところからスタートするのが一番です。

次に、無理にとか、やる気のない時には、やらないことです。

他の仲間と共に・・とか、ご一緒にどうぞ・・とか、気を紛らわすようなこともしてはなりません。一人で静かにやり続けましょう。

まず、呼吸を数える「数息」から初めて、やがて・・数年か・・数息を忘れて坐禅できるようになったら、無門関か碧巌録の公案(禅語)の一則を、鉄の飴玉をしゃぶるように、それが頭の中で、溶けて無くなるまで・・何十年でもしゃぶっている・・ような、覚悟の坐禅を続けられることです。

禅語録「公案」は、どれをとっても、論理・哲学的ではありませんし、分別・思考に適合した解答は、永久に得られるものではありません。つまり、どれもこれも正解を得難い矛盾の問題・行動集です。もし、公案に、何か論理的に解明できた・・と思う「答え」がある・・としたら、それは全部(その答えは)絶対に「間違い、偽物、思い込み、つくりごと」です。それは「妄想、執着」です。貴方の「禅」は、どうやら死ぬまで「正解」が得られないで終わるかも知れません。実は、それでいいのです。(達磨は二祖慧可を得るまで、嵩山少林寺で、面壁坐禅九年を要した・・と言われています)「零点か・はたまた満点か」どちらになろうと、かまわないではありませんか。その最終の禅境(地)は、達磨さんのいう「廓然無聖=カラりと晴れた青空」なのです。

「役立たない坐禅」は、ソンナ清々しい青空の坐禅なのです。

また、万が一にも、突然、予期せぬサトリが、貴方にやってくるかも知れません。つまり「百点満点」です。その時は、言葉にも文字にも仕草にも表わせない、ただ自知するのみの禅境(地)・・カラリ晴れた青空・・でしょう。

 

碧巌録 第八十一則 薬山麈中麈 (やくざん しゅちゅうのしゅ)

【垂示】圓悟が求道者に垂示した。

敵の軍旗を奪い取り、進軍ラッパも鳴らぬようにしたら、それこそ天下無敵、百戦百勝の猛将だ。

千人の達道の者が攻め寄せたとて、その働きは止まらない。

また達磨さんのように、無功徳(むくどく)・不識(しらず)の鉄壁な心根なら、どんな策略をもってしても破れることはない。

これぞ神通妙用であるし、絶対そのものが、ありのままに現前することだ。

さて、どのような者なら、そんな奇特な働きが出来るのであろうか。その例を挙げるから看よ。

  *垂示に云く、旗を攙(ひ)き鼓を奪わば、千聖も窮(きわ)むることなからん。

   訤訛(こうか)を坐断すれば、萬機(ばんき)も到らざらん。

   これ神通妙用にあらずや。また本体如然(ほんたいにょぜん)にあらずや。

   且らく道(い)え、この什麼(なに)によってか、

   恁麼(いんも)に奇特(きとく)なることを得るぞ。

【本則】ある求道者が薬山惟儼(やくさんいげん)の禅庵に来て「あの天台山・平田の草原にいる鹿の群れの大将(大鹿)を、見事にやっつける方法がありますか」と、まるで自分が、その大鹿であるかの如く問いかけた。

すると薬山「ソレ箭(矢)が飛ぶぞ」と、弓を引く仕草をした。

・・少しは「禅」を頭で理解していた求道者は、射殺された大鹿のようにパタッと倒れてみせた。

薬山、当然のように、傍らの侍者に「この倒れた馬鹿をかたづけよ」と言い放なった。

これを聞いた求道者、驚きアワテテ逃げ出した。

薬山これを見て「ナント下司な野郎だな。最近、こんな大根役者ばかり増えてきたな」と、いたく嘆いた。

(雪竇、尻に帆をかけて逃げ出した求道者に一言・・立ち上がり三歩は逃げ出せても、五歩までは保(も)たんなあ・・)

  *擧す。僧、薬山に問う。

  「平田の浅草(せんそう)に麈鹿群(しゅろくぐん)をなせり。

   如何にしてか麈中(しゅちゅう)の麈(しゅ)を射得(せきとく)せん」

   山云く「箭(や)を看よ」僧、放身(ほうしん)して便(すなわ)ち倒(たお)れたり。

   山云く「侍者(じしゃ)よ、この死漢(しかん)を拖(ひき)出(いだ)せよ」

   僧便ち走れり。

   山云く「泥團(でいだん)を弄(ろう)するの漢、什麼(なん)の限りかあらん」

   (雪竇拈(せっちょうねん)じて云く

   「三歩は活すと雖(いえど)も、五歩では死するべし」・・)

【頌】大群の鹿の王者と名乗った求道者を、薬山は、獲物が鍋ネギ持参でやってきた・・とばかり、一矢で射とめてしまった。

求道者が葬式準備に驚いて逃出す様子は五歩もモタナイ慌てようだ。惜しいかナ、グッと踏みとどまって、睨みかえす度胸があれば、かえって群鹿を率いて、大敵の猛虎を追うことも出来たろうに・・。されば、薬山の手際の鮮やかなこと。

狩人の正眼をもって、唯の一箭(ひとや)で大鹿を射止めるとは・・と、雪竇、頌(じゅ)し終わった瞬間「ソラ、箭が飛んできたぞ」と座下の求道者に大声で警告した。

  *麈中の麈を、君は看取(かんしゅ)して一箭(せん)を下(くだ)せり。

   走ること三歩、五歩にして、もし、活するならば

   群を成(な)して虎を趂(お)いしならん。

   正眼(しょうげん)は従来猟人(じゅうらいりょうじん)に付(ふ)す。

   雪竇(せっちょう) 高声(こうせい)に云く「箭(や)を看(み)よ」

 

【附記】禅機(悟りのキッカケ)を問う公案。ただ芝居の出し物としては、薬山が嘆くように、役者が大根役者のうえ、ドサまわりの芝居です・・行脚の雲水の、あまりの低レベルさに、ガックリきている様子が窺える逸話である。最も、現代の方が、もっと酷い観光禅の状況であるが・・!