●釣り好きの私は、よく、何も釣れない、丸坊主のことがよくある。もっとも大型のチヌ(クロダイ)やハネ(シーバス)が釣れた時でも。ケータイの写真にとって、全部リリースしている。太刀魚のシーズンには、もれなく釣れた分は持ち帰り、バター焼きにしたり、ご近所に配り歩いたりするが、今年の夏は、体調に問題があり、少し岸壁から遠ざかってしまった。
この垂示「竿頭絲線(かんとうのしせん) 具眼方知(ぐがん まさにしる)」に対応するべし・・と思う頌に、第六十二則、雲門形山秘在の頌をあげる。
雲門文偃(うんもんぶんえん)(852頃?~928頃?雪峯義存(せっぽうぎそん)=の弟子、雲門宗開祖)・・その弟子、巴陵顥鑒(はりょうこうかん)(不詳)と同じく、この則に登場する・・白兆志圓(はくちょうしえん)の弟子、大瀧(だいりゅう)智(ち)洪(こう)(不詳)は、ともに洞庭湖畔に、詩的、禅的に悠々の生活を送っていた禅者である。年代も推定だが、ほぼ等しく、時に相まみえる機会があったかもしれない。
雲門形山秘在 第62則 頌
「看(み)よや 看よ。古岸(こがん) 何人(なんひと)か釣り竿を把(と)る。
雲 冉々(ぜんぜん)。 水 漫々(まんまん)。
明月(めいげつ)蘆花(ろか) 君自ら(みずか)看よ」
碧巌録 第八十二則 大龍堅固法身 (だいりゅう けんごほうしん)
【垂示】圓悟が座下の求道者に垂示して云った。
釣竿の先は、魚を懸ける釣り針に餌・・と決まっている。
禅者たる者が、求道の魚を釣り上げて、どんなものか検証しようとしても、チャントした具眼の魚であるなら、うまく餌だけ取って針には懸からないものだ。
達道の禅者が月並みでない計略で、こちらを説得しようとしても、こちらが作家でありさえすれば、いくら狡猾な手立てを講じようとしても、その手は桑名の焼きハマグリだ。
サア、その釣竿の餌とか・・探り釣りの技術や予想外の機略とか・・もともと、絶対の真理とは、どんなことを云うのか・・試みに挙す 看よ。
*垂示に云く、竿頭(かんとう)の絲線(しせん)、具眼(ぐがん)はまさに知る。
格外の機は、作家まさに辦(べん)ず。
且らく道(い)え、作麼生(そもさん)か これ竿頭の絲線、格外の機なるぞ。
試みに挙す 看よ。
【本則】ある日、洞庭湖畔、自然に抱かれた美しい大龍山に禅居する智洪を尋ねて来た、ひとりの求道者が問うた。
「吾が肉体は亡びます。では、堅固不滅の法身(禅・悟り)と言われるものは如何ですか」
大龍「どうだネ、山野に咲き乱れる花をご覧ナ。あの渓谷の藍の如き水を看よ」(これこそ、お前さんの探している法身の露現だよ)
*擧す。僧 大龍に問う「色身(しきしん)は敗壊(はいこ)す。
如何なるか これ堅固法身(けんごほっしん)」
龍云く「山花は開いて錦に似たり。
澗水(かんすい)は湛(たた)えて藍(あい)のごとし」
【頌】この求道者・・せっかく達道の禅者、大龍に面接しながら、質問の仕方を知らない。その親切な答えすら、合点していないようだ。色身は淡雪の如し・・と思い込み、法身はダイヤモンドの如きと確信する・・ガチガチの硬直した頭の持ち主だね。
大龍の言を、あえてネガテイブに言えば「巌山に月は冷ややかに,樹林には寒風吹きすさぶ・・」となるかナ。
禅者にとって、法身の当體は、春夏秋冬、人それぞれ、その悟境(地)は、いかようにも表現できるぞ。
しかし、概念、哲理に凝り固まった者には、いきなり禅者に正面から出逢うと、どうしてよいか・・わからなくなる・・【香厳智閑(こうげんちかん)の問い・・路逢達道人(みちにたつどうのひととあわば)不将語黙對(ごもくをもって たいせざれ)無門関三十六則】・・のアリサマになったようだ。
- ソレッ!突っ立ってないで・・何か道(い)いなさいヨ!
さすがだね・・禅者、大龍。手に白玉の鞭をとり、法身の名の宝珠を、ことごとく粉砕してしまった。
もし、堅固法身の撃砕に失敗するような失策をしでかしたなら、人騒がせな罪により、禅の憲法=極意三千條のどれかに該当して罰せられたであろうに・・(天地同根・無依の真人など真意伝達不届きにつき・・/大龍の履歴は生涯不詳)
*問いも、かって知らず、答えもまた會(え)せず。
月は冷ややかに風は高し、古巖寒檜(こがん かんかい)に。
笑うに堪(た)えたり 路に達道の人に逢わば、
語黙(ごもく)をもって對(たい)せざれよとは。
手に白玉の鞭(むち)をとって、驪珠(りじゅ)をことごとく撃砕(げきさい)せり。
撃砕せざりしときば、瑕類(かるい)を 増じるにならん。
国に憲章(けんしょう)あり。三千條の罪。