碧巌の歩記(あるき)NO92

多くの人は、坐禅すれば悟れる・・と誤解しています。この碧巌録のみならず、無門関など禅語録に登場する達道の禅者たちは、悟りを「クソカキベら」と口汚く罵り、経典を「トイレットペーパー」だと排斥します。

はてなブログ 禅のパスポート=無門関 講話意訳 参照)

大事なのは、禅の観光寺にウゴメク、師僧や著作、禅もどきに騙されない、独りで生きている・・独り生かされてある・・自分を自覚すること。

禅は(頭で考える)智識や言葉,文字より、その人ごとの人生の歩みによって、日々行う、生活行動で検証されていく寂寥の風景とでも言おうか。

まずは・・何故か「坐禅」でもするか・・と思う、その心根=般若智から湧いてくる「無分別・無価値・無所得・空・無心」と称せられる、安心を得たい・・衝動に素直に従うことだ。

この寂寥の風景は・・「我がママになる」社会=スマホ教信者として暮らす「自己中」には、絶対、見えてこない景色です。

(本当は、自分だと思っている自分は、自分の頭脳だけで思っている「我が侭」な思いです。自己保存=DNAは、頭脳だけが思う・・思わせる本能です。それが証拠に呼吸や血流や心臓は頭脳の思うままになりません)

キット・・坐禅を通して、その頭脳のどこかに、総ては「般若空」であり、無所得=無尽蔵であると、体観する「禅」の神経回路が出来てきて、やがて発火、爆発する・・「悟り」があるのでしょう。(悟るまで、そのように期待しないで放っておくことです)

その悟り=見性=透過=大覚・・が、人の感性に働きかける時こそ・・チャンと自然と湧き出る泉のごとき「寂寥感」が生まれてくるのですから・・。

そうした感慨をこめて「禅による生活」=(独り3分ポッチ禅を自覚している人)を私は「禅者」と言っています。

碧巌録 第九十二則 世尊陞座 (せそんしんぞ)

【垂示】圓悟の垂示である。

音楽は一小節のメロディを聴くだけで、曲の総てが解かるように(これは列子伝にある・・伯牙が曲を奏でれば、鐘子期が遠く詳らかにこれを聴く。千年たっても巡り会わない演奏上手と聴き上手の逸話に基く)話上手と聴き上手は、ナカナカ出会うことはない。

兎を見て、すぐに鷹を放つのは難しいが、それが出来れば見事である。禅者とは、わずか一句の内に一切の真理を包括して、小さいチリの中に全宇宙を取り込んでしまうような・・人物を言うのだが、はたして、そんな禅者と生死を共にできる、龍の玉を手中に収めるような、明眼、達道の者が、この求道者の中にいるかどうか。

試みに挙す看よ。

   *垂示に云く。絃(げん)を動かして曲を別(わか)つ。

   千載(せんざい)にも逢(あ)いがたし。

   兎を見て鷹を放つ、一時に俊(しゅん)をとる。

   一切の語言を総(す)べて一句となし、

   大千沙界(たいせんしゃかい)を攝(せっ)して一塵(いちじん)となす。

   同死(どうし)同生(どうしょう)、七穿(せん)八穴(けつ)。

   還(かえ)って証拠(しょうこ)する者ありや。試みに挙す看よ。

【本則】ある日、釈尊は沢山の求道者たちを前に、説法の高座に着座された・・ので、文殊(菩薩)は云った。

「よく聴きなさい。釈尊のお話は、すべて、この宇宙につまびらかにあり、満ち満ちている(法である)から、今さら、云うのも詮無きこと。一切無用のことでしょう」・・と言い終わるや、ただちにその高座、説法終了の合図(槌)をカチンと打ち鳴らした。

釈尊は、この文殊の心配(こころくば)りにうなずかれて、ただちに下座された。

   *擧す。世尊(せそん)一日陞座(しんぞ)せり。

    文殊、白槌(びゃくつい)して云く「諦観(たいかん)法王法(ほうおうほう)、

    法王法如(ほうおうほうにょ)是(ぜ)」と。

    世尊 便(すなわ)ち下座(げざ)。

 【頌】禅者の大元締めである釈尊の「一悟」は、こんな芝居じみたパントマイムで表現できるものではない。

悟徹の禅者なら「禅による生活」は、一興の狂言芝居でないことをよく知っている。

もし、この席上に、ひとりでも仙陀婆(せんだば、直覚、賢明)のような者がいたら、文殊の白鎚を待つまでもなく、以心伝心、無言無説(の禅)を自覚していよう。

今回は文殊の出しゃばりで下世話な芝居に成り下がってしまった。

  *列聖叢中(れっしょうそうちゅう)の作者は知らん。

   法王の法令のかくの如くならざることを。

   會中(えちゅう)、もし仙陀(せんだ)の客あれば、

   何ぞ必ずしも文殊、一鎚(いっつい)を下さん。

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無門関 講話・意訳を開始しました!古来、禅の参究では、この碧巌録と無門関が双璧をなす書であるといわれます。

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