碧巌の歩記(あるき)NO93

禅 公案「父母未生以前 本来面目」(ふぼみしょういぜん ほんらいのめんもく)とは・・

神が「人間」を造ったのか・・人間が「神」を造ったのか・・

わたしは、宗教や哲学の問題に関知しません。

(私は、浄土真宗=愚禿親鸞(ぐとくしんらん)上人の信者です)

ただ、佛教学者であり、禅を世界に広めた、故、鈴木大拙の言葉(本)に・・全知全能の神ナラバ、罪深き人間の行く末など百も承知であろう。わざわざ自分の姿に似せて人間を造り、エデンの園の林檎を食べたアダムとイブを追放し、大雨を降らせてノアの方舟だけを助け、今や原爆を造らせるまでもなかろうに・・と疑問を提示されて、それは「神の(全知全能の自分へ)の好奇心」がなせるワザであろう・・と書かれたのを読んだことがあります。

(禅は、つまり「神の光あれ」の・・以前を問うことだと)

 

私は、人間の、この止むことのない「好奇心」こそが、智慧となり、生きる原動力になるのだろう・・と思います。そして静かに、何処からか湧いてくる「寂寥感」とともに、坐禅をしたいと思う・・キット生きることの確信を得たい・・とする衝動にかられるのが人間だと思います。

この「好奇心」が、坐禅=智慧となり、「寂寥感」老病死苦=愛・慈悲・・になる・・と思っています。

 

碧巌録 第九十三則 大光作舞 (だいこう まいをなす)

                   大光這野狐精 (このやこせい)

【垂示】ありません。

【本則】ある日、一人の求道者が、湖南省長沙府、大光(だいこう)山の禅院を訪ねてきて居誨(こかい)老師(837~903・石霜慶諸の弟子)に質問した。

「あの金牛和尚の奇行・・七十四則・金牛飯桶の話・・に対して、長慶慧稜(ちょうけい けいりょう)は『かの食事の提供(ボランテア)は、働く喜びと感謝そのもの』と云ったそうですが、その意味はどういう事ですか?」

すると大光は、金牛和尚の飯時の欣喜雀躍(きんきじゃくやく)な踊る様子をしてみせた。

これを見た求道者、何が有難いのか・・深く礼をした。

大光云く「お前さん・・そんなワザとらしい礼拝は、いったい何に対してなしているのか・・?」と尋ねた。

すると求道者、今度は、大光を真似て、そっくりのアリガタ踊りをしてみせた。このそっくりさんの真似踊りを見て・・大光、大喝。

「この大間抜けのコンコンチキめ」・・と、罵声をあげて彼を追い出した。

  *擧す。僧、大光(たいこう)に問う。

  「長慶(ちょうけい) 道(いわ)く『齊(さい)によって慶讃(けいさん)す』と。

   意旨如何(いしいかん)」

   大光 舞を作(な)す。僧 禮拝(らいはい)す。

   光云く「この什麼(なに)をみてか便(すなわ)ち禮拝するぞ」僧 舞を作す。

   光云く「この野狐精(やこせい)」

【頌】求道者の問いに、食事の感謝の舞をしてみせたのは、まずは軽い矢の狙い撃ちだが、当ったところで死にはしない。

ところが、求道者がコピペ踊りをした時の後の矢は、偽札づくりの犯人を無期懲役の重罪にしてしまうような厳しい矢だった。

「禅による生活」の贋造・コピペは、枯れ葉を金貨という以上に罪作りな事だ。世の中に出回る、キツネと狸の化かし合いなら影響は少ないけれど、正直な庶民まで化かすような偽禅者は許せない。

幸いに、曹渓門下の禅には、安っぽい偽札造りはいないようだ。

  *前箭(ぜんせん)はなお軽く、後箭(ごせん)は深し。

   誰か云う、黄葉(こうよう)はこれ黄金なりと。

   曹渓(そうけい)の波浪もし相似(あいに)たりしならば、

   限りなき平人(へいじん)も陸沈(りくちん)せられん。 

 

【附言】

禅者は、独り「禅による生活」を、日常の暮らしに行うだけ・・ワザワザに文字表現するのはどうも得手ではありません。

「私の人生そのものが、私が言いたいことのすべてだ」

マハトマ・ガンジー至言(My life is my message)

この碧巌録では、言う・・を「道(い)う」と書かれています。