碧巌の歩記(あるき)NO94

釈尊が「禅」について論理的な教導をなされたと云うが?

本則の説話は、首楞嚴経(しゅりょうごんきょう)・・密教系思想の経典、705年頃の漢訳・・に基づく。しかし、実にクダクダしく、難解に仕立ててあり、禅(の公案)に馴染まない(この経典は、釈尊亡きあとに編纂され、それが千二百年の歳月を経て、中国で漢訳されている。中国の学僧たちの膨大な哲学的認識論の由来と経過が、背景に山積みになっている)

 

私は「禅」について、この経典のみならず、万巻の仏教経典や解説(本)を否定します。達磨がインドから中国へ、不立文字、教外別伝の「禅」を伝えたのは、論理的哲学的なインドの揺籃の地から、実践実務的な(具体性を重視する)中国・・そして、禅を純化する日本の風土に伝播していく必然性があったからと考えています。

どだい大悟された釈尊が、未悟・求道の弟子、阿難に「禅」が一番に否定する「論理的に」語る訳がありません。

碧巌録と双璧をなす禅語録「無門関」第二十一則「迦葉刹竿(かしょうせつかん)」・・釈尊の亡きあと、金蘭の袈裟の外に、何か「禅の秘伝」でもあるのか・・と迦葉に尋ねる迷える阿難(あなん)がいます。迦葉は阿難(アーナンダ)と呼ぶ。彼は「はい」と素直に答える。迦葉云く「門前に設置してある説法案内の旗印を取り払いなさい」・・と。この「無門関第二十一則」の指摘は、禅機(悟り)を誘発する最も初歩的な公案です。

(また、第六則「世尊拈花」も、独り・ポッチ禅では初歩の公案としています)

独り・三分ポッチ禅をなさる時、一回十秒の呼吸を数えて(数息)十八回とするより、その間、チョット心惹かれる公案の一則を、何故だ・・?どうして・・?と思い描く方が、頭(妄想)の消毒、掃除にもってこいです。

ただし、ここで貴方に、注意!

公案に即して(ついて回って)解(悟り)を得ようとしたら間違いです。ですから、私には、釈尊「大佛頂如来密因修證了義諸菩薩萬行首楞嚴経」・・この長ったらしい経の文言で、いったい何を阿難に教導されたのかサッパリ解かりませんし、この経の醍醐味(有難味)も知りません。

この本則の文章、語言だけで、禅の「主観・客観」の認識が解説、理解できるとしたら、釈尊の、四十八年一字不説の本意を否定したことになる・・と確信しています。

キット、雪竇は、零(ゼロ)を発明したインドならともかく、論理的哲学的に禅を説こうとする、蕎麦屋の窯の中のような、当時の学僧たちに警告したのでしょう。

蕎麦屋の窯の中・・湯=言うばかりの意

 

碧巌録 楞嚴不見 時(りょうごん ふけんの時)第九十四則

【垂示】圓悟が垂示して云うのに、禅者の一句は、どのような修行を積んだ人も冷暖自治するのみで、他人に説示することは不可能である。眼前に展開されている生命の紡ぎは、永遠に途絶えることなく続いている。しかも真実は、すべてアリノママに隠すことなく「青天井の下の白牛」としてあり、また眼がギラギラ吊り上がり、両耳を立てた文殊の「金毛の獅子」として如実に現れている。

さあて青空の下にいる白牛とは・・文殊の乗る金毛の獅子とは・・どんな様子をしているか・・

ボオッと砂漠の真ん中で蜃気楼(ミラージュ)を見ているような、暑さボケのお前さん・・「坐禅をしたい」・・と心の底から湧いてくる・・その獅子吼に答えてみなさい。

  

  *垂示に云く、聲前(しょうぜん)の一句は、千聖(せんせい)も不傳(ふでん)なり。

   面前(めんぜん)の一絲(いっし)は長時無間(ちょうじむげん)なり。

   淨裸々(じょうらら)、赤灑々(しゃくしゃしゃ)たる

   露地(ろじ)の白牛(びゃくぎゅう)と

   眼卓朔(まなこ たくさく)、耳卓朔(みみ たくさく)たる金毛の獅子とは、

   即(すなわ)ち且(しば)らくおく。

   且らく道(い)え、作麼生(そもさん)か、これ露地の白牛なるぞ。

 

【本則】楞嚴経に云く・・ある日、釈尊は阿難(あなん)に視覚で物を認識すること「主観・客観」について次のように話された。

人は「主観と客観」が顛倒(てんとう)していることに気付かない。(網膜に映るのだって逆さまだし、鏡に映る様子だって左右が逆になっている)

吾が見ない時、どうして吾の見ない處(相=すがた)を見ないのか・・もし、その見ない地(ところ)を見るとすれば、それは客観の見えない事象(相)ではない。それは本来、吾の見る相である。それでも「見ない」のに「見える」と言うのは嘘を言うことになる。もし、私の「見ない事象」を「見えない」と云うならば、それは事象(物質)ではない。物質でないなら、それは心性=主観である。どうしてそれが客観となろうか(主観そのものではないか

   

  *擧す。「楞嚴経」に云く、

   「わが不見(ふけん)の時、何ぞ、我が不見の處(ところ)を見ざるや。

   もし不見を見れば、自然に彼の不見の相にあらざらん。

   もし、わが不見の地を見ずんば、自然に物にあらざらん。

   如何(いかん)が汝にあらざる」 

 

【頌】眼の不自由な人たちが象を撫でて、その姿を形容する話が、大涅槃経にあるが・・白牛や金毛の獅子も、まったく水に渇した眼病患者が、砂漠の蜃気楼を見るアリサマだ。

昔から、禅を教導する者、求道行脚の雲水たち・・共に、その見解、議論するところは、持って回った上滑り、口先ばかり・・実相に触れて「看た」=「手に入れた」ものではない。

釈尊が、一言も語ったことのない「普賢菩薩(本質)の白牛・・文殊菩薩(事象)の獅子」のことを、主観的客観的と分別論証するのは、禅を生体解剖している悪臭無限の禅者モドキ達だ。

まったくもって禅の将来が思いやられることだ。

 

  *全象(ぜんぞう)全牛(ぜんぎゅう)、瞖(えい)にことならず。

   従来(じゅうらい)の作者は共に名摸(めいばう)。

   如今(にょこん) 黄頭老(こうとうろう)を見んと要するも、

   刹々塵々(せつせつじんじん)、半途(はんと)に在(あ)り。