碧巌の歩記(あるき)NO96

かくれんぼ・・「ごはんですよ!」の声かかり!  

 

よく禅語に「橋が流れて、河は流れず」とか・・「花は緑に、葉は紅に」とか、因果関係が真逆になる表現があります。また、坐禅中に「立てた線香の灰がポトリと落ちる・・それが太鼓の叩いた音のように、ドオンと聞こえた」とか、遠くで鳴る鐘の音が、縦縞(たてじま)模様(もよう)になって見えた」とか・・何かオドロ・オドロしく感じる坐禅時の異常な集中心理の記録があります。そうした体験談は、強圧的な集団的修行で発生する、いわゆる追い詰められた時の心理的動揺です。

昔、昔、助監督の頃・・『敵中横断三百里』の作家、故・山中峯太郎さん宅にお伺いして、お話を聞くことが出来ました。

たまたま、坐禅の話になって「自分の坐禅は、骸骨を前にして坐禅したので「骸骨禅」だな。心機たかまるとすべてがレントゲン写真のようになり、人が骸骨・幽霊に見えた」・・と言われたのを思い出します。禅の集中状態の心理には、そんな不思議な神経作用があるようです。でも、こんな心理作用は、やはり異常で本当の坐=「禅」ではありません。こだわらず無関心に放置すれば、自然に、日常ありのままに落ち着きます。

 

この碧巌録 講話・意訳を読んでもらえば、千年前の禅者たちの、実にバランスのとれた禅境(行い)が見て取れるでしょう。

どうぞ・・世に蔓延(はびこ)る杓子定規(しゃくしじょうぎ)な禅(もどき)にブレることなく、独りポッチ・三分間ポッチのイス禅を・・日ごとコツコツとやりつづけるにしかず・・です。

 

閑話休題(・・Sorewasateoki)

これからは・・【ひとり・三分・ポッチ禅】と言うようにします。

無功用の「独りポッチ禅」は、執着心を捨てるため「役立たずの禅」と紹介しています。気の短い人は「ナンダ・・つまらない」に一言で、奉魯愚を見てくれません・・ので、「ポッチ禅」といえば、何の事?とばかりに、せめて一則位、読み終えてくれるのを期待しています。

禅について、好き嫌いや興味本位の関心に迎合するつもりは毛頭ありません。

・・三分間、眼を半眼にして姿勢を正して坐禅してみてください。

如何に、自分の心が、刺激と妄想を追い求め、コダワリ(執着)から離れられないものか・・我慢(吾の慢んずる、うぬぼれ)を抑えることのできない存在か・・を思い知ることになるでしょう。

スマホに操られる(他動的刺激)なら、あっという間の三分ですが・・

独り・三分ポッチ禅の禅定力(ぜんじょうりょく)は、雨だれが石を穿(うが)つ如くでしか・・身につきません。

 

碧巌録 趙州三轉語 (じょうしゅう さんてんご) 第九十六則

【垂示】ありません

【本則】長寿(120歳)だった趙州從諗(じょうしゅうじゅうしん)が、ある日、座下の求道者に、心機一転する徹底の言句=大悟の禅境(地)を表現する三轉語で問うた。

●泥で作った仏像(泥仏)は、水に耐えられず形を失う。

●金仏・・●木仏は、炉の中や火の中、熔けて燃え尽きてしまう。

そんな、あてにならんものを拝んで、どうする心算(つもり)かな】

  *擧す。趙州、衆に三轉語を示したり。

   (曰く)泥佛は水を渡らず。金佛は鑪を渡らず。木佛は火を渡らず。

*この公案は、趙州從諗「上堂示衆語」(五燈會元第四巻)から三句を抽出し、それに雪竇が「趙州示衆三轉語」の七字を添付して、一則の公案にしたもの。 

 

【頌】これは趙州の問いに対する雪竇の見解(けんげ)を詩的にまとめたもの。

嵩山少林寺で、独り面壁する達磨を前に、新光(二祖慧可)が、雪中、自分の左ひじを斬って、我を「安心(あんじん)」せしめよ・・と迫る公案がある。(無門関第四十一則)確か京都国立博物館・・にある「雪中慧可断臂図(せっちゅうえかだんぴず)国宝1496年雪舟筆の様子がこれである。

新光の命懸けの求道心にこそ、禅が輝いている。雪中にいつまでも、突っ立っているだけの問答なら、誰にでも真似が出来よう。だが、新光の「安心(あんじん)」を希求する態度や修行は一様ではない。だからこそ、これをコピペ(虎を描いて猫に類)する輩は現れなかった。

 

(注)私は、慧可が入門(参禅)を乞い、断臂するまで許さなかった達磨の仕打ちを疑問視している。昔は、何かの事故で怪我をしても、抗生物質も治療もままならない時代です。この命の大事を識る達磨が禅の鞭撻に、新光の臂まで切断させるほど、指導能力がない愚かな禅者ではない・・と考えているからです。当時・・近隣に、強盗や追剥の頻繁に出没する物騒な事件が、この禅史に紛れ込んだ・・のだろうと見る方が正解でしょう。

 

次に趙州は、金佛を炉に放り込めば、蕩けてしまうと言ったが、泥佛の立ち姿に価値がないのも同じだ。

昔、紫胡和尚は、人が頻繁に立ち寄る煩わしさに「猛犬注意」の看板を出していたと言う。アンナ変人の自己中坊主を訪ねずとも、爽やかな清風は自ずと南から吹いてくるぞ

 

木佛だって泥佛・金佛と同じ。どれほどの価値あるものじゃない。

嵩山(少林寺)の麓の霊廟にある竈神(かまどしん)に、人々が、ご大層に供養の品を祀りあげるものだから、ある禅者が、拄杖をもって叩き壊して偶像信仰を止めた・・その禅者を、以後、あだ名して破竈堕(はそうだ)禅師と呼んだとある(五燈會元第四巻他)

竈神は、自分の棲家を叩き壊されて、はじめて長夜の夢から覚醒したという。

寒い冬場は燃料代も馬鹿にならない。

木仏は燃やしてしまえ。凍える時には・・まずは暖をとるべし。

 *頌【泥佛不渡水】新光(しんこう)は天地を照らせり。

  雪に立って、もし未だ休せずんば、何人(なんびと)か彫偽(ちょうぎ)せざらん。

  • 【金佛不渡鑪】人、来たって紫胡(しこ)を訪う。

   牌中(はいちゅう)に数箇の字あり。清風、いずれの処にか無からん。

  • 【木佛不渡火】常に思う破竈堕(はそうだ)。

   杖子(じょうす)にて、たちまち撃着(げきちゃく)せり。

   方(まさ)に知れり、我に辜負(こふ)せしことを。

 

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