碧巌録 第九十九則 忠国師 粛宗 十身調御 (ちゅうこくし しゅくそう じゅっしんちょうご)
【垂示】圓悟が座下の求道者に垂示して云った。
龍が吟ずると雲霧が起こり、虎が嘯(うそぶ)くと風が生ずる・・龍虎には、これだけの霊力が備わっているが、霊妙なるものは龍虎に限らないぞ。
絶対の真理、禅の根本、禅者の行いは・・古代音楽が金鈴で始まり、最後に玉を鳴らして奏楽を終えるように・・相方の放った鏃(やじり)が真正面、空中で衝突して、二矢ながら地に落ちるように・・禅による生活(境地の禅者)は,測りがたい深度を持つ。
この禅者の大道は、人生、裸で生きるべし。露裸裸に、隠すことなく、不増不減・不垢不浄に存在している。
さて、それは、どんな人物の境涯なのか・・試みに挙す看よ。
*垂示に云く、龍 吟ずれば霧起こり、虎 嘯(うそぶ)けば風生ず。
出世の宗猷(しゅうゆう)は金玉相振(きんぎょくあいおさ)む。
通方(つうほう)の作略は箭鋒相拄(せんぽうあいささ)う。
徧界(へんかい)かくさずして、遠近にひとしく彰(あら)われ、
古今に明らかに辦(べん)ぜり。
且(しば)らく道(い)え、これ什麼人(なんびと)の境界(きょうがい)なるぞ。
試みに挙す看よ。
【本則】ある日、唐の粛宗皇帝が、慧忠国師に質問した。
「最近、世間で、十身調御と言われているのは何のことですか」
(独りの禅者に優れた十の属性が備わる・・求道者を馬に例え、釈尊を調教師に例えたこと)
慧忠「陛下・・どうぞ光明遍照(こうみょうへんじょう=大仏のこと)を、頭ごなしに踏み倒して行きなさい」
帝「国師よ。貴方の云われる意味が解りません」
(欣求祈願の尊き大仏を踏みつけろ・・とは?)
慧忠「自分を偶像化するのは間違いですぞ(禅臭きは禅ではない)」
*擧す。粛宗(しゅくそう)皇帝、忠国師(ちゅうこくし)に問う。
「如何なるか、これ十身調御(じゅっしんちょうご)」
国師云く「檀越(だんのつ)よ、毗慮頂上(びるちょうじょう)を踏んで行け」
帝云く「寡人不會(かじんふえ)」
国師云く「自己をも清浄法身(せいじょうほっしん)と認むることなかれ」
【頌】南陽の白崖山から大唐の都に迎えられ、帝王の師となった慧忠国師の逸話は、ちょうど、達磨大師が梁の武帝と面談した時(碧巌録第一則聖諦第一義)と、まったく同じ出来事だ。
(第一則スタート話と九十九則・・ラストくくりの話、全くバランスが取れている。
当時の寺僧が後生大事にしていた「清浄法身」を、大槌の一撃で粉々に打ち砕いたのは、「達磨、無功徳」に勝るとも劣らない「禅者の一語」だ。
これでサッパリ天地の間に何ものもなくなってしまった。
夜、さらに深く、海底に眠る龍の棲窟(すくつ)に忍び込んで、いったい誰がその咢(あぎと)に抱える珠を取り得ようぞ。
マア・・南陽慧忠にしか出来ないことだろう。
*一国の師ともまた強(し)いて名づけたるなり。
南陽(なんよう)にはひとり許す嘉聲(かせい)を振(ふる)るうことを。
大唐、扶(たす)け得(え)たり眞の天子。
曾(かっ)て毗盧頂上(びるちょうじょう)を踏(ふ)んで行かしむ。
鐵鎚もて撃砕せり黄金の骨。天地の間、更に何物かある。
三千刹海夜沈沈(さんぜんせっかい よるちんちん)。
知らず誰か蒼龍窟(そうりゅうくつ)に入りしぞ。
【附記】この粛宗皇帝とあるのは、実は、代宗皇帝である・・粛宗皇帝が762年世寿52才で崩御。慧忠の死は、それより13年後、775年であり、この問答は、慧忠国師の臨終に、粛宗皇帝が立ち会える訳がないので、代宗皇帝49才の歳であり、代宗皇帝と慧忠国師の対話と見るのが正解でしょう。(景徳傳燈録)
佛教歴史の上で、唐の玄宗・粛宗・代宗の三皇帝は、佛教、参禅に厚くしたとしても、民を忘れた政治、女色、放蕩をかさねた。
それを仏教の外護者として祭り上げる寺僧の旦那傾向は、支那に限らず、その後の日本仏教界にも深く影響しており、宗教家もこうなっては、一種の幇間(ほうかん)にすぎない・・(碧巌録新講話 井上秀天著 京文社書店発行より抜粋)
支那の禅宗の歴史を調べてみると、間違った禅のあり方に、黙照禅と、実習が伴わない大言壮語の空見識禅の二つがある。例えば、経を読まない、礼拝もしない、昼はゴロゴロと昼寝をして、夜に少し坐禅をする・・宗教のまず外形に属すると思われるところのものを、形の上でも心の上でも放埓にして、引き締めることが出来ない・・この二つの(禅宗)弊害のために、唐の中頃から宋の末頃、禅は次第に衰えていったものと思われる・・(禅問答と悟り 鈴木大拙・禅選集2 ㈱春秋社 Ⅱ悟り八項 抜粋)
現代・・学問や芸術や社会の仕組みなど、すべて組織化、情報化されて、電磁的(バーチャル)社会に一体化していく・・例えばスマホ集団など・・本来、人の持つ個(弧・独)の免疫が消失していく気がしてならない。
欧米に「ZEN」が広まっているとしても、香を聴くことのできない、見るを「看る」としない・・科学(相対)的な、ギリシャ以来の哲学、論理の社会では、頓悟禅はナカナカの年月では醸成できないでしょう。精神病の治療に良いとか・・フォースを持つヨーダのような禅者・・SF映画としては面白くとも、そんな禅者はありえません。あるいは麻薬を使用して、一種の禅境地に至るとか・・悟りを誤解して、はなはだしい状況であり、伝統の禅は、一度、完全にご破算にしないとならない時代となりはてました。
ですから、あらためて役立たず=達磨、無功徳(むくどく)の禅を「三分・独りポッチ禅」として提唱している次第です。
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