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♪♪・・母ちゃんが手袋あんでくれた。木枯らし吹いて寒かろうと・・♪♪(歌詞)

  • 碧巌の散策 第九十六回の歩記(あるき)である・・

過日、質問のあった・・「坐禅(の寂寥)の世界を、写真に例えて言ってください」に、簡単にお答えします。(どうぞ聞き捨てにしてください)

写真で言えば・・ネガでもなく、ポジでもなく、白黒写真でしょうか・・。

よく大病を患って、死ぬのじゃないかと不安になったら、世の中の彩(いろど)りが消えて、景色が灰色に見えた・・と聞いたことがあります。ソンナ感じでしょうか。

昔、昔、助監督の頃・・『敵中横断三百里』の作家、故・山中峯太郎さん宅にお伺いして、お話を聞くことが出来ました。たまたま、坐禅の話になって、「すべてがレントゲン写真のようになり、人が骸骨に見えた・・」と言われたのを思い出します。禅には、そんな不思議な、白黒映像の神経作用があるようです。

でも、こんな心理作用は、やはり異常で本当の「禅」ではありません。

こだわらず無関心に放置すれば、自然に、日常ありのままに落ち着きます。

 

よく禅語に「橋が流れて、河は流れず」とか・・「花は緑に、葉は紅に」とか、

因果関係が真逆の表現があります。また、坐禅中に「立てた線香の灰がポトリと落ちる・・それが太鼓の叩いた音のように、ドオンと聞こえた」とか、遠くで鳴る鐘の音が、縦縞(たてじま)模様(もよう)になって見えた」とか・・何かオドロ・オドロしく感じる坐禅時の心理記録があります。

そうした体験談は、強圧的な集団的修行で発生する、いわゆる追い詰められた禅者モドキの心理的動揺です・・くだらぬ興味本位の話には、一切、関知しないことです。

 

この碧巌録意訳を読んでもらえば、千年前の、本物の禅者たちの、実にバランスのとれた禅境(行い)が見て取れるでしょう。

私には悟りの発揚した自覚症状はてんでありません。ほんの少し、風呂で体を洗っている時、夢から醒めたような自覚はあっても・・こんなものか・・と感ずる程度でした。

ただ、視界がズンと広がって、落ち着く處に落ち着いた心地がしました。

どうぞ・・世に蔓延(はびこ)る杓子定規(しゃくしじょうぎ)な禅(もどき)にぶれることなく、ひとりポッチのイス禅を三分間ポッチ・・コツコツとやりつづけるに如かずです。

閑話(それは)休題(さておき)・・

これからは・・【ひとり・三分】ポッチ禅と言うようにします。

「その他」のカテゴリーを「学び」に改め、ポッチ禅・・と書き加えました。

無功用のポッチ禅は、執着心を捨てるため「役立たずの禅」と紹介しています。気の短い人は「ナンダ・・つまらない」に一言で、奉魯愚を見てくれません・・ので、「ポッチ禅」といえば、何の事?とばかりに、せめて一則位、読み終えてくれるのを期待しています。

禅について、好き嫌いや興味本位の関心に迎合するつもりは毛頭ありません。

・・三分間、眼を半眼にして姿勢を正して坐禅してみてください。

如何に、自分の心が、刺激と妄想を追い求め、コダワリ(執着)から離れられないものか・・我慢(吾の慢んずる、うぬぼれ)を抑えることのできない存在か・・を思い知ることになるでしょう。スマホに操られる(他動的刺激)なら、あっという間の三分ですが・・

独り・三分ポッチ禅の禅定力(ぜんじょうりょく)は、雨だれが石を穿(うが)つ如くでしかつきません。

 

碧巌録 第九十六則 趙州三轉語 (じょうしゅう さんてんご)

【垂示】ありません

【本則】百二十歳の長寿だった趙州從諗(じょうしゅうじゅうしん)が、ある日、座下の求道者に、心機一転するにたる徹底の言句=大悟の禅境(地)を表現する三轉語で禅境(地)を問うた。

泥で作った仏像(泥仏)は、水に耐えられず形を失う。

金仏、木仏は、炉の中や火の中、熔けて燃え尽きてしまう。そんな、あてにならんものを拝んで、どうする心算(つもり)かな。

  *擧す。趙州、衆に三轉語を示したり。

  (曰く)泥佛は水を渡らず。金佛は鑪を渡らず。木佛は火を渡らず。

*この公案は、趙州從諗「上堂示衆語」(五燈會元第四巻)から三句を抽出し、それに雪竇が「趙州示衆三轉語」の七字を添付して、一則の公案にしたもの。 

 

【頌】これは趙州の問いに対する雪竇の見解(けんげ)である

面壁する達磨を前に、新光(二祖慧可)が、雪中、自分の左ひじを斬って、我を「安心(あんじん)」せしめよ・・と迫る公案がある。(無門関第四十一則)確か京都国立博物館・・にある「雪中慧可断臂図(せっちゅうえかだんぴず)」(国宝1496年雪舟筆)の様子が、ここに登場する。

●雪中にいつまでも、突っ立っているだけの求道問答なら、誰にでも真似が出来よう。だが、新光の「安心(あんじん)」を希求する態度や修行は一様ではない。

だからこそ、これをコピペ(虎を描いて猫に類)する輩は現れなかった。

注)私は、慧可が入門(参禅)を乞い、断臂するまで許さなかった達磨の仕打ちを疑問視している。昔は、何かの事故で怪我をしても、抗生物質も治療もままならない時代です。この命の大切な時代に、禅の指導、鞭撻に、彼の臂まで切断させるほど、達磨は指導能力のない禅者ではないと考えています。昔の・・近隣に、強盗や追剥の頻繁に出没する物騒な事件が、この禅史に紛れ込んだと見る方が正解でしょう。

●次に趙州は、金佛を炉に放り込めば、蕩けてしまうと言ったが、泥佛のただ立ち姿に価値がないのも同じだ。昔、紫胡和尚は、人が頻繁に立ち寄る煩わしさに「猛犬注意」の看板を出していたと言う。アンナ変人の自己中坊主を訪ねずとも、爽やかな清風は自ずと南から吹いてくるぞ

●木佛だって泥佛・金佛と同じ。

どれほどの価値あるものじゃない。

嵩山(少林寺)の麓の霊廟にある竈神(かまどしん)に、人々が、ご大層に供養の品を祀りあげるものだから、ある禅者が、拄杖をもって叩き壊して偶像信仰を止めた・・その禅者を、以後、あだ名して破竈堕(はそうだ)禅師と呼んだとある(五燈會元第四巻他)

竈神は、自分の棲家を叩き壊されて、はじめて長夜の夢から覚醒したという。

寒い冬場は燃料代も馬鹿にならない。木仏は燃やしてしまえ。凍える時には・・暖をとるべし。

  ●【泥佛不渡水】新光(しんこう)は天地を照らせり。

   雪に立って、もし未だ休せずんば、何人(なんびと)か彫偽(ちょうぎ)せざらん。

  ●【金佛不渡鑪】人、来たって紫胡(しこ)を訪う。牌中(はいちゅう)に数箇の字あ 

   り。清風、いずれの処にか無からん。

  ●【木佛不渡火】常に思う破竈堕(はそうだ)。

   杖子(じょうす)にて、たちまち撃着(げきちゃく)せり。

   方(まさ)に知れり、我に辜負(こふ)せしことを。

会(有)難うございました。