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  • 碧巌の散策 第九十五回の歩記(あるき)である・・
  • 独りの時は客と居るように・・客と居る時は、独りの時のように・・振舞えますか?

禅の修行をイメージすると、寺の専門道場でズラリ一列に並んで、警策を受けながら、坐禅する雲水さんとか・・まことに規則正しくテキパキと掃除や雑巾がけする・・頭に鉢巻手ぬぐいのお坊さんたち・・をTVや本山で、目にすることがある。

これは、主に禅寺の坊さんになるための、いわば三年、五年の、資格取得、跡継ぎ養成のための修行です。現代の日本には、残念ながら、一般人のための求道修行・・正師を求める行脚の仕組みは無い・・のが実状です。

昔・・心ある禅の修行者は、仲間が寝静まった真夜中、夏は、やぶ蚊の飛んでくる・・冬は粉雪が舞い散る本堂の廊下などで、白い息を吐きながら、明け方まで、独り・・ヒッソリと坐禅(夜坐やざ)をしていました。

こうした独り坐禅は、釈尊菩提樹下にせよ、面壁の達磨にせよ・・白隠や一休にせよ、真の禅者たちは、必ず行なっています。

 

禅は役立たずの「独り」ポッチであり、坐禅は三分程度の、心の集中・・その積み重ねにすぎません。まして、宗教でもないし、集団(二人以上)で為して功あるものではありません。

 それでも、お寺で、朝方、一列になって、整然と廊下を雑巾がけする求道僧をみるとスガスガシイ気分である・・と言われることでしょう。

しかし・・私には、ピシィッと歩調をそろえて、閲兵式に臨む北朝鮮の兵隊さんや、将軍様の前で、マス・ゲームする華やかな女子舞踊・・これだって、決して乱れておりません。

いったい・・軍隊と禅堂生活との違いは何でしょうか。

律(軍律、百丈清規)に縛られる限り、形式こそ違え、中身は自主性のない点で同じです。百丈は、この点を覚悟して「一日為さざれば、一日食らわず」と、孤独に断言されています。(例え、集団の生活、修行であっても、冷暖は自知すべし・・と)

私が「独りポッチ禅」で言いたいのは・・釈宗演の座右銘にある・・

「独り居る時は、客と接する如く・・」「客と接する時は、独り居る如くせよ・・」

の「禅境・地」でありたい・・「独り」です、

 

碧巌録 第九十五則 長慶 二種語(にしゅのご)(阿羅漢三毒あらかん さんどく)

【垂示】圓悟が求道者に垂示した。

悟り臭い処に留まるなかれ。

執着すれば畜生道に落ちるぞ。

無禅、無心の境地に腰を据えずに走り去れ。そうしないと草深い迷妄の地で、行き倒れの目に遭うぞ。

主観、客観の心境一如の境涯にあることも、自他圓融の妙用が出来たからといっても、それは切り株を守って兎を待つような謗(そし)りを受けよう。

さあ、あれも駄目、これも駄目、何もかも駄目だとすれば、どのようにしたら良いのか・・試みに挙す看よ。

 

*垂示に云く、有佛(ゆうぶつ)の處に住(とどま)ることを得ざれ。

   住箸(じゅうじゃく)すれば頭角(ずかく)を生(しょう)ず。

   無佛(むぶつ)の處は急に走過(そうか)せよ。

   走過せずんば草ふかきこと一丈(いちじょう)ならん。

   たとえ淨裸々(じょう らら)、赤灑々(しゃく しゃしゃ)にして 

   事外(じげ)に機なく 機外(きげ)に事なきも、

   未(いま)だ免(まぬが)れず株(くいせ)を守って兎(と)を待つことを。

   且(しば)らく道(い)え、総(そう)に不恁麼(ふいんも)ならば、

   作麼生(そもさん)か行履(あんり)せん。試みに挙す看よ。

 

【本則】雪峰門下の長慶慧稜(ちょうけいけいりょう)と保福従展(ほふくじゅうてん)の二人が問答した。

長慶云く「阿羅漢(あらかん)は、生死の問題を脱却して「不生」=学ぶべきものなきゆえに「無学」・・煩悩を断絶して「殺賊(さつぞく)」と呼ばれる人物だから、「貪欲(どんよく)・瞋恚(しんい)・愚痴(ぐち)=(貪とん・瞋じん・痴ち)の三悪徳がある訳はない。

万一、羅漢に三毒ありとしても、如来に二種の語(真実語と、嘘も方便語)があると言ってはならない。如来は確かに説法されたが、決して二枚舌のお方ではない」と断言した。

保福、彼に鋭く尋ねる「それでは、二枚舌ではない如来語とは・・どんなものか」

長慶「如来語はナカナカ俗塵の耳には入りにくいものだ。今、話して聞かせても耳の不自由な者には聞くことは出来ないだろう」

保福「なんとも・・貴方は、器用に屁理屈をいう人だねェ」

長慶「それなら君は、如来語を理解しているのか?・・どうだ」

保福「いろいろと論理の限りを尽くした話疲れで、さぞかし喉が渇いたことでしょう。まずはお茶を一杯お飲みなさい」

  

  *擧す、長慶ある時云く

  「寧(むし)ろ阿羅漢(あらかん)に三毒(さんどく)ありと説(と)くも、

   如来(にょらい)に二毒ありとは説(と)かざれ。

   如来に語なしとは道(い)わず。ただ是、二種の語(ご)なきなり」

   保福云く「作麼生(そもさん)か、これ如来の語なるぞ」

   慶云く「聾人(ろうじん) 争(いかで)でか聞くことを得んや」

   保福云く「情(まこと)に知りぬ。

        儞(なんじ)が第二頭(だいにとう)に向って道(い)うことを」

   慶云く「作麼生(そもさん)か これ如来の語なるぞ」

   保福云く「喫茶去(きっさこ)」

 

【頌】真実語と、嘘も方便語の二種類の区別があると・・?

如来の実相が、そんな屁理屈の中にある訳がない。

もしあるなら、龍が雨だれの水たまりに潜んでいるというのも本当になる。

水たまりは、時に澄み切って月も映ろうし波も立たないだろう。だが、龍の住む淵には風もないのに波立つことが起こるのだ。

可哀そうな慧稜さん・・保福さんに、たったの一語「喫茶去」と言われて、遠く弾き飛ばされてしまった・・まるで三月の登竜門(兎門)に挑戦する大鯉が、滝を登り損ねて、額に大傷、九死に一生のひどい目にあったようなものだった。

  *頭(とう)たり第一第二.臥(が)龍(りゅう)は止水(しすい)には鑒(かん)せず。

   無處(むしょ)には月あって波澄(す)み、

   有處(ゆうしょ)には風なきに浪起(おこ)らん。

   稜禅客(りょうぜんかく)、稜禅客。

   三月兎門(うもん)に(おいて)點額(てんがく)に遭(あ)えり。

 

【附語】それでは・・ナントいうか・・

  「良(よ)し悪(あ)し=葦蘆よしあしと思わず蟹(かに)の横歩き」

   仙厓義梵(せんがい ぎぼん 1750~1837)禅境画賛。

                       会(有)難うございました。

◆4/26 「はてなブログ⇒禅のパスポート」・・サナギが蝶になるように、無門関 解釈・意訳を開始しました!古来、禅 参究では、この碧巌録と無門関が双璧をなす書であるといわれます。関心のある方は、検索して、ご覧ください。