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●カテゴリーをとりあえず⇒その他/(ひとり・三分)ポッチ禅と名付けました・・4/16

  • 碧巌の散策 第九十三回の歩記(あるき)である・・

神が「人間」を造ったのか・・人間が「神」を造ったのか・・

私には関知できません。・・し、また、宗教に関心はありません。

浄土真宗、愚禿親鸞(ぐとくしんらん)上人(しょうにん)の信者ですが・・)

ただ、佛教学者であり、禅を世界に広めた、故、鈴木大拙の言葉(本)に・・全知全能の神ナラバ、罪深き人間の行く末など百も承知であろう。

わざわざ自分の姿に似せて人間を造り、エデンの園の林檎を食べたアダムとイブを追放し、大雨を降らせてノアの方舟だけを助け、今や原爆を造らせるまでもなかろうに・・と疑問を提示して、それは「神の(全知全能の自分へ)の好奇心」によるものであろうと言われたのを読んだことがあります。(つまり「禅」は、神の光あれ・・の以前を問うことだと・・)

私は、人間の、この止むことのない「好奇心」こそが智慧となり、生きる原動力になるのだろうと思います。そして静かに、何処からか湧いてくる「寂寥感」とともに、深い愛おしさを覚えます。

この「好奇心」が、坐禅=智慧となり、老病死苦の「寂寥感」が愛・慈悲・・になるのであろうと思っています。

 閑話休題(それはさておき)・・

先日、関西で、昼食をとるために蕎麦屋に入りました。私は、関西系ですが、大学が東京だったせいか蕎麦が大好きです。ところが、店主が申し訳なさそうに「うどんではだめか」と聞いてきます。思わず、戸口の看板を確かめましたがチャント「蕎麦屋」になっていました。冬場はうどんの注文が多くて・・と、あやまるお店を後にしましたが、近くに他の蕎麦屋は見つからず、その日は、コーヒーですませました。

蕎麦屋の窯の中」は湯⇒言うばかりと、昔のシャレにあります。

最近の国会や教育界、商売の世界も、だんだんと「蕎麦屋の窯の中」になってきました。これでは「信用」できません。よい日本の伝統は、「言う」より前に、正直に誠意をもって「行う」ことに価値があります。

「私の人生そのものが、私が言いたいことのすべてだ」マハトマ・ガンジー My life is my message・・と前節で紹介しました。

聖書に「初めに道(ことば)ありき」とあります。

この碧巌録でも、言うを「道(い)う」と書かれています。

◆この「道」の字は、きっと「言葉が行いそのもの」と道う事でしょう。

 

碧巌録 第九十三則 大光 (だいこう まいをなす)  (このやこせい)

【垂示】ありません。

【本則】ある日、一人の求道者が、湖南省長沙府、大光(だいこう)山の禅院を訪ねてきて大光居誨(こかい)老師(837~903・石霜慶諸の弟子)に質問した。

「あの金牛和尚の奇行・・七十四則・金牛飯桶の話・・に、長慶慧稜は「食事の提供(ボランテア)は働く喜びと感謝そのもの」と云ったそうですが、その意味はどういう事でしょうか」

すると大光は、金牛和尚の飯時の欣喜雀躍(きんきじゃくやく)な様子をしてみせた。

すると、この求道者、何が有難いのか・・深く礼をした。

大光云く「お前さん・・いったい何に対して礼拝しているのか」

求道者は、大光を真似て、そっくりのアリガタ踊りをしてみせた。

大光、大喝「この大間抜けのコンコンチキめ」と罵声をあげた。

  *擧す。

   僧、大光(たいこう)に問う。

  「長慶(ちょうけい) 道(いわ)く『齊(さい)によって慶讃(けいさん)す』と。

   意如何(いしいかん)

   大光 舞を作(な)す。僧 禮拝(らいはい)す。

   光云く「この什麼(なに)をみてか便(すなわ)ち禮拝するぞ」僧 舞を作す。

   光云く「この野精(やこせい)

【頌】あの求道者の問いに、食事提供の感謝の舞をしてみせたのは、まずは軽い矢で狙い撃ちだが、当ったところで死にはしない。

ところが、求道者がコピペの踊りをした時の後の矢は、偽札づくりの重罪人を射抜いてしまうような厳しい矢だった。

「禅による生活」の贋造・コピペは、枯れ葉を金貨という以上に罪作りな事だ。

世の中に出回る、キツネと狸の化かし合いなら影響は少ないけれど、ごく正直な庶民まで化かすような輩は許せない。幸いにも曹渓の禅流は、ホソボソとしても途絶えてはいない。

  *前箭(ぜんせん)はなお軽く、後箭(ごせん)は深し。

   誰か云う、黄葉(こうよう)はこれ黄金なりと。

   曹渓(そうけい)の波浪もし相似(あいに)たりしならば、

   限りなき平人(へいじん)も陸沈(りくちん)せられん。  

 

会(有)難うございました。