目いっぱい、あふれるように生きているのを、独り自分で看ることだ!自分だけで感じることだ!4/10一部改訂

●碧巌の散策 第九十二回の歩記(あるき)である・・

 

「私の人生そのものが、私が言いたいことのすべてだ」マハトマ・ガンジー My life is my message・・むしろ、このガンジーの言葉は、禅を世界に広めた、故・鈴木大拙仏教学者・禅者)の著作「禅による生活」living by Zen・・の語意に近い、素晴らしい言葉だと思います。

悟り=禅は(頭で考える)智識や言葉,文字より、その人生観によって日々行う、生活行動で検証されていく寂寥の風景とでも言おうか。

この寂寥の風景は・・ソンナ難しい人生観など、イチイチ、毎日、思ってられない「我がままになる」社会であるとして暮らす「自己中」には、見えてこない景色です。

(本当は、自分だと思っている自分は、自分の頭脳だけで思っている「我が侭」な思いです。自己保存とは、頭脳だけが思う・・思わせる本能であると気付くことです。それが証拠に、血流や心臓は頭脳の思うままになりません)

その頭脳の神経回路のどこかに、総ては「般若空」であり、無所得=無尽蔵であると、体観する「禅」の発火点「悟り」があるのでしょう。

その悟り=見性=透過=大覚・・が、人の感性に働きかける時、自然に「寂寥感」が生まれるのでしょう。

 そうした感慨をこめて「禅による生活」を自覚している人を、私は、禅者と言っています。

 

当初、この奉魯愚を見てくれた少女が、今や女子大生になって、先生の云う事(奉魯愚)は、勝手で厳しすぎて、わざと読者を減らそうとしているみたいです。役に立たない、独りでする坐禅でなければ、意味がないとか・・

碧巌録の公案の一則を見性、透化して、自分が自分で自得(体覚)する一語をもたねば、やらない方がまし・・とか、昔、読者がたった三人に減ってしまった時、私が見るのを辞めたら、誰もいなくなると思いました。・・との忠言をいただいた。有難いことです。

でも、文章に・・が多すぎるとのご指摘も、ごもっともなことながら、「・・」は文章の合気=書き手と読み手の仕切り・・間合い(拍子)と思っています。

語間を詰めて書くのは、どうも得手ではありません。また「役たたずの坐禅」でなければ、宮沢賢治の「でくのぼう」と呼ばれる「禅による生活」には近づけない・・との思いで云い続けます。

 

誰か・・この世で、たった独りだけでもよい・・役立たずの「三分間ひとりイス禅」を実行してくれれば万々歳です。この奉魯愚は、百万、千万の電磁波通信(交信記録)に紛れ込んでいます。詠み人知らずの・・たったのひとりを得るのに、現代が産んでくれた、願ってもない媒体であると言えるでしょう。

この地球上で無視されても・・将来、火星探査か、遠く土星旅行の宇宙船で、ひとり坐禅をする宇宙飛行士がいてくれれば、会(有)難いこと・・だと思うのです。

 

碧巌録 第九十二則 世尊陞座 (せそんしんぞ)

【垂示】圓悟の垂示である。

音楽は一小節のメロディを聴くだけで、曲の総てが解かるように(これは列子伝にある伯牙が曲を奏でれば、鐘子期が遠く詳らかにこれを聴く。千年たっても巡り会わない演奏上手と聴き上手の逸話に基く)話上手と聴き上手はナカナカ出会うことはない。

兎を見て、すぐに鷹を放つのも難しいが、出来れば見事である。

禅者とは、わずか一句の内に一切の真理を包括して、小さいチリの中に全宇宙を取り込んでしまうような人物を言うのだが、はたして、そんな禅者と生死を共にし、敵陣に討ち入るような、明眼、達道の者が、この座下にいるかどうか。試みに挙す看よ。

  *垂示に云く。絃(げん)を動かして曲を別(わか)つ。

   千載(せんざい)にも逢(あ)いがたし。

   兎を見て鷹を放つ、一時に俊(しゅん)をとる。

   一切の語言を総(す)べて一句となし、

   大千沙界(たいせんしゃかい)を攝(せっ)して一塵(いちじん)となす。

   同死(どうし)同生(どうしょう)、七穿(せん)八穴(けつ)

   還(かえ)って証拠(しょうこ)する者ありや。試みに挙す看よ。

【本則】ある日、釈尊は沢山の求道者たちを前に、説法の高座に着座された・・ので、文殊(菩薩)は云った。

「よく聴きなさい。釈尊のお話は、すべて、この宇宙につまびらかにあり、満ち満ちている(法である)から、今さら、云うのも詮無きこと。一切無用のことでしょう」・・と、その高座、終了の合図(槌)をカチンと打ち鳴らした。

釈尊は、この文殊の心配(こころくば)りにうなずかれて、ただちに下座された。

  *擧す。世尊(せそん)一日陞座(しんぞ)せり。

   文殊、白槌(びゃくつい)して云く「諦観(たいかん)法王法(ほうおうほう)

   法王法如(ほうおうほうにょ)是(ぜ)」と。

   世尊 便(すなわ)ち下座(げざ)

 

【頌】禅者の大元締めである釈尊の「一悟」は、こんな芝居じみたパントマイムで表現できるものではない。

悟徹の禅者なら「禅による生活」は、一興の狂言芝居でないことを知っている。

もし、この席上に、ひとりでも仙陀婆(せんだば、直覚、賢明)のような者がいたら、文殊の白鎚を待つまでもなく、以心伝心、無言無説(の禅)を自覚していよう。

今回は文殊の出しゃばりで下世話な芝居に成り下がってしまった。

  *列叢中(れっしょうそうちゅう)の作者は知らん。

   法王の法令のかくの如くならざることを。

   會中(えちゅう)、もし仙陀(せんだ)の客あれば、

   何ぞ必ずしも文殊、一鎚(いっつい)を下さん。

 

会(有)難うございました。