他人が食べた飯で、自分が満腹になった例はない!

  • 碧巌の散策 第八十九回の歩記(あるき)である・・

                   *3月8/12日加筆・タイトル修正しました。

前則に紹介したヘレン・ケラーさんは、手で看る・鼻で聽く「禅者」です!

誤解の無いように、附記しておきます。

私は、ヘレン・ケラーさんは、三病を克服された偉人・・すぐれた禅者であると(勝手に)思っています。

手(触感)で「看る」・・鼻で(香り)を聞き、舌(味覚)で慈愛を施す如き禅者です。動物の赤ちゃんは、母親が、愛しげに舐めています。私も昔、飼っていた犬に、ペロペロ舐められて、嬉しいやら・・糞舐めて、人の口舐める犬の顔・・の複雑な気持ちを味わいました。

もし、前則で雲門老師の面前に、ヘレン・ケラーさんが立っておられたら、どのように対応されたろうと思いました。キット雲門老師は、深く一礼され、暖かくソット、禅庵まで手を添えて導かれ、お茶を振舞われたろう。

(私なら・・片足のピョンピョン飛びでお出迎えしたいです)

 

「禅による生活」をなす禅者は、決して、口先、文字だけで「禅」を語りはしない。また、悟りの「禅機・禅境(地)」を、妙に神秘化したり、難解で論理的な言い回しで説明などしません。相手がどの程度の禅的境地なのかは、遠くから歩いてくる様子・・振る舞いだけで、その程度が判明できるからです。

 

坐禅は、自分にとって、百%「役に立たない」こと・・を覚悟の上で、なすことが大事です。仕事や生活は・・相手にとって「役立つか、または面白いか=楽しいか」の二つに一つのことであり、その行いに自我優先はありません。

 

その悟りに至る(禅機)行程は、坐禅する以外に方法はありませんが、悟りたいの一心で、ひたすら努力しても、決して、悟れることはありません。

例えれば坐禅中に突然、悟りの方から襲いかかってくるのです。

釈尊は、明星の輝きを見られた瞬間でした。

大半の禅者は、日常の生活の中で・・例えば、雷鳴で・・花の香りから・・竹に石が当たって・・後ろに坐るイスがなくてひっくりかえって・・箒で叩かれて・・など、まったく一人一人の禅機、体験は異なります。

悟り(見性・透過・大覚)は、自分が「禅による生活」を、ちゃんとなしている・・ことを自覚する・・まるで、言葉要らずの、確信・体覚をした状況です。

この状況を日頃の暮らしにピッタリ一致させていく・・日々の行い・・のことを「長養」とか「禅境」(地)といいます。

悟ると、総てが、神々しく、安心で、慈悲深くなる・・と思ったら観念論です。かえって、魔境といって、そんな半熟卵の腐ったような心境を戒めます。

この省悟を、さらに禅境(地)として、自分が自分で深めていく行動を「禅による生活」というので、感性(好き嫌い)に溺れた暮らしや、自分本位の言動をすれば、あっという間に、元の木阿弥・・野狐禅になりさがり、禅臭きは禅者にあらず・・となるのです。

ですから、毎日の行いが清貧(正直・素直)であるかどうか・・千年前の(達道の)禅者の足跡をたどる「禅語録」で、禅境の状態を見返すことが大事になります。

口先でなく、日々の行いが自由自在であること・・

この碧巌録の奉魯愚を読み解いて、あとは独り、自分で坐禅してください。紙に書いた絵の餅ではお腹が膨れません。まして他人が食べたもので、どうして自分が満腹になど、なり得ましょうか。

しかも、その満腹は食べた私の・・貴方の・・自知あるのみです。

碧巌録 第八十九則 雲大悲手 (うんがん たいひしゅげん)

【垂示】圓悟が垂示した。

体の総てで見るのであれば、見るという意識は生じない。全身が聴覚化してしまえば、聞くという意識は無いことになる。全身が口である感覚なら、口で説く認識などないし、通身これ心という態度で、総ての事象に対するなら、思惟(しゆい)、分別(ぶんべつ)する認識はないことになる。

禅者は、眼なり耳なり口なり心なりを通じて、全自己を事象に融和させ、同化して一如(いちにょ)ならしむのであるから、渾一体(こんいったい=ワンネス)その者だ。

このような達道の人は、それでよいとして・・もし眼が無ければ、どのように見ることが出来るのか?

耳や口がなければ、どのように聴き、説明できるのか?

心がなければ、どのように宇宙の事象を思惟することができよう。

もし、この四つの問い(眼・耳・口・心)に、見事、答えられたら、その人は傑物である。また、そうした人は、古(いにしえ)の禅者と同志であるが、それはそれとしておいて・・道(い)ってみよ。

古の禅者以外、このような禅者は、いかなる禅境(地)たりえる者であろうか・・。

  *垂示に云く、通(つう)身(しん)これ眼なれば、見(けん)不到(ふとう)

   通身これ耳なれば、聞不及(もんふきゅう)

   通身これ口なれば、説不着(せつふちゃく)

   通身これ心なれば、鑒不出(かんふしゅつ)

   通身は即(すなわ)ち且(しば)らく止(た)る。

   忽(たちま)ち もし眼なくんば作麼生(そもさん)か見(み)ん。

   耳なければ作麼生か聞かん。口なければ作麼生か説(と)かん。

   心なければ作麼生か鑒(かん)せん。

   もしこの裏(うち)に向って一線道(いっせんどう)を撥轉(はつてん)し得(え)ば、

   即(すなわ)ち古佛と同参(どうさん)たらん。

   参ならば即ち且(しば)らく止(た)る。

   且(しば)らく道(い)え。この什麼人(なんびと)にか参ぜん。

 

【本則】擧す。

ある日、雲巌曇晟(うんがん)が 道吾(どうご)に問うた。

「大悲(千手千眼)菩薩は、沢山の手や眼を、どのように使い分けるのでしょうか。並の心配りじゃ出来ない芸当ですね」

吾云く「真夜中、真っ暗な中で、枕をさがしあてるように(手で見る=看る)無心自在の境地なのだ」

巌云く「ああ、わかりました」

吾云く「解かり方にもいろいろあるぞ。どう?わかったのかな」

巌云く「身体中に手と目がついている方でしょう」

吾云く「ヤッパリ八十点だな」

巌云く「 それじゃ貴方の意見はどうなのですか?」

吾云く「通身(全部)が手デアリ眼ソノモノだよ」

  *擧す。雲厳(うんがん)、道吾(どうご)に問う。

  「大悲菩薩(だいひぼさつ)は、あまたの手眼(しゅがん)を用(もち)いて

   什麼(なに)か作(せ)ん」

   吾云く「人の夜半(やはん)に背手(はいしゅ)にして

       枕子(ちんす)を摸(も)するが如し」

   厳云く「我、會(え)せり」

   吾云く「汝、作麼生(そもさん)か會(え)す」

   巌云く「徧身(へんしん)これ手眼(しゅげん)なることを」

   吾云く「道(い)うことは即(すなわ)ち太煞(はなはだ)、道(い)いたるも、

       ただ八成(はちじょう)を道いえたるのみ」

   巌云く「師(す)兄(ひん)、作麼生(そもさん)

   吾云く「通身(つうしん)これ手眼(しゅげん)なり」

 

【頌】徧身(へんしん)といい、通身という・・そんな言葉(文字)に拘泥(こうでい)しなくともよい。

曲者(問題)なのは、あの千の手と眼を持つ「大悲菩薩」だ。

大悲菩薩は「禅」から十万里も隔たっているぞ。

アラビヤ物語のサンバードや仏典の迦楼羅(かるら=金翅鳥(きんしちょう)は、天に昇って一度、羽ばたきすると、海は大津波となり陸地を水で覆うという。

こんな大鵬(たいほう)の羽ばたきによる津波だって、宇宙の彼方から見れば、木星の大赤班に較べようもない、塵が舞いあがったような些細な出来事にすぎない。

あの帝釈天の宮殿にある真実を映し出す珠の明暗模様を、君は見たことがあるか・・禅者の棒頭にも、立派な手眼があるが、それが何に由来して、どこから現れて来るのか・・わかりようがないなら、顔を洗って出直しなさい。『トーッ

  *徧身(へんしん)も是(ぜ)。通身(つうしん)も是。

   拈(ねん)じ来たれば、なお十万里に較(あた)らん。

   翅(つばさ)を展(の)べては崩騰(ほうとう)す六合(ごう)の雲。

   風に搏(はうっ)て皷蕩(くとう)す四溟(しめい)の水。

   これ何の埃壒(あいがい)ぞ,忽(たちま)ちに生ず。

   那箇(なこ)の毫氂(ごうり)ぞ、いまだ止(とど)まらず。

   君見ずや、網範(もうじゅはん)を垂(た)れて影重々(かげじゅうじゅう)

   棒頭(ぼうとう)の手眼(しゅがん)は何(いず)れよりか起(お)こると。咄(とつ)