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棚から落ちた牡丹餅は、すぐに食べるに限ります!

その他  

碧巌の散策 第八十五回の歩記(あるき)である・・

この碧巌録の意訳に携わって、辞書やPCで、漢字の語源を調べる機会が多くなった。浅学のあまり、不明の1文字に手こずって、数時間かかるのも多くあり、つくづくと漢字(会意文字)の表現の豊かさ、微妙さ・・そして古人の好奇心の旺盛さに脱帽する。

今、知人の俳優に、Mailしようとして「ハイ」の字に拘(こだわ)ってしまった。

俳の字=新字源(角川)では、会意形成・・人とそむく意と音とを示す非ヒ→ハイとからなり、一般人と変わったことをして、人を面白がらせる芸人の意をあらわす・・とある。

今時のタレントに近い語感だ。

●わざおぎ、芸人②たわむれ、おどけ③→俳徊。

(PCでは徘徊とでる。別ページ「徘徊」の項では、さまよう・・とある)

俳優とは、たわむれ、おどけ。演戯。芸人、道化役者。現代、演劇や映画などに出演する人・・とあり、テレビは書かれていない。

続いての連想・・人は頭の中で、言葉・文字によって「考え」ているという。であるなら、漢字を基にして会話し、筆記する・・考える・・昔の東洋人は、随分と、複雑で豊饒な世界を共用=教養していたのだろう。

ABCなど、文字順をかえて、羅列するラテン語系民族と比較すると、思考過程やイメージすることが、はたして、どれだけの共感を持ち、違いになるのだろうか・・

 

佛教学者であり禅者である故・鈴木大拙が、欧米で「禅=ZEN」を広めた時「人が単=ひとりいる」・・の禅を、ZとEとNのアルファベットの中に、どれだけ積み込めたのだろうか?とりわけ「色即是空」・・この地球に生かされている立場の生物が、即=そのまま=空であるとする「般若(空)」を、どのように解説理解させたものなのか。

 ここに言葉や文字で考えない「役立たずのイス禅」の意義がある。

どだい・・あるのでない・・と肯定しておきながら否定する・・文字、言葉が、アイマイ、勝手きわまりない、理正?利性?離聖?理惺?理性なのである。

先達の言葉に「想いは、頭の分泌物・・アタマ手ばなし、アタマ手放なし」とあるが・・想いは飛んでも無い処?に飛び火して燃え広がる(妄想する)ようだ。

 

碧巌録 第八十五則 桐峯庵主作虎聲 (とうほうあんしゅ こせいをなす)

垂示】圓悟が垂語した。

禅者は奪い取る時は余すことなく取り尽くす。

世の人々を、ウンともスンとも反抗できなくさせる呪縛の能力をもつ・・。このような効果的な言動をとる人を・・こそ禅者と呼ぶ。

また頭頂に、光明を放つ隻眼(一つ目)を持ち、全宇宙を一見して、その真意を看破することができるのを、金剛の眼晴を持つ禅者という。

そればかりか、鉄を変じて金となし、金を変じて鉄にする仙術・妙用をなし、把住(はじゅう=つかまえる)も、放行(ほうぎょう=捨て去るの)も自由自在だ。

この四種のピチピチした禅行の主こそ、真の禅者である。

 

また天下の人の一言半句の口出しを許さず、遠く三千里外に撃退して、寄り付くことを許さない気迫(気宇きう)がある者・・見かけはヨボヨボで杖をつく老人だが・・(コンナ持ち上げ方で禅者を讃えるのが、山奥の禅庵の退屈しのぎか)この四類の禅者の外に、次のような、禅機を商量するべき一大事がある。

ためしに例を出すから、よく看るがよい。

  *垂示に云く。世界を把定(ばじょう)して、

   繊毫(せんごう)をも漏(も)らさず、盡大地の人をして、

   鉾(ほこ)を亡(ぼう)し、舌を結ばしむることは、

   是れ衲僧(のうそう)の正令(しょうれい)なり

   頂門(ちょうもん)に光を放ちて、四天下を照破(しょうは)することは、

   是れ衲僧の金剛晴(こんごうがんせい)なり。

   鐵(てつ)を點(てん)じて金と為(な)し、金を點じて鐵と為し、

   忽(たちま)ち擒(とら)え、忽ち縦(はな)つことは、

   是れ衲僧の拄杖子(しゅじょうす)なり。

   天下の人の舌頭(ぜっとう)を坐断(ざだん)して、直に気をいだす處なく、

   倒退(とうたい)三千里ならしむことを得ることは、是れ衲僧の気宇(きう)なり。

   且(しば)らく道(い)え、総(そう)に不恁麼(ふいんも)なる時、

   畢竟(ひっきょう)、これ箇(こ)の什麼(なん)人(びと)ぞや。試みに挙す看よ。

 

【本則】擧す。

求道者が桐峰庵主(とうぼうあんじゅ)を訪ねてきて問うた。

(庵主とは大寺に住せず、生涯を小庵に住し、専ら聖胎長養(せいたいちょうよう)をなす大徳の禅者をいう。

「ただ今、大虎に出逢ったらどうするべきでありましょうか」

桐峰庵主は、いきなり身構え、大きな口で唸り声を発した。

この求道者、応対に、多少の禅機があったようで、ひどくたまげた様子をした。

その機敏さに釣られた様に、桐峰庵主は呵呵大笑(かかたいしょう)した。

求道者「この老いぼれドロボウ。ナニを笑うか」と毒舌をはいた。

桐峰庵主「いくら、お前さんが罵(ののし)ろうと、どうすることも出来ないだろうよ」 

高飛車(たかびしゃ)な庵主の言いぐさに、気がくじかれたのか、求道者はそそくさと退散してしまった。

(この問答に・・雪竇が着語した)

コリャ、いいも悪いも、双方ともコソ泥だね。

本当の泥棒なら、もう少し上手に盗んだらどうですか。

まるで、鈴を盗むのに、自分の耳を覆うて、他人にはワカルマイと勝手に判断するような者たちだ。

(中国の故事に、鈴を盗んだ泥棒が、リンリン鳴り渡る鈴の音にたまりかね、他人の耳はそっちのけにして、自分の耳を塞いで逃げ出した馬鹿な逸話があるという)

  *擧す。僧 桐(とう)峰(ぼう)庵(あん)主(じゅ)の処に到って便(すなわ)ち問う。

  「這裏(しゃり) 忽(たちま)ち大蟲(だいちゅう)に逢(あ)わん時、

   また作麼生(そもさん)

   庵主 便(すなわ)ち虎聲(こせい)を作(な)す。

   僧 すなわち怕(おそ)るる勢(いきお)いをなす。

   庵主 呵呵大笑(かかたいしょう)せり。

   僧云く「この老賊(ろうぞく)

   庵主云く「いかでか老僧をいかんせんや」

   僧 休(きゅう)し去る。

  (雪竇(せっちょう)云く。

   是(ぜ)なることは即ち是なるも、両箇(りょうこ)とも悪賊(あくぞく)

   ただ耳を掩(おお)うて鈴を盗むことを解(げ)するのみ) 

 

頌】棚から牡丹餅は手に取って、すぐに食べるに限る。

食べ損ねると、いつまでも後悔するぞ。

桐峰庵主の虎退治の拙劣なこと。縞の模様が美しいだけの、活力のない虎モドキの求道者・・禅機ハツラツと言いたいが、まるで猫の喧嘩だな。

昔、大雄山下の百丈と、その弟子、黄檗との虎問答・・知らないのなら教えてやろう。

キノコ取りから帰ってきた黄檗に師の百丈が問いかけた。

「山中で大虎に出くわさなかったか?」

すると黄檗すかさず虎の唸り声。

百丈、それを見るや、腰の鉈を取って殺す仕草をした。

すると、いきなり黄檗は百丈を曳(ひ)き掴(つか)んで、思い切りピシャリと引っ叩いた。

 その夜のこと。百丈は坐下の大衆に向って、この大雄山に大虎が現れたぞ。見かけたら食われぬよう注意せよ。老僧、今日、出くわして危うく食われかけたぞ・・と、その黄檗の大虎ぶりを賞賛した。

師弟の息の合った、何とも優れた振る舞いの活劇である。

 

お前達に、この田舎芝居と歌舞伎座公演の違いが、ハッキリ解かるかナ・・?

あの百丈老師、さすがだな・・虎のシッポをつかむと同時に、ヒゲまで捕まえた手腕・・さっぱり身動きできない黄檗の哀れさよ。、

  *之(これ)を見て取らざれば、之を思うとき千里ならん。

   好箇(こうこ)の斑々(はんはん)も、爪牙(そげ)いまだ備(そな)わらざりき。

   君見ずや、大雄山下、忽(たちま)ち相逢(あいお)うて、

   落々たる聲光、みな地を振るいしことを。

   大丈夫、見しや、また、いなや。

   虎尾(こび)を収めて虎髭(こしゅ)を捋(ひ)きたることを。