「あるともサ・・流れに桃かボールを放り込んでご覧ナ~ドンブリコ~ドンブリコ」 1/8・1/10 加筆補正

碧巌の散策 第八十回の歩記(あるき)である・・

「般若心経」をとなえて、3分間ひとりイス禅をするのは・

まず数息で調(醒)心が出来るようになったら、禅語の一語を、鉄の飴玉だと思って拈弄する・・この段階で、心経を誦むのがいいでしょう。

歌でも詩の朗読でも、声に出して自分に聞かせると、どうしても気が散ります。

般若心経も同じことですから、声をあげてとなえるのはやめて、まず、心経の言葉(文字)の意味を考え、「色と空」の、理解しがたい矛盾・・例えば「眼や耳や鼻、舌、身・意(思いは、あるのに)無い」を、分析・解析しないで、そのまま、矛盾のまま、思い返してみてください。

心経のはじめに出てくる「行(ぎょう)深(じん)般若(はんにゃ)波羅蜜多時(はらみったじ)=禅による生活・坐禅を深く行う時は・・形あるもの、すべて空なりと照らし見るので、一切の苦しみと不安から解放される」とあります。

つまり、坐禅をして、深い、揺らぎの無い境地に至って、はじめて、一切の苦しみや厄災から解放(度=ど)される・・のですから、大いなる智慧=般若はどこにあるのだ?・・と、探し回ることは不要です。

人間は「考える葦」パスカル・・ですが、その「考える」こと・・そのものを考えるように出来てはいないのです。

 

般若心経は、「即=そのまま」の世界です。

禅境(地)の入り口に入ったと思うと、そのままに出口にいる・・紙の表裏の関係ではなくて、入口が出口、出口が入口です。出口に立つと、入口に立っていますし、入口を入ろうとしたら出口に出ている・・ですから何時までも般若心経の直中(ただなか)に座り込むことはできません。

この般若心経の文言に囚われては、坐禅はなりませんから、ある程度、坐境(地)が進捗したあと、悟境の是非をリトマス試験紙のように利用されることを推奨します。

 

この碧巌録、本文の最終章に、意訳の心経を記載(予定)しておきますので、いずれ、看てください。

いま紹介するのは、その前文の一部です。

仮に、一節ごと二つの文意に訳してあります

      摩訶般若波多心経

(まかはんにゃ はらみたしんぎょう・・●大いなる智慧により正覚に至る教え)

悟り(はんにゃ)完成(はらみった)」の教え

 『無い無いづくしの心の教え』

 

観自在(かんじざい)菩薩(ぼさつ) 般若により禅を体得する者よ

                       禅(行)者よ

般若多時 (ぎょうじんはんにゃはらみたじ)   

               この禅による生活(悟りの完成)を深く行う時

               禅による生活を深く行う時こそ

照見五薀 (しょうけんごうんかいくう)       

               形あるもの、すべて空無なりと照らし見て

               宇宙のすべては空(無)だと照らし見るので 

一切苦 (どいっさいくやく)        

               一切の苦しみと不安から解放される

               一切の悩みや不安から解き放たれる

利子 (しゃりし)      禅(行)者よ

不異 (しきふいくう)  自在なるものは、空(無)にことならず

                「在る」は空(無)にことならず

不異色 (くうふいしき)   空(無)は自在にことならない

色即是空 (しきそくぜくう)  すなわち自在は そのままに空(無)であり

                すなわち「ある」は、そのままに「ない」のであり

空即是色 (くうそくぜしき)  空(無)は そのままに自在である

                「ない」は、そのままで「ある」のである

 

碧巌録 第八十則  趙州初生孩子 (じょうしゅう しょしょうのがいし)  

【垂示】欠如 ありません

【本則】求道者が趙州従諗(じょうしゅう じゅうしん)  に問うた。

「生まれたての赤ん坊は、六識六覚(眼=色=視/耳=聴/鼻=嗅/舌=味/身=色=触/意=知)を兼ね備えておるのでしょうか」

趙州「あるともさ。流水にボウルを投げ入れて見よ」と爽やかに云った。

だが、求道者は、そんな理窟離れの言葉では、趙州の真意がつかめなかった。

今度は舒州の投子の所で、趙州の言い分の解説を乞うた。

投子はズバリ・・

「念々とどまることなく流れていく」と答えた。

 

  *擧す 僧、趙州に問う「初生の孩子、また六識を具するや否や」

   趙州云く「急水上(きゅうすいじょう)に毬子(きゅうす)を打(だ)せよ」

   僧、後に投子に問う。

  「急水上の毬子を打せよは、意旨(いし)如何(いかん)

   子云く「念々不停流(ねんねん ふていりゅう)

 

【頌】百二十才の長寿を保った趙州は、その深き禅境(地)を洩らせば、唇から光を放っていたと言われる禅者である。

事もあろうに、その老師に、百も承知の質問(生まれたての子に六識の有無を尋ねる)を投げて、たちまち、生命の渦潮に呑まれてしまった。

流れくだるボウル(いのち)は流転している。

流れてやまぬ生命の行先などイッタイ誰が看届けられるものか。(附記)おとぎばなしの、桃から生まれた桃太郎だって、ドンブリコ~ドンブリコと流れて、どこかの婆さんに、川から拾い上げられたではないか。

  

  *六無功(ろくしきむく)に一問を伸(の)ぶ。

   作家(さくけ)かって共に端(たん)を辦(べん)じ来(きた)る。

   茫々たる急水に毬子(きゅうす)を打せよと。

   落處(らくしょ)に停(とど)まらざるものを誰が看ることを解(げ)せん。

 

【附記】趙州は、求道者の問いに答えて、無門関 第一則「狗子仏性」で、犬には仏性(禅=悟)は無い・・と答えている。坐禅の初心者には、この「趙州無字」は、東大の入学試験に、小学一年生が受験、合格するほどの難問・・難透中の難透と言われる。