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コトバや文字にこだわれば、木の葉が万札に見えてくる!

その他  
  • 碧巌の散策 第七十九回の歩記(あるき)である・・

◆「禅による生活」とは、どうゆう暮らしのことでしょうか?

◆これから「3分間ひとりイス禅」をしてみたいのですが、心構えは?

手に職を持ち、あるいは社員となり、結婚し、時には独身貴族をきどり、悩み、努力する、近所そこいらにいる、平凡な人の暮らしを道(い)います。

・・が、ハッキリと「禅」によって、活きている=生かされている・・ことを自知・体験している人である点が違いです。

禅語では、「言う」を「道う」と書きます(この項では行う・・の意で「道」とします)

常日頃、行いのすべてに、ピチピチと活きている、好奇や躍動、生命力をほとばしらせて、(作為的な表現ではなく)情=心を自然に盡している「表情」・・のある生活を、私は「人生、裸で生きるべし」と道っています。

だから「禅による生活」は、一人独り、皆、違うのです。

ミンナ、宇宙で、ただ、独りだけのDNAを持って誕生しているのだ・・と、頭のてっぺんからつま先まで、浸み込んだら・・どんな暮らしもミンナ、ミンナ・・「禅による生活」となってくるでしょう。

*「禅による生活」は、佛教学者・禅者の故・鈴木大拙 著作「Living by Zen」英語本の用語にあります。

「3分間ひとりイス禅」は、昔、学生時代、北鎌倉、円覚寺山内、続灯庵の故・須原耕雲老師(閻魔堂・弓和尚)に師事、鞭撻を受けたおり、例え、何時間であろうと「坐」するだけなら居眠り坐禅だ。タクワン石の方が立派に坐るぞ。人なれば、3分間でも真剣に坐れ。この3分間・・ナカナカ難しいぞ・・と、古武士の風貌で道われました。弓道は究道に通ずる・・と、弓和尚とも呼ばれた方です。

西欧に行脚に出られて、イス禅が、現代生活の道理にかなっていると推奨されていました。

足の痛みや雑念に苦しむ坐禅は苦行であって、真の坐禅ではありません。

身も心も、ゆったりとして、バランスのとれた、平常心で、何か自分に効能効果を期待しない「何の役にも立たない坐禅」ソノモノに集中できればOkです。

そして毎日、1回、3分間でも、無心の、放ち切った境地の、日ごとの積み重ね・・が大事です。

あえて、その心構え・・といえば、姿勢を正し、眼を半眼にして、腹式呼吸で、六回の数息を計三巡。計十八回の数息・・をくりかえす・・だけです。

(つまり、一回の呼吸がゆっくりと十秒程度であれば、十八回で三分間となる勘定です・・もうちょっと続けられれば、それを繰り返すのです)

これに慣れて、寝る時は「寝禅」。起きる時は「起床禅」食事の前には「食禅」。電車の中で「車中禅」仕事の前後に「仕事禅」・・トイレの時は「手洗い禅」お風呂では「風呂禅」・・など、オリオリに、サッと出来るようになられたら、次に、禅語録の碧巌録や無門関から、ドウモ気に障る、矛盾に満ちた「公案=則」を一つ、頭脳に、訳の解からぬ飴玉を与えるつもりで、数息の代わりに拈弄(ねんろう・集中)なさってください。

この、訳が分からない、役に立たない公案を拈弄する、ひとりイス坐禅こそ、後生大事に、繰り返し、繰り返し(思いを手放す手段として)なさることです。

くれぐれも「悟り・悟達」や、スガスガシイ気分や効能を求めることなど、欣求・祈願の対象にしてはなりません。

坐禅で、心が落ち着くとか、安心の境地になったとか・・そんな目的のためではなりません。

坐禅という手段が、何の役にも立たないこと・・であればこそ、何も成果を期待しない坐禅により、大覚、見性が醸成されていくのです。

そして矛盾に満ちた、気になる公案=則の正解は、ただ己れだけが、自知・納得するのみ。

悟りに、点数・評価はありません。

*禅は宗教ではありません。禅語に出てくる「佛・佛性」の字は「悟り」の意で、私は、ことごとく「禅」と訳しています。例えば、次の一切佛聲は「一切禅声」の意です。

碧巌録 第七十九則 投子一切佛聲(とうすいっさいぶっせい)

【垂示】圓悟が求道者に垂示した。

春夏秋冬、万物は何の思惑も無く自然に働き、目的をもってなしていない。至道は好き嫌いがないだけだ。

解き放つのも、生け捕りにするのも、たいした力は要しない。

さあて、昔から今までに、どんな輩が、この「至道」とやらを、生け捕りにしたのであろうか。試みに挙す看よ。

  *垂示に云く、大用は現前、軌則(きそく)を存せず。

   活捉(かつそく)にも生擒(せいきん)にも、餘力を労せず。

   且(しば)らく道(い)え。是れ、なん人(びと)か曾(か)って恁麼(いんも)にし来たる。  

   試みに挙す看よ。

 

【本則】ある日、求道者が投子山の大同和尚に「仏教では、この宇宙そのものが佛陀の本体(宇宙即佛陀=佛陀即宇宙)であるから、総ての音や声は、これ佛陀の声でありましょうな」と念押しした。

投子「もちろん本当だ」

求道者「それじゃ、放屎(ほうし)放屁(ほうひ・クソダシ・オナラの音)はどうですか。あれも佛陀の尊い教えですか」と、からかったのである。

投子、聞くより早く、ピシャリと求道者を打った。

求道者は、それでもタジロギもせず、二の問いを仕掛けた。

「粗暴な言葉も、丁寧な言語も、大乗、小乗すべて佛陀の教えは、第一義=仏性本体である・・これは真実でしょうか」

投子「本当である」

すると、待ってました・・とばかりに、求道者は言った。

「それなら、今、私が、ご老師を、一匹の愚かな驢馬だと言っても、間違いではありませんね」

投子は、聞くより早く、求道者をピシャリと打った。

  *擧す。

   僧 投子に問う「一切聲(いっさいせい)は、これ佛聲(ぶつせい)なりと。

   是(ぜ)なりや否(いな)や」

   投子云く「是(ぜ)なり」

   僧云く「和尚、とく沸碗鳴(ふつわんみょう)の聲(こえ)なるものなしや」

   投子すなわち打てり。

   又問う「麤言(そごん)および細語(さいご)は、みな第一義に帰すと。

   是なりや否や」

   投子云く「是なり」

   僧云く「和尚を喚(よ)んで一頭の驢(ろ)となし得るや」

   投子すなわち打てり。

 

【頌】投子よ、アンタはエライ。

誰もその働きを止められない。

「是」の一言で、思い切り叩かせてもらったところなんか、まるで、小エビで太鯛を釣りあげたようなもの。

それが一度ならず二度までも大成功とは・・。

可哀そうに、かの求道者は、くだらない屁理屈を陳べているが、波浪に戯れて、しまいに溺死するのを知らない哀れな奴だ。遂に、二度も打たれて溺れ死んだぞ。

もしも・・だが、あの二度目の時に、投子の棒を奪い取って、したたかに投子を殴りつけていたなら、百千の大河が、轟々と逆流するような一大活劇が演じられたろうに・・(投子も泣くほど喜んだことだろうに・・)惜しいことをしたものだ。

  *投子投子。機輪(きりん)に阻(へだて)てらるることなし。

   一を放って二を得、彼(かれ)に同じく此(こ)れに同じ。

   憐(あわ)れむべし限りなく潮(うしお)を弄(ろう)せし人、

   畢竟(ひっきょう)また潮の中に落ちて死せリ。

   忽然として活かせば、百川(ひゃくせん)倒流(とうりゅう)して

   閙聒々(とうかつかつ)たらんに。

 

【附記】「一切聲是佛聲」は、蘇東坡の「山色渓聲 是廣長舌」と同義。

投子大同(818~910)は、石頭希遷、丹霞天然の流れをくむ翆微無学の弟子。

この雪竇の頌は、味噌くそ一緒の、悪平等の邪観を打散せしめた、投子の力量を誉めている。どうやら、言葉や文字に執着すると、木の葉が万札に見えてくる。