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狐のだまし・・田ンボの肥え溜風呂のありさまか・・

  • 碧巌の散策 第七十八回の歩記(あるき)である・・

馬齢を重ねるにしたがって、体と心は一体である・・と言うことが、身に染みて解かるようになった。

若い時は、理窟で解っていただけだ。

と同時に、寒中は大好きな釣りも少し遠のき(といっても、釣れたチヌ=黒鯛は、ことごとく写真にとって記録し、リリースしているだけだが)、物憂い1日を過ごすこともある。

確かに、三分間ひとりイス禅は、釣りの時の呼吸にピッタリで、浮きのアタリや潮風に執着せずに,独り釣禅を続けられる。

だが、近頃は、何かを為しても、為さなくとも、言葉では言い尽くし難い、寂寥感に包まれる。

友人は、病気だろう・・とも、年だろう・・とも推測していう。

中には、そろそろお前はお迎えが近いのでは・・というのもいる。

私は、お迎えが近いとか、体の調子ではないと思っている。

もっと根源から、コンコンと湧き出る泉のごとき「寂寥」の感を想うのだ。

こうも言えよう。

この「寂寥」の心地が解かってこそ、はじめて、揺るぎない禅境が開けてくる・・と

碧巌録 第七十八則 開士入浴(かいし にゅうよく=開士 水因すいいんを悟る)

【垂示】欠如

【本則】ここに少し毛色の変わったインドの話がある。

十六人の衆生を教導する者たちが、規定作法のとおり沐浴していた時、水の肌ざわりのよいこと、清らかで美しいこと、気持ちのいいことを発見し、浮かれ出したという。

これを、雪竇(せっちょう)、話に引き出してきて、坐下の求道者に「サア、お前達、この十六人の開士たちが、心地の良い、極楽温泉のようだという、気持ちがわかるか?

この美的な感覚は、達道の者でなくてはわかるまいが、どうじゃ?」・・と云った。

  *擧す。古(いにしえ)に十六の開士ありたり。

   浴僧(よくそう)の時において例にしたがって入浴し、たちまち水因を悟れりと。

   諸禅徳(しょぜんとく)、作麼生(そもさん)かして、

   他の「妙觸宣 明(みょうそくせんみょう)

   成佛子住(じょうぶつ しじゅう)」と道(い)いしことを會(え)すや。

   また、すべからく七穿八穴(せんけつ)にして、はじめて得(う)べし。

 

【頌】大悟、明眼の士は、一人で沢山。

風呂の中で足を延ばし寝そべって、十六人もウジャウジャと、各種の悟達の感想を述べるとは・・ラチも無いこと。

夢中にあって夢を語るとは、この事を指すのだろう。

極楽温泉で、きれいサッパリ、世の垢を洗い流したつもりだろうが、まだまだ悪臭無限の垢まみれ。

悟りすました馬鹿づらに唾でも吐きかけてやろうぞ。

  *了事(りょうじ)の衲僧(のうそう)は一箇を消(よう)ず。

   長く床上に連(つら)なって脚をのべて臥(が)し、

   夢中に曾(か)って説く圓通(えんつう)を悟ると。

   香水にて洗い来たるも驀面(まくめん)に唾(だ)せん。