碧巌の散策 第七十五回の歩記(あるき)である・・

【人間は(地球にとって)フンコロガシである】

・・これは、2016-11-14  http://takedanet.com/

武田邦彦先生のブログ「科学と生命⑥」ヒトの資源・・を拝見しての意訳です。

先生は、昆虫「糞ころがし」の生態から、人間が、地球の廃棄物=石油、石炭空気、水、原子力・・その他を寄ってたかって、せっせと取り込んで生計を立てている「地球にとってのフンコロガシ」のようだ・・と、語っておられるのを、思わずメモしてご紹介しました。

しかも、それだけなら、まだしも、昆虫のフンコロガシに悖(もと)るのは、傲慢にも、生きている動植物を殺し、生活に利用し、殺人、戦争を行い、すべてが人間の為に存在しているかのような、正当化をしていることだ・・と意見されています。

PCで本物の昆虫「糞コロガシ」を見て感動しました。

彼らは動物の廃棄物「糞」の中の、わずかな栄養分を食事にして生きるべく、せっせと糞を丸め、逆立ちして後ろ足で、転がして巣に運びます。

そのヒタスラで一生懸命なこと。この語源=一所懸命は、まるで、フンコロガシの為に、創られた文字のようです。

碧巌録 第七十五則 烏臼 (うきゅう くつぼうくつぼう)

【垂示】圓悟が垂示した。

禅者たるものは、霊妙な切れ味の宝剣を、いつも携えていて、活殺自在の働きをなす。つまり、把住(積極的手段)と放行(消極的手段)の二つの行為になる。どんな出来事の優劣でも、褒(ほ)めるも貶(けな)すも自由自在。掴(つか)むも放(はな)つも意のままにできるのだ。主客に拘泥しないで、相対的見地に囚われない・・そんな行いは如何に為せるものか・・次の話を看よ。

*垂示に云く、

霊(れい)鋒(ほう)の寶(ほう)剣(けん)、常に前に露現(ろげん)すれば、亦よく人を殺し、亦よく人を活(かっ)す。

かしこにあるも、ここにあるも、同得同失(どうとくどうしつ)

もし提持(ていじ)せんと要せば、提持するに一任し、

もし、平展せんと要せば、平展せんに一任せん。

且(しば)らく道(い)へ、賓(ひん)主(しゅ)に落ちず、囘互(えご)に拘(かかわ)らざる時、如何(いか)にせん。

試みに挙す看よ。

【本則】ある禅者が定州の石藏(せきぞう)和尚の僧堂から、烏臼(うきゅう)の禅庵にやってきた。

烏臼「定州の禅風は、わしの處と変わっているかな?」

禅者「別段、変わりありません」

烏臼「どこも同じなら、ワザワザここまで来るには及ぶまい。サッサと帰れ」と言いざま、手にした棒で、ピシャッと一打した。

禅者「なんとムチャな。あなたの棒は人の価値を見分ける眼が無いようですね」

烏臼「今日は、打つに手ごろな奴が来たものだ」と、さらに、立続けに三回打った。

禅者は閉口して庵を逃げ出そうとした。

その姿を追いかけて、烏臼は「やぶから棒に打ってみたが、うまく当たったなあ」

・・それを聞いて、禅者、うしろを見て云った。

「自分が棒を持っているからといって、大口をたたきなさるな。わしに棒さえあれば、叩き返してやるものを・・」

烏臼すかさず「オオ・・そうか。ソレジャ、お前さんに、これを貸そうか」というと、その禅者は、烏臼の棒を奪い取って、続けざまに烏臼を三回打った。

烏臼「ヤアヤア・・藪から棒に、何とする」

禅者「これは見事な三本、疾風の如き、打ち勝ちですな」

烏臼「さっきは無暗に人を打つなと言っておきながら、今度は、訳もなく人を打つ・・とは、何というやつだ」

すると禅者は、すぐに礼拝した。

烏臼「オイオイ・・たったそれだけで勝負はお終いか」

禅者は、笑いながら去ろうとする、その後ろ姿に・・

烏臼「ナンダ・・アイツは、大笑いの芸しかできない大根役者だったのか」

*擧す。僧、定州(じょうしゅう)和尚の會裏(えり)より来り、烏に到れり。

烏臼問う「定州の法道は這裏(しゃり)と如何(いかん)」僧云く「別ならず」

臼云く「もし別ならずんば、さらに彼(か)の中(うち)に転じ去れ」便(すなわ)ち打つ。

僧云く「棒頭(ぼうとう)に眼(まなこ)あらば、草々(そうそう)に人を打つことを得(え)ざれ」

臼云く「今日、一箇(いっこ)を打着(だちゃく)したるなり」また打つこと三下(さんげ)

僧 すなわち出で去れり。

臼云く「屈棒は元来(がんらい)、人の喫するにあり」

僧、身を転じて云く「いかにせん、杓柄(しゃくへい)の和尚の手裏(しゅり)にあることを」

臼云く「汝 もし要せば、山僧 汝に囘與(らいよ)せん」

僧 近前して、臼の手中の棒を奪い、臼を打つこと三下したり。

臼云く「屈棒(くつぼう) 屈棒」(・・やあ、闇討ちにあったな)

僧云く「人の喫在せしことあり」(うまく一本とったぞ・・の意)

臼云く「そうそうに この漢を打着したり」(今になって訳もなく老僧を打つとは・・どうしたことだ)

僧 すなわち礼拝(らいはい)せり。

臼云く「和尚 恁麼(いんも)にし去るにや」

僧 大笑して出でたり。

臼云く「消得恁麼(しょうとくいんも) 消得恁麼」(なんだ、たったの大笑いだけか・・の意)

【頌】例えば・・瓢子(ひさご)笛(ふえ)で、蛇を呼び集める(把住)のは、比較的たやすいことだが、集まった蛇を退散させる(放行)のはナカナカ困難である。

いま、この無名の禅者と烏臼老師との禅機(葛藤)の戦いは、把住、放行の両作用が対になって、互換的な機鋒が火花を散らしているので、よく看て取るがよい。さざれ石は固くとも、いつか破砕されるやもしれず、海は深くとも、いつかは乾いた大地になることもあろう。

この禅者同士の勝負は、一筋縄では決着しない。

烏臼老師は、よせばよいのに、棒を貸してまで、いい処を見せようとした。

はしたないことをしたものだ。

どうも、やり方がまずかったな・

*呼ぶことは即ち易(やす)、遣(つか)わすことは即ち難し。互換(ごかん)の機鋒を子細(しさい)に看よ。

劫石固(ごうせきかた)うし来たるも、なお壞(え)すべく、滄溟(そうめい)深(ふか)きところに立つも、すべからく乾(かわ)くべし。烏老(うきゅうろう) 烏臼老。幾何般(いくばくはん)ぞ。杓柄をあたえしことの太(はなは)だ端(はした)なかりきは。

 

【附記】定州石藏禅師(北宗禅)は、崇山普寂の弟子。烏臼和尚・・馬祖道一の弟子である・・としか詳細不明。把住と放行と、ともに両忘した烏臼の、円熟した禅機の応酬は、みごたえのある風景だ。

心底、烏臼を貶(けな)す文句は、実は、雪竇の最高の褒め言葉である。