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いつまでも・・「あると思うな 親と金。ないと思うな 運と災難」

 

  • おたずねします。      H28-10-22   

碧巌録 第七十則「潙山請和尚道」の末尾の解説で、百丈が、棺桶を叩いて「生か死か」を訊ね、鼻をしこたまヒネラレテ大悟した禅機の話・・碧巌録第五十五則「道吾一家弔慰」師、道吾圓智と弟子、漸源仲興の棺桶問答と、第五十三則「百丈野鴨子」の、師、馬祖道一と弟子、百丈懐海の、道端で、飛び立った鴨を看ての鼻ヒネリ問答、ゴッチャ混ぜした話しではありませんか。

  • その通りです。百丈と道吾の話師まちがい・・でした。お詫びします。

現在、意訳中の碧巌録・・五十五則と五十三則・・ゴッチャ混ぜにして、百丈だけをたててしまいました。

百丈は、荒廃した禅林の求道者達の規律を制定(百丈清規)した、中興の祖であり、碧巌録第二十六則「独坐大雄峰」の問答でも、雲門の「日日是好日」と並んで、広く日本の今でも知られている禅者です。

今回、はてなブログに引っ越し中であり、上記の則の意訳分は、紹介しておりませんので、この三則、長文ですが・・JCOM奉魯愚をコピーして表示しておきます。長く奉魯愚をご覧いただいている皆さん・・どうぞ、ご自分の禅境(地)を、おはかりください。

本音を言えば禅師や弟子の名前はどうでもいいのです。問答の中身が大事です。

師弟の名前はともかくとして、この三則に共通している「あなたの一語」は何でしょうか・・「三分間ひとりイス禅」の碧巌録 通読の禅境は「あなたの一語」次第につきます。百点か、はたまた零点か・・中間の評価、点はありません。

 

第五十五則 道吾漸源弔慰(どうご ざんげんとちょういす) 

【垂示】圓悟が垂示した。

禅による生活の源泉は、坐禅時の静寂の当體そのもの・・三昧境地から発出するが、云えば云うだけ・・「ソノこと」から遊離してしまう。

瞬間、突発の出来事において、判断処置をあやまらない働きや、虎の頭とシッポをつかまえて、猫の如くならしてしまう行い・・とか。独立独歩、誰も寄りつけない境地に生活するようなことは、マァ、それはそれでよいとして、悩める求道者を相手に、多少の意義ある指導ができた試しがあるか・・どうか。

試みに挙す。看よ。

*垂示に云く、隠密(おんみつ)全眞(ぜんしん)、當頭に取證(しゅしょう)し、涉流(しょうる)に轉物(てんもつ)し、直下(じきげ)に承當(じょうとう)せよ。撃石火(げきせっか)、閃電光中に向かって、訤訛(こうか)を坐断し、虎頭に據(よ)って虎尾をおさむる處において、壁立千仞(へきりゅうせんじん)なることは、則ち(すなわ)且(しば)らく置く。

一線道(いっせんどう)を放(はな)って、為人(いにん)の處 有りや、また、いなや。試みに挙す看よ。

【本則】ここに死生に関する直截的な問答がある。

潭州・道吾山の禅院、道吾(どうご 圓智)老師が、弟子の漸源(ぜんげん 仲興)を連れての、葬儀の帰り道でのことである。

漸源「老師・・私は、葬儀の時、死人の入った棺桶を叩いて、この人は『生きているのか』それとも『死んでいるのか』と訊ねた。

その時、老師は『生とも道(い)へないし、死とも道へない』と曖昧に答えられた。どうしてですか・・と問い詰めても『道わじ、道わじ』の一点張り。

(葬儀も終わり、ここは誰もいない野道です)どうか、棺桶の人は・・生か死か・・ハッキリ答えてください。もし、さきほどのように、グズグズした答えなら、私は打ちますよ」

道吾「打つなら打ってもよい。しかし、その死生のことは、何も道いはしないぞ」と、かたくなに言い張った。・・ので、いいががり上、漸源は老師をピシャリと打ったのである。

よほどたって道吾が遷化した。

師を失った漸源は当時、同じ潭州の石霜山に禅院を構えていた兄弟子の石霜慶諸(せきそうけいしょ)のもとに寄寓することとなった。

ある日、かねてから気がかりでしようのなかった「棺桶の生死」問題と、道吾老師を叩いてしまった出来事を石霜に話しをした。

すると石霜・・「私だって道吾老師と同様、「死とも生とも道わない。これを誰が独断して云っても、それで問題がかたずくものではない」と答えた。

漸源は再び「どうして言ってくれないのか」と迫ると、石霜は「道わじ、道わじ」とおうむ返しである。

ところが漸源は、今回は・・どうゆう理由かは本人が知るのみで、おおいに反省するところがあったのである。

ある日、漸源は、畑の作務のついで、鍬をかついで法堂の廊下を西へ・・東へ往ったり来たりした。これを見た石霜・・「何をしているのか」と、咎めた。

漸源「道吾老師の舎利(お骨)を探しているのです」

石霜「ナント・・先師は舎利なんぞになってはいない。この盡大地に満ち満ちておわしますぞ」

(ここにおせっかいにも雪竇・・この石霜の申し分に箸語・・アア悲しいかナ哀しいカナ・・と附言(着語)した)

それでも漸源は、石霜の言い分を真面目に聞いて「どうあれ私は、先師のご恩に報いるため、衷心からこうしているのです」と、法堂を往復していた。

太原の孚上座(ふじょうざ)。漸源の態度に感服して「本当ダネ・・神イマスガ如クニシテ祭ルトコロニ神ハイマスノダ」=「先師、道吾の霊骨、今、猶、在(いま)すが如しである」

*擧す、道吾 漸源と一家に至って弔慰す。

 源 棺を拍(う)って云く、「生(しょう)か死(し)か」

 吾云く「生(しょう)とも也(また)道( い)わじ、死とも也 道わじ」

 源云く「什麼(なん)としてか道(い)わざる」吾云く「道わじ、道わじ」

 囘(かえ)って中路に至って、源云く「和尚、快(すみ)やかに某甲(それがし)が興(た)めに道(い)へ。

 もし道(いわ)ざれば、和尚を打ち去らん」

 吾云く「打つことは即ち打つに任(まか)す。道(い)うことは即ち道(い)わじ」

 源 すなわち打ちぬ。後、道吾 遷化せり。源、石霜に至って、前話(ぜんな)を擧(こ)似(じ)す。

 霜 云く「生とも また 道わじ。死とも また 道わじ」

 源云く「なんとしてか道わざる」

 霜云く「道わじ、道わじ」源 言下(げんか)に於(お)いて省(しょう)あり。

 源 一日 鍬子(しゅうす)をもって 法堂上(はっとうじょう)に於いて

 東より西に過(す)ぎ、西より東に過ぐ。霜云く「なにおかなすや」

 源云く「先師の霊骨をもとむるなり」

 霜云く「洪波浩渺(こうはこうびょう)、白浪滔天(はくろうとうてん)なり。なんの先師の霊骨をか   

 もとめん」(雪竇 着語して云く、蒼天(そうてん)蒼天(そうてん))

 源云く「正に(報恩謝徳(ほうおんしゃとく)の行為)力をあらわすべきなり」

 太原(たいげん)の孚(ふ) 云く「先師の霊骨は、猶(なお) 在(い)ますがごとし」

【頌】もし、兎や馬に角がある・・と断定すれば、牛や羊には角がないと言わねばならなくなる。死生のことどももまた、かくのごとし。

道吾も石霜も、死かならずしも死にあらず、生かならずしも生にあらず・・と道っているが、そのとおりだ。

先師の霊骨は、在るにはあるが、この全宇宙の(素粒子)のどれにもいきわたっているのだから墓のような住所はない。(鍬をかついで探すので正解だ)

達磨さんだって、片足草履で、故郷に帰ったというではないか。

(注意すべきは、達磨はインドのどこかに止住しているのではない)

 *兎馬(とば)に角(つの)あれば、牛羊には角なし。

  毫(ごう)を絶し釐(り)を絶するも、山の如く、嶽(がく)のごとし。

  黄金の霊骨は、今なお、在(い)ますが如きも白浪滔天なれば、いずれにか處着(しょじゃく)せん。

  箸くるに處なし。隻履(せきり 達磨)は西に帰って曾(か)って失卻したり。

【付記】この則の道吾圓智(769~835)の弟子、漸源(不明)、兄弟子、石霜(807~887)太原孚上座(雪峰の弟子、禅者)の四名が登場する、棺桶の死者をめぐる「生死」の問答である。

今時は、死者を嫌い、目撃葬儀は父母ぐらい・・子供は、ますます死生に縁遠いことになりつつある。

かわいがった犬猫ぐらいしか、直接の死を知らない・・社会環境は、人間を人間とみなしえない、殺人や戦争を、まるで別世界の出来事であるかのようにバーチャル映像で処理する荒廃社会になった。

 

第五十三則 百丈野鴨子(ひゃくじょう やおうす)

【垂示】圓悟が垂示した。至道とか、大道とかは、決して何処か他の処にあるのではない。いたるところにイキイキ・・ピチピチと遍在している。

禅者たるもの、如何なる場合にも、その妙旨を体得して、スラスラと対応できるなら、それは悟道の行為。また、言語についても、私心私見をさしはさまずに、正直公正なら、何人に対しても活殺自在の振る舞いとなる。

さぁさぁ・・先達は、いったい、どのような境涯に安心していたのか・・チナミニ、この話を看るがよい。

*垂示に云く、偏界(へんかい)蔵(かく)さず、全機独露(ぜんきどくろ)。

途(と)に觸(ふれ)れて滞る(とどこお)ことなければ、着着(ちゃくちゃく)と出身(しゅっしん)の機あらん。

句下に私(わたくし)なければ、頭頭(ずず)に殺人(せつにん)の意あらん。

且(しば)らく道(い)え、古人、畢竟(ひっきょう) 什麼(いずれ)の処に向かってか休歇(きゅうけつ)せし。試みに挙す看よ。

 

【本則】禅修行の集団生活の規則を作った百丈(ひゃくじょう)懐海(えかい)が、まだ未悟の求道者として馬祖(ばそ=山)道一(どういつ)に随侍(ずいじ)していた・・七百四十二年、二十三・四才頃の話である。

ある日、馬祖老師の供をして、どこかの法事帰りのおりのこと。

野原の道筋から野鴨がバタバタ羽音を響かせて飛び立った。

禅機を窺うチャンス到来・・とばかり・・馬祖「あれは何か」

百丈「野鴨の奴らです」馬祖「どこに行くのか」

百丈「どこへって・・野鴨の行く先なんぞ、解かる訳がありませんよ。さっき飛び去りました」

すると、馬祖は、イキナリ、野鴨の飛翔した方を眺めていた百丈の鼻先を抓んで、ギューッと捻ったから、たまらない・・

思わず百丈「イテテッ!痛い!アイタッ」と悲鳴をあげた。

馬祖「どうして飛んでいくものか。野鴨はチャントここにいるではないか」

*擧す。馬大師、百丈と行く次(ついで)、野鴨子(やおうす)の飛び過ぐるを見る。大師云く、これ什麼(なん)ぞ。丈云く、野鴨子なり。大師云く、什麼(いずれ)の處に去るや。丈云く、飛び過ぎ去れり。

大師、遂に百丈の鼻頭(びとう)をひねりたれば、丈、忍痛(にんつう)の聲を作(な)す。大師云く、何(なん)ぞ會(か)って飛び去りしぞ。

 

【頌】馬祖と百丈の行く手をさえぎって、飛び立った野鴨。

さて、何処に飛び去ろうとするのか・・山紫水明の風情を語るに足りる弟子ではなかった。老師の問いを早く、かたずけてしまうべく、飛び去りました・・今時風に言うなら・・飛行機じゃあるまいし、飛ぶ行く先なんかありません・・との素っ気なさに、馬祖の弟子を思う老婆心=鼻ヒネリが、ほとばしった。

(徳山なら三十棒・・叩きに叩きのめさるところだった・・鼻ヒネリのおかげで、飛んだ先から馬祖の手元に戻って来れたぞ)

 

サア、鼻ヒネリで息も出来ない百丈よ・・云うてみよ・・いったい、どこに飛び去ることが出来るのだ・・道(い)うてみよ。

*野鴨子、知りんぬ 何許(いずこ)へ。

馬祖、見来たって、相共に語り、話しつくす・・山月(さんげつ)雲海(うんかい)の情。

依前(いぜん)として會(え)せざりしかば、かえって飛び去る。

飛び去らんと欲するも、却(かえ)って把住(はじゅう)せらる。道(い)へよ、道へよ。

 

第二十六則 百丈独坐大雄峯(ひゃくじょう どくざだいゆうほう)

この則には【垂示】が欠落しているので、百丈を取り巻く環境を書いておく。

ここに登場する百丈(ひゃくじょう)懐海(えかい720~814)が生まれたのは、中国史で誰でも知っている楊貴妃が719年に生まれている(玄宗皇帝35才)時代である。

蜀のげんえんの娘が楊貴妃となったのは745年。玄宗皇帝61歳。楊貴妃27歳・・百丈懐海26歳・・当時・・安禄山の謀反があり、ひどく風紀が乱れ頽廃の時代にあって、寺院や僧たちも相当に堕落していたようだ。

彼が禅林(百丈)清規(しんぎ=禅の宗団生活の規則)を定めたのもうなずける。

五燈會元に、老齢の百丈が、率先して働く(作務する)ので、弟子たちが密かに作具を隠したところ、自分の不徳の所為だ・・と食を絶った・・との逸話がある。

その時の有名な言葉が「一日作(な)さざれば、一日食せず」・・である。

彼の法系は、大鑑慧能→南嶽懐譲→馬祖道一・・→百丈懐海であり、弟子に黄檗希運黄檗宗)→臨済義玄臨済宗)と、別に・・百丈→潙山霊祐→仰山慧寂(潙仰宗)の、現、日本の曹洞宗以外の禅宗派の始祖となった、すぐれた禅者である。

もし、玄宗皇帝の世に、百丈がいなければ、はたして日本に伝播した禅は、どうなっていたことか・・解からない位の影響力がある。

百丈山(別名 大雄山)は中国江西省洪州にあり、そう高くもない、のんびりした山だ・・そうだが、大雄峯と決めつけたおかげで、日本では富士山のような有名な山になってしまった。

【本則】奇抜で面白い話を紹介する。

百丈(大雄)山の禅院に、求道者が尋ねてきた。

「何か特別でめずらしいこと・・賞賛に値することはありませんか?」

百丈懐海「独坐大雄峯・・別段、なにもないな。ただ、独り大雄峯に坐っているだけさ」

それを聞いた求道者、恭しく一礼した。

百丈、すかさず竹箆(しっぺい)で、ピシリと求道者を打った。

 

【頌】まるで天馬の如き馬祖道一の弟子、百丈懐海は稀代の名馬である。

ちょうど、雷光一閃の瞬間、天地が逆さまになるような、すぐれた働きをする・・こんな非凡な禅者の前に来て「如何なるか是れ奇特事」・・とは・・

あたかも猛虎の髭をなでるような出来事だ。

ピシャリと打たれて済んだのも果報の内だよ。(打たれるには意味がある)

いつまでも・・「あると思うな・・命とお金。無いと思うな・・福と災難」

 

【附記】「一日 作さざれば、一日 食せず」と、萎(しな)びた山間に独り、坐っている爺さん・・どうも一致しづらいのは、世の中に出回る勇壮な書一行「独坐大雄峯」のせいだ。

この百丈懐海・・原の白隠一休宗純より、越後の(国上山)五合庵に住んだ良寛さんのような方だったのか・・。興味はつきない。

現代社会は情報社会と言う・・けれど、頭脳の何千万人分、図書館の何千館分の知識がパソコンで利用できようと、広大な宇宙の果て銀河世界や、逆に最小単位のミクロ、量子物理学を究めつつあると言っても・・アメーバ―ひとつ作れず、クローンをいじ繰り回すに過ぎない存在が人間です。

 

そうした社会の為になる研究や開発、頭脳そのものの研究、自然科学の研究に情報の活用は大事ですが、人は・・ソクラテス以来、誰もが思い考えてきた・・「自分とは何か・・」「幸福・安心とは何か」の問いに、何とか答えようとする・・いわゆる・・求道(好奇)心をなくしてはなりません。

この問いに、スマホやパソコンは、真実・安心の境地とはほど遠い、資料提供だけをしてくれる存在です。

だからこそ、釈尊以前からインドの地にあった「空・無」を拠りどころにする浄慮・静寂の「禅」が、現代社会の心の免疫不全に役立つのです。(無功徳の禅が、無功徳だから解毒剤の役割をもって、役立つのです)

そして、先達が歩いた足跡・・禅語録(公案)が禅境(地)を語ってくれています。

千年・二千年前であろうと、ひたすら内面に「自己とは何か」を問いかけることに、何の情報や変化や文明の利器とやらが必要でしょうか。

むしろ知的思考に頼り、スマホやパソコンの情報を解析のツールにする以上、バランスを失った理性は、般若(智慧)の意識から遠ざかります。

それは人間は・・思考そのものを思考できない・・脳の宿命を持っているからです。

思考は、分別分析分化・・これを文の字に置き換えてもよい・・脳内作業だから、まるでパソコンに、永久運動の機械設計を依頼するようなもの。円周率を計算させるような働きになってしまいます。

釈尊以来「禅による生活」をなした禅者たちは、般若心経の、いわゆる「菩提娑婆訶」の境地を体現して今に至っています。

世の中で、最も奇特で大事な事・・とは、萎びた山中で、むさくるしい爺さんではあるが・・まるで「富士山のように、般若の真ん中に、どっしりと坐っている自分(自我)・・これである・・と断言する百丈。

 

どうやら地球を尻に敷いて「ドン」と坐りこむ禅者の傍らで、仔犬のように、跳ね回るのは止めて、静かに大雄山から退散するとしよう。 

*H15-12月分 奉魯愚 紹介掲載