【看よや 看よ・・誰か、岸辺に釣り竿を取る・・】

 

ヨヤ

古岸 何人杷釣竿ヲトル

            (竿頭ノ絲線 具眼方ニ知ㇽ)

雲 冉冉ゼンゼン  水 漫漫マンマン

名月蘆花 君自カラ

 

           碧巌集 第六十二則 雪竇 頌

*絲線(シセン・・釣り糸・釣り針・・釣り人の思惑がまるみえ・・の意)

*冉冉(ゼンゼン=沸き起こるさま。マンマン=深く湛えられたさま)

 

賀状をやめて久しいのですが・・今なお、年始のお便りが届くと嬉しいので,普通ハガキで、上記のような、語録の頌偈を所感にして差し上げています。

 

J-COM・奉魯愚を終了して、すでに「禅者の一語 はてなブログ 3分間ひとりイス禅」に移転しました。

これからは、この「はてなブログ」で、引き続き、ご覧いただければ幸甚です。

新年三日から碧巌の散策 第七十九回の歩記(あるき)である・・

「碧巌録 第七十九則 投子一切佛聲(とうす いっさいぶっせい)」から開始します。

 

号外・・ ロシア・プーチン大統領「北方4島」引き分け??

戦争・勝負に「引き分け」?

日本も・・甘く見られたもんですネ!

昔、武道(柔道)には、勝負に「引き分け」があつた。

どちらにも、勝ち、敗けがつけられない状況をいった。

今は、どのスポーツでも、必ず延長戦で白黒をつけるので、ない。

まして、政治の世界で、ロシアのプーチン大統領が、日本発祥の柔道、黒帯であることを機に、過月、北方四島の帰属をめぐる交渉を、両国「引き分け」にしよう・・と持ちかけられた報道に国民・・少なくとも私・・は驚いた。

そして、引き分け話が、そうした首脳交渉により、いずれは返還されるかも・・と言った淡い期待を抱いたようだ。

この「引き分け」を、マスコミでは「痛み分け」か、昔の「三方一両損」のような、まったく善意でウイン・ウインの関係・交渉を夢見る発表をした。

政府・外務省も、希望的に報道を黙認した。

まず、これは大間違い・・であると思います。

何故なら「引き分け」・・とは、イッタイどんなことなのか・・間抜けにも・・プーチンさんの定義、意見を、誰も質したり、聞いていないからです。

 

プーチンさんのいう「引き分け」・・とは、現在・・がっちり、お互いに、両袖を引き合い、すり足で技をかけあう・・勝負のついていない・・現状を云ったに過ぎない・・のが、現実でしょう。

きっと、彼は、どうせ、お互い、自国の主張を言い合うだけだから、四島の帰属問題は勝負なしの「引き分け」にしよう・・と言ったのです。

だから・・永久に、四島を返還する気がないのに、政府やマスコミは、経済援助のお土産つきで、いずれは返還してもらえる「希望」をもらえるような「引き分け」を、政府(外務省)は幻想している・・のです。

プーチンさんは、柔道の試合をよく知っています。

観客が取り巻く、審判のいない試合場で組手して戦っている以上、双方がヘトヘトになって試合を放棄しない限り、「引き分け」の現状は変わりません。

 

スポーツと違って、国家と国家の国際ルールでは、百年たとうが千年過ぎようが、勝つか・・負けるか・・条件が有利か、不利か・・その二つにひとつしかないだけ。

「引き分け」の平等的、ウィン・ウィンの結果など、あり得ないのです。

(戦っている・・その最中、交渉中の期間だけ「引き分け」の状態です)

 

だから、十二月の首脳会談で、日本の「優勢のポイント」は、まずありえず、期待しない方がよいでしょう。

総理は夢から醒めたように、そう簡単に平和条約を結べないのが、国家間の現実だと言うようになりましたが、この試合・・どうやら交渉の優勢のポイントが、いま、ロシアについているようです。

おそらく、プーチンさんは、日本の経済援助が、まず、両国の為にプラスになると訴求して、現状の「引き分け」に、ロシア優勢をイメージづけることでしょう。

 

政府やマスコミが、その尻馬にのって、「希望」と言う名の成果があったなどと、パンドラの箱を開けたようなことをいわないでほしい。

 

あの広島原爆の翌日(昭和二十年八月七日)・・突然、ソビエト軍は、不可侵条約を反古にして日本に宣戦布告。八月十四日ポツダム宣言を受諾して無条件降伏をしたあと、さらに、9月2日、戦艦ミズーリ号で降伏文書に署名している最中にも(8月28日択捉島。9月1日~5日までに)国後島色丹島歯舞群島北方領土すべてに、武器を置いた日本の島々に侵攻して、正当な戦勝地域であると言うのですから・・柔道の引き分け話など、あきれてものが言えない卑怯な勝負です。

さらに、国際法上、敗戦を認めた国に、北海道の半分を割譲せよと、上陸作戦を計画したソ連軍。アメリカは、スターリンの野望を、どうにか止めましたが、いったい、この勝負の何処に「引き分け」があり、また、これから島々が返還される「引き分け」があるのでしょうか。

戦争とは・・どんなにことをしても負けられない・・戦争をする以上、何としてでも、勝たねばならない・・卑怯で、残酷なことを学ぶだけです。

 

むしろ、国家間の、土地・権益をめぐる争いは、戦争にでもならない限り、永久に「引き分け」の状態が続くことを覚悟して対応することを知らねばなりません。

すでに、戦争体験者が少なくなった今こそ、政府やマスコミは、国家間の利権を争う争議や戦争を、暴いて、その冷酷な事実を国民に告知・報道する責任があると思います。

(この件に限らず、中国の南京虐殺や韓国の慰安婦問題、北朝鮮拉致事件など、もっともっと、色々な媒体や報道機関を通じて、主張するべきでしょう)

 

そして、平常時には、常日頃、少しだけ相手より優勢的ポイントをおさえることです。例えば、近隣、外国の観光客を歓迎して、日本(人)の文化や科学の良さを体験してもらうこと・・日本に住みたいなァ・・おつきあいしたいなァ・・と思われるよう、働きかけること。

それでいて、拉致などされたら、自衛隊を出してでも(国際的にバックアップも必要ですが)奪還してくる覚悟が必要でしょう。

そうした・・碁盤上、いずれ、勝敗を決することになる要(かなめ)の一石を、静かに置き続けることが肝要です。

政府・議員や関係官僚たち、マスコミ新聞記者の、事なかれ主義をきらい、サムライ・ジャパンの心意気を持ち続けてもらいたいものです。

  *この号外・奉魯愚を書いた今日(十一月二十六日S/M紙に、

   小泉敏夫氏(九十三才)の訃報がありました。

   氏は北方領土返還運動の、中心的役割を担った前理事長であり、

   北方領土色丹島出身。謹んで、ご冥福をお祈りいたします。

いつまでも・・「あると思うな 親と金。ないと思うな 運と災難」

 

  • おたずねします。      H28-10-22   

碧巌録 第七十則「潙山請和尚道」の末尾の解説で、百丈が、棺桶を叩いて「生か死か」を訊ね、鼻をしこたまヒネラレテ大悟した禅機の話・・碧巌録第五十五則「道吾一家弔慰」師、道吾圓智と弟子、漸源仲興の棺桶問答と、第五十三則「百丈野鴨子」の、師、馬祖道一と弟子、百丈懐海の、道端で、飛び立った鴨を看ての鼻ヒネリ問答、ゴッチャ混ぜした話しではありませんか。

  • その通りです。百丈と道吾の話師まちがい・・でした。お詫びします。

現在、意訳中の碧巌録・・五十五則と五十三則・・ゴッチャ混ぜにして、百丈だけをたててしまいました。

百丈は、荒廃した禅林の求道者達の規律を制定(百丈清規)した、中興の祖であり、碧巌録第二十六則「独坐大雄峰」の問答でも、雲門の「日日是好日」と並んで、広く日本の今でも知られている禅者です。

今回、はてなブログに引っ越し中であり、上記の則の意訳分は、紹介しておりませんので、この三則、長文ですが・・JCOM奉魯愚をコピーして表示しておきます。長く奉魯愚をご覧いただいている皆さん・・どうぞ、ご自分の禅境(地)を、おはかりください。

本音を言えば禅師や弟子の名前はどうでもいいのです。問答の中身が大事です。

師弟の名前はともかくとして、この三則に共通している「あなたの一語」は何でしょうか・・「三分間ひとりイス禅」の碧巌録 通読の禅境は「あなたの一語」次第につきます。百点か、はたまた零点か・・中間の評価、点はありません。

 

第五十五則 道吾漸源弔慰(どうご ざんげんとちょういす) 

【垂示】圓悟が垂示した。

禅による生活の源泉は、坐禅時の静寂の当體そのもの・・三昧境地から発出するが、云えば云うだけ・・「ソノこと」から遊離してしまう。

瞬間、突発の出来事において、判断処置をあやまらない働きや、虎の頭とシッポをつかまえて、猫の如くならしてしまう行い・・とか。独立独歩、誰も寄りつけない境地に生活するようなことは、マァ、それはそれでよいとして、悩める求道者を相手に、多少の意義ある指導ができた試しがあるか・・どうか。

試みに挙す。看よ。

*垂示に云く、隠密(おんみつ)全眞(ぜんしん)、當頭に取證(しゅしょう)し、涉流(しょうる)に轉物(てんもつ)し、直下(じきげ)に承當(じょうとう)せよ。撃石火(げきせっか)、閃電光中に向かって、訤訛(こうか)を坐断し、虎頭に據(よ)って虎尾をおさむる處において、壁立千仞(へきりゅうせんじん)なることは、則ち(すなわ)且(しば)らく置く。

一線道(いっせんどう)を放(はな)って、為人(いにん)の處 有りや、また、いなや。試みに挙す看よ。

【本則】ここに死生に関する直截的な問答がある。

潭州・道吾山の禅院、道吾(どうご 圓智)老師が、弟子の漸源(ぜんげん 仲興)を連れての、葬儀の帰り道でのことである。

漸源「老師・・私は、葬儀の時、死人の入った棺桶を叩いて、この人は『生きているのか』それとも『死んでいるのか』と訊ねた。

その時、老師は『生とも道(い)へないし、死とも道へない』と曖昧に答えられた。どうしてですか・・と問い詰めても『道わじ、道わじ』の一点張り。

(葬儀も終わり、ここは誰もいない野道です)どうか、棺桶の人は・・生か死か・・ハッキリ答えてください。もし、さきほどのように、グズグズした答えなら、私は打ちますよ」

道吾「打つなら打ってもよい。しかし、その死生のことは、何も道いはしないぞ」と、かたくなに言い張った。・・ので、いいががり上、漸源は老師をピシャリと打ったのである。

よほどたって道吾が遷化した。

師を失った漸源は当時、同じ潭州の石霜山に禅院を構えていた兄弟子の石霜慶諸(せきそうけいしょ)のもとに寄寓することとなった。

ある日、かねてから気がかりでしようのなかった「棺桶の生死」問題と、道吾老師を叩いてしまった出来事を石霜に話しをした。

すると石霜・・「私だって道吾老師と同様、「死とも生とも道わない。これを誰が独断して云っても、それで問題がかたずくものではない」と答えた。

漸源は再び「どうして言ってくれないのか」と迫ると、石霜は「道わじ、道わじ」とおうむ返しである。

ところが漸源は、今回は・・どうゆう理由かは本人が知るのみで、おおいに反省するところがあったのである。

ある日、漸源は、畑の作務のついで、鍬をかついで法堂の廊下を西へ・・東へ往ったり来たりした。これを見た石霜・・「何をしているのか」と、咎めた。

漸源「道吾老師の舎利(お骨)を探しているのです」

石霜「ナント・・先師は舎利なんぞになってはいない。この盡大地に満ち満ちておわしますぞ」

(ここにおせっかいにも雪竇・・この石霜の申し分に箸語・・アア悲しいかナ哀しいカナ・・と附言(着語)した)

それでも漸源は、石霜の言い分を真面目に聞いて「どうあれ私は、先師のご恩に報いるため、衷心からこうしているのです」と、法堂を往復していた。

太原の孚上座(ふじょうざ)。漸源の態度に感服して「本当ダネ・・神イマスガ如クニシテ祭ルトコロニ神ハイマスノダ」=「先師、道吾の霊骨、今、猶、在(いま)すが如しである」

*擧す、道吾 漸源と一家に至って弔慰す。

 源 棺を拍(う)って云く、「生(しょう)か死(し)か」

 吾云く「生(しょう)とも也(また)道( い)わじ、死とも也 道わじ」

 源云く「什麼(なん)としてか道(い)わざる」吾云く「道わじ、道わじ」

 囘(かえ)って中路に至って、源云く「和尚、快(すみ)やかに某甲(それがし)が興(た)めに道(い)へ。

 もし道(いわ)ざれば、和尚を打ち去らん」

 吾云く「打つことは即ち打つに任(まか)す。道(い)うことは即ち道(い)わじ」

 源 すなわち打ちぬ。後、道吾 遷化せり。源、石霜に至って、前話(ぜんな)を擧(こ)似(じ)す。

 霜 云く「生とも また 道わじ。死とも また 道わじ」

 源云く「なんとしてか道わざる」

 霜云く「道わじ、道わじ」源 言下(げんか)に於(お)いて省(しょう)あり。

 源 一日 鍬子(しゅうす)をもって 法堂上(はっとうじょう)に於いて

 東より西に過(す)ぎ、西より東に過ぐ。霜云く「なにおかなすや」

 源云く「先師の霊骨をもとむるなり」

 霜云く「洪波浩渺(こうはこうびょう)、白浪滔天(はくろうとうてん)なり。なんの先師の霊骨をか   

 もとめん」(雪竇 着語して云く、蒼天(そうてん)蒼天(そうてん))

 源云く「正に(報恩謝徳(ほうおんしゃとく)の行為)力をあらわすべきなり」

 太原(たいげん)の孚(ふ) 云く「先師の霊骨は、猶(なお) 在(い)ますがごとし」

【頌】もし、兎や馬に角がある・・と断定すれば、牛や羊には角がないと言わねばならなくなる。死生のことどももまた、かくのごとし。

道吾も石霜も、死かならずしも死にあらず、生かならずしも生にあらず・・と道っているが、そのとおりだ。

先師の霊骨は、在るにはあるが、この全宇宙の(素粒子)のどれにもいきわたっているのだから墓のような住所はない。(鍬をかついで探すので正解だ)

達磨さんだって、片足草履で、故郷に帰ったというではないか。

(注意すべきは、達磨はインドのどこかに止住しているのではない)

 *兎馬(とば)に角(つの)あれば、牛羊には角なし。

  毫(ごう)を絶し釐(り)を絶するも、山の如く、嶽(がく)のごとし。

  黄金の霊骨は、今なお、在(い)ますが如きも白浪滔天なれば、いずれにか處着(しょじゃく)せん。

  箸くるに處なし。隻履(せきり 達磨)は西に帰って曾(か)って失卻したり。

【付記】この則の道吾圓智(769~835)の弟子、漸源(不明)、兄弟子、石霜(807~887)太原孚上座(雪峰の弟子、禅者)の四名が登場する、棺桶の死者をめぐる「生死」の問答である。

今時は、死者を嫌い、目撃葬儀は父母ぐらい・・子供は、ますます死生に縁遠いことになりつつある。

かわいがった犬猫ぐらいしか、直接の死を知らない・・社会環境は、人間を人間とみなしえない、殺人や戦争を、まるで別世界の出来事であるかのようにバーチャル映像で処理する荒廃社会になった。

 

第五十三則 百丈野鴨子(ひゃくじょう やおうす)

【垂示】圓悟が垂示した。至道とか、大道とかは、決して何処か他の処にあるのではない。いたるところにイキイキ・・ピチピチと遍在している。

禅者たるもの、如何なる場合にも、その妙旨を体得して、スラスラと対応できるなら、それは悟道の行為。また、言語についても、私心私見をさしはさまずに、正直公正なら、何人に対しても活殺自在の振る舞いとなる。

さぁさぁ・・先達は、いったい、どのような境涯に安心していたのか・・チナミニ、この話を看るがよい。

*垂示に云く、偏界(へんかい)蔵(かく)さず、全機独露(ぜんきどくろ)。

途(と)に觸(ふれ)れて滞る(とどこお)ことなければ、着着(ちゃくちゃく)と出身(しゅっしん)の機あらん。

句下に私(わたくし)なければ、頭頭(ずず)に殺人(せつにん)の意あらん。

且(しば)らく道(い)え、古人、畢竟(ひっきょう) 什麼(いずれ)の処に向かってか休歇(きゅうけつ)せし。試みに挙す看よ。

 

【本則】禅修行の集団生活の規則を作った百丈(ひゃくじょう)懐海(えかい)が、まだ未悟の求道者として馬祖(ばそ=山)道一(どういつ)に随侍(ずいじ)していた・・七百四十二年、二十三・四才頃の話である。

ある日、馬祖老師の供をして、どこかの法事帰りのおりのこと。

野原の道筋から野鴨がバタバタ羽音を響かせて飛び立った。

禅機を窺うチャンス到来・・とばかり・・馬祖「あれは何か」

百丈「野鴨の奴らです」馬祖「どこに行くのか」

百丈「どこへって・・野鴨の行く先なんぞ、解かる訳がありませんよ。さっき飛び去りました」

すると、馬祖は、イキナリ、野鴨の飛翔した方を眺めていた百丈の鼻先を抓んで、ギューッと捻ったから、たまらない・・

思わず百丈「イテテッ!痛い!アイタッ」と悲鳴をあげた。

馬祖「どうして飛んでいくものか。野鴨はチャントここにいるではないか」

*擧す。馬大師、百丈と行く次(ついで)、野鴨子(やおうす)の飛び過ぐるを見る。大師云く、これ什麼(なん)ぞ。丈云く、野鴨子なり。大師云く、什麼(いずれ)の處に去るや。丈云く、飛び過ぎ去れり。

大師、遂に百丈の鼻頭(びとう)をひねりたれば、丈、忍痛(にんつう)の聲を作(な)す。大師云く、何(なん)ぞ會(か)って飛び去りしぞ。

 

【頌】馬祖と百丈の行く手をさえぎって、飛び立った野鴨。

さて、何処に飛び去ろうとするのか・・山紫水明の風情を語るに足りる弟子ではなかった。老師の問いを早く、かたずけてしまうべく、飛び去りました・・今時風に言うなら・・飛行機じゃあるまいし、飛ぶ行く先なんかありません・・との素っ気なさに、馬祖の弟子を思う老婆心=鼻ヒネリが、ほとばしった。

(徳山なら三十棒・・叩きに叩きのめさるところだった・・鼻ヒネリのおかげで、飛んだ先から馬祖の手元に戻って来れたぞ)

 

サア、鼻ヒネリで息も出来ない百丈よ・・云うてみよ・・いったい、どこに飛び去ることが出来るのだ・・道(い)うてみよ。

*野鴨子、知りんぬ 何許(いずこ)へ。

馬祖、見来たって、相共に語り、話しつくす・・山月(さんげつ)雲海(うんかい)の情。

依前(いぜん)として會(え)せざりしかば、かえって飛び去る。

飛び去らんと欲するも、却(かえ)って把住(はじゅう)せらる。道(い)へよ、道へよ。

 

第二十六則 百丈独坐大雄峯(ひゃくじょう どくざだいゆうほう)

この則には【垂示】が欠落しているので、百丈を取り巻く環境を書いておく。

ここに登場する百丈(ひゃくじょう)懐海(えかい720~814)が生まれたのは、中国史で誰でも知っている楊貴妃が719年に生まれている(玄宗皇帝35才)時代である。

蜀のげんえんの娘が楊貴妃となったのは745年。玄宗皇帝61歳。楊貴妃27歳・・百丈懐海26歳・・当時・・安禄山の謀反があり、ひどく風紀が乱れ頽廃の時代にあって、寺院や僧たちも相当に堕落していたようだ。

彼が禅林(百丈)清規(しんぎ=禅の宗団生活の規則)を定めたのもうなずける。

五燈會元に、老齢の百丈が、率先して働く(作務する)ので、弟子たちが密かに作具を隠したところ、自分の不徳の所為だ・・と食を絶った・・との逸話がある。

その時の有名な言葉が「一日作(な)さざれば、一日食せず」・・である。

彼の法系は、大鑑慧能→南嶽懐譲→馬祖道一・・→百丈懐海であり、弟子に黄檗希運黄檗宗)→臨済義玄臨済宗)と、別に・・百丈→潙山霊祐→仰山慧寂(潙仰宗)の、現、日本の曹洞宗以外の禅宗派の始祖となった、すぐれた禅者である。

もし、玄宗皇帝の世に、百丈がいなければ、はたして日本に伝播した禅は、どうなっていたことか・・解からない位の影響力がある。

百丈山(別名 大雄山)は中国江西省洪州にあり、そう高くもない、のんびりした山だ・・そうだが、大雄峯と決めつけたおかげで、日本では富士山のような有名な山になってしまった。

【本則】奇抜で面白い話を紹介する。

百丈(大雄)山の禅院に、求道者が尋ねてきた。

「何か特別でめずらしいこと・・賞賛に値することはありませんか?」

百丈懐海「独坐大雄峯・・別段、なにもないな。ただ、独り大雄峯に坐っているだけさ」

それを聞いた求道者、恭しく一礼した。

百丈、すかさず竹箆(しっぺい)で、ピシリと求道者を打った。

 

【頌】まるで天馬の如き馬祖道一の弟子、百丈懐海は稀代の名馬である。

ちょうど、雷光一閃の瞬間、天地が逆さまになるような、すぐれた働きをする・・こんな非凡な禅者の前に来て「如何なるか是れ奇特事」・・とは・・

あたかも猛虎の髭をなでるような出来事だ。

ピシャリと打たれて済んだのも果報の内だよ。(打たれるには意味がある)

いつまでも・・「あると思うな・・命とお金。無いと思うな・・福と災難」

 

【附記】「一日 作さざれば、一日 食せず」と、萎(しな)びた山間に独り、坐っている爺さん・・どうも一致しづらいのは、世の中に出回る勇壮な書一行「独坐大雄峯」のせいだ。

この百丈懐海・・原の白隠一休宗純より、越後の(国上山)五合庵に住んだ良寛さんのような方だったのか・・。興味はつきない。

現代社会は情報社会と言う・・けれど、頭脳の何千万人分、図書館の何千館分の知識がパソコンで利用できようと、広大な宇宙の果て銀河世界や、逆に最小単位のミクロ、量子物理学を究めつつあると言っても・・アメーバ―ひとつ作れず、クローンをいじ繰り回すに過ぎない存在が人間です。

 

そうした社会の為になる研究や開発、頭脳そのものの研究、自然科学の研究に情報の活用は大事ですが、人は・・ソクラテス以来、誰もが思い考えてきた・・「自分とは何か・・」「幸福・安心とは何か」の問いに、何とか答えようとする・・いわゆる・・求道(好奇)心をなくしてはなりません。

この問いに、スマホやパソコンは、真実・安心の境地とはほど遠い、資料提供だけをしてくれる存在です。

だからこそ、釈尊以前からインドの地にあった「空・無」を拠りどころにする浄慮・静寂の「禅」が、現代社会の心の免疫不全に役立つのです。(無功徳の禅が、無功徳だから解毒剤の役割をもって、役立つのです)

そして、先達が歩いた足跡・・禅語録(公案)が禅境(地)を語ってくれています。

千年・二千年前であろうと、ひたすら内面に「自己とは何か」を問いかけることに、何の情報や変化や文明の利器とやらが必要でしょうか。

むしろ知的思考に頼り、スマホやパソコンの情報を解析のツールにする以上、バランスを失った理性は、般若(智慧)の意識から遠ざかります。

それは人間は・・思考そのものを思考できない・・脳の宿命を持っているからです。

思考は、分別分析分化・・これを文の字に置き換えてもよい・・脳内作業だから、まるでパソコンに、永久運動の機械設計を依頼するようなもの。円周率を計算させるような働きになってしまいます。

釈尊以来「禅による生活」をなした禅者たちは、般若心経の、いわゆる「菩提娑婆訶」の境地を体現して今に至っています。

世の中で、最も奇特で大事な事・・とは、萎びた山中で、むさくるしい爺さんではあるが・・まるで「富士山のように、般若の真ん中に、どっしりと坐っている自分(自我)・・これである・・と断言する百丈。

 

どうやら地球を尻に敷いて「ドン」と坐りこむ禅者の傍らで、仔犬のように、跳ね回るのは止めて、静かに大雄山から退散するとしよう。 

*H15-12月分 奉魯愚 紹介掲載

 

 

 

おせん泣かすな うま肥やせ・・開拓しなければならないのは・・?

  • 碧巌の散策 第七十回の歩記(あるき)である・・      

貴方の人生(死生)観は何ですか・・と訊ねても、若い人は答えられない。

父母や学校、スマホで教わらないし、

まして、死生観に基づく行動(生き様)など、思い浮かべようのない社会生活だからだ。

禅や禅問答にしても、何も解かろうとしないし、学びもしない。まして、外国人から、「ZENとはどうゆうことですか?」と訊ねられても、答えられない。

世界での「ZEN」に対する関心は深い・・が、本家本元であるはずの日本が,アヤフヤ、アイマイ・・ダルマさんが禅の本家であることすらしらないのだから、世も末である。

著名な寺社へ観光(拝観?)に出かけ、写経や、坐禅の真似事をして、ピシリと肩に警策をうけ、その近くで懐石(精進)料理を食べて、記念に般若心経を印刷した扇子の一本も仕込めば、立派に禅を学んでの・・いい経験をした・・と、思うだけの気楽さだ。

こうした有様では「禅」は廃れ果ててしまう。

 

原因を追究すれは、何時、発生するかわからないであろう・・我が事=「自分の死」について、深く想いをめぐらす生活条件が希薄なことだろう。

第1に、戦争、災害、事故・事件、病気、革命、平和・死刑廃止運動など「自分が死亡」する・・出来事が、随分と将来に先延ばしされた(・・ように感じる)社会になったことである。

第2に、ハッキリ言って、日本の政府・官僚・NHK・教育などが、平和憲法に守られたと錯覚して、危機・管理の対応・・に、責任を取りたくない仕組みを構築してきたことだ。

*例えば、国交もない隣国により、国民が拉致被害にあい、核実験をされ、ミサイルを経済水域にうち込んでくるのに、外交交渉だけでなんとかする・・という、そんな国が、何処にあろうか?ミサイルを撃ち落とし、二度とするな位の、気迫がほしい。

戦争を仕掛けろ・・というのではない。国民を不法に拉致されて、その奪還に出かける・・自衛行動が、何故できないのか?

経済水域に実験と称するミサイルを撃ち込まれて・・あるいは、領海に入りこんで拉致する船や、尖閣をねらう中国漁船を、何百隻だろうと拿捕する・・のが、海保・自衛隊の役目でしょう。そして、漁業や海底油田など、どうぞ、安心して行ってください・・と、諸外国の軍事圧力から、自衛・保安してくれるのが、国の役目でしょう。

こんな国際的に、何処の国にもある自衛の権利と、国民からの負託を忘れて、事なかれ主義になりさがった日本なのか・・「政府よ・・国土を外敵から守り(拉致された国民を奪還して)安心して操業・生活できる国にする・・責務をはたせ」と言いたい。

昔の人々は、年金もなく、家族ともどもの教育や病気の不安をかかえて、平均寿命五十年の生活でした。時にお百姓さんまで「おせん泣かすな、うま肥やせ」と電報文のような手紙を托して、戦場に狩り出され死にました。

ペニシリンが出来て・・コンビニができて・・PC・スマホが普及して、まだ、百年もたっていません。

ナノニ・・尖閣を守り、海外派兵に出向く自衛隊や海保などの・・現場の方たち・・とその家族だけが、「死生観」を持って生きている、歪(いびつ=不正ト書キマス)な社会となりました。

 

昔は、子供たちが十五歳(今の中三ぐらい)になると、家族や、ご近所、役場などの関係者が集って「元服(げんぷく)の儀式」が行われました。

髪形や服装がかわり、結婚や仕事など、大人社会の仲間入りが認められました。

今の「成人の日」とちがう、一番大事なことは、社会への参画の、責任と義務が伴うこと・・として祝われた点です。

ナカデモ・・武士の子は、もし恥となり、社会・地域の迷惑な事を仕出かした場合は、切腹(死ぬ)を覚悟します・・と、その仕方、やり方を儀式的に演じて見せたのです。

当時、二〇代は、大年増(オオドシマ=年とりおばさん)三〇代は、おばあさんと呼ばれ・・四〇代は、男女ともに、戦死したり、隠居したり、孫の面倒をみる・・社会です。こうした出来事を賛美して書くのではありません。

ただ、文明・文化の発達とは、人間のロボット化だけを促進するものであっていいのか?・・という疑問です。

 

「死」を身近に実感できない時代・・犬猫ですら、獣医師が訪問介護で駆けつけてくれる介護社会になって・・「死と対比できる生」「戦争と対比できる平和」がなくなって、「不幸と対比する、自分だけの幸せ」だけ、追い求める時代です。

  • どうやら・・開拓しなければならないのは西部の荒野ではなく、馬に乗った「人の帽子の中」である。(コレハ・・アメリカ西部開拓期のコトワザです)

そのアメリカの大統領戦では、下ネタ、下世話話にウツツを抜かす・・嘆くことの多い社会になりました。

*碧巌録第七十則は次回、掲載。

禅・坐禅・瞑想  ◆碧巌の散策 第六十九回の歩記(あるき)である

◆「役立たず」の「3分間ひとりイス禅」は・・「執着する心の」アカ落しだ   

  • 「役立たずの坐禅」と言われますが、役立たずと云う「役」に立っているじゃないですか・・理窟もここまでくれば,HERIKUTUですが、「這えば立て」の、親ごころでいえば、モウチョット・・です。(でも、猿が人間に進化した位の大変身が必要ですが・・)

●遊びをせんとや生まれけん・・(梁塵秘抄 今様)

提唱する「三分間イス禅」は、自分が「面白いか(楽しいか)」または、自分に

「得か、役立つか」・・の観点で、行っているとしたら、これは、まったく役立つものではありません。

自分にとって「役立たず」の、箸にも棒にもかからない、そんな三分間・・イス禅であればこそ、いずれは必ず、禅語でいう「無所得=無尽蔵」の世界が開けてくることになるでしょう。

イヤ、こんな功徳のありそうな言葉は必要ありません。

また、釈尊が言ったとか・・〇○宗のえらい?坊さんが言ったとか、経典や哲学書に書いてあるとか、尊敬する指導者が導いてくれた・・とか・・著作や漫画、スマホに救われた・・など、一切の価値観・・これは、自分が創ったものではありません。他の人の経験、知識ですから、参考にするだけで、後はこだわることなく捨ててしまいましょう。

通販で「私は●◆でこんなに痩せた」と、経験CMに釣られるような、坐禅や瞑想はおやめなさい。役立たないことであればこそ、釈尊は悟りを得られ、坐禅や瞑想が現代まで、続いているのです。生活手段や、利権教導の中に入った瞬間、真の禅・坐禅や瞑想は、真の行動を消滅します。だから、ひとりイス禅をすすめます。

(碧巌録の時代から、さらに千年分・・すさまじい知識・文化・・情報が私たちに押し寄せています。(二十四時間、すきまなく情報の電波だらけです。もし電波が筋になって見えたら、あまりの多さに、どうにかしてくれといいたくなることでしょう)

こんな過剰な情報は頭脳にとって整理しきれず、一度仕込んだ情報も捨てきれず、千年昔・・臨済のいった・・君の体(面前)から「一(いち)無位(むい・依)の真人(しんじん)」=何事もコピペしていない本当の私(真人)が、四六時中、出入りしているぞ・・認めない者は、今。すぐに看よ・・看よと迫る・・言葉が、虚しく響いてきます。

社会的情報、CM、知識が上積みされ、分別判断のペンキで塗装された頭脳には、自分の悩みまでが他人事のように思えてくる始末です。

この想いやこびり付いた執着のアカをそぎ落として、コピペでない真人(シンジン)を発見する行為・・こそが、三分間イス禅です。

例えはうまくありませんが、二、三十年も、イス禅を、おりおりに続ければ、垢(自我意識)や塗装(利得・見栄)もハゲ落ちてきて、だいぶ透明人間(真人)めいてくることでしょう。

注意すべきことは、もうこれ以上、誰にも、本にも、スマホにも、教導されたり、頼ったり、金を払ったりしないことです。

組織的な社会生活は、必ず利権の温床となる宿命にあります。

チョット何かの教えを乞うと、もう、落とし難い「執着」のアカが付きます。

チョット他に頼ると、まるで(情報・知識)の全面降伏の有様。まるで中毒患者の症状になってしまいます。

この私の奉魯愚も流し読みして、自分だけで、「三分間ひとりイス禅」・・密かに、そっと続けてください。

役立たず・・という「役め」がある・・それが坐禅=垢落しの役目です。

 

碧巌録 第六十九則 南泉一円相(なんせん いちえんそう)

【垂語】圓悟が垂示した。

禅者の心境は、なまじの覚悟で挑んでも、理解しがたく、堅くて歯もたたない。

その形は、黄河の氾濫に備えて、ドンと河岸に据え付けられた、巨大な鉄牛に例えられよう。(第三十八則 本則中 「祖師心印 状似鐵牛之機」と同義)

破れ衣をまとった修行の足りた禅者は、深山に小さな禅庵を建て、赤い囲炉裏の炭火に、一握りの白雪を振り舞いたような生活・・がベストでありましょう。

四方八方から敵に襲いかかられようと、いささかも動じることなく非凡に立ち向かえるのは、それはそれでよいとして・・文字、言句の葛藤に囚われないこととは・・はたして、どんなことか・・試みに挙す看よ。

   *垂示に云く、啗(たん)琢(たく)なきの処は、祖師の心印にして、

    かたち鐵牛(てつぎゅう)の機に似たり。

    荊棘林(けいきょく りん)を透(とお)ものは、

    衲僧家(のうそうけ)にして紅炉上一点の雪のごとし。

    平地上に七穿八穴(しちせん はっけつ)なることは

    則(すなわ)ち且(しばら)く止(お)く。

    夤縁(いんえん)に落ちざること、また作麼生(そもさん)

    試みに挙す看よ。

 

【本則】馬祖の弟子たち・・南泉(なんせん)と歸宗(きす)と麻谷(まこく)の、行脚(あんぎゃ)=若い修行時代の面白い話をしょう。

三人は、江西、馬祖山を出発して、はるばる長安の都、忠国師のもとを目指して旅だった。

その道なかばにさしかかって、一休みのおり、南泉は、路上に「一円相」を描いて云った。

「これについて、誰か真理に触れた一句=「一語」を云えるなら、約束通り長安まで行くことにするが、そうでないなら、テクテク遠い長安まで行くのは、もうごめんだ」

すると・・歸宗は、南泉の描いた地上の一円相の中に入って坐禅をしたのだった。

麻谷は、それを見て、早速、歸宗の前に行き、女性が観音様を拝するように、礼拝した。

二人が、そんな芝居じみたことをするので、南泉は「ソンナ事なら、もう長安行は止めた。ヤメダ」と云った。

歸宗「ここまで来て何を言うか。いったいどんな腹づもりで止めるのか」と詰め寄った。(結局、三人はトボトボ、遠路の旅を止めて、親方のいる馬祖山にもどった)

   *擧す。南泉(なんせん)、歸宗(きす)、麻谷(まこく)

    同じく去って、忠(ちゅう)国師(こくし)を礼拝せんとせり。

    中路(ちゅうろ)に至って、地上において、一圓相(いちえんそう)を書(えが)いて云く、

    「道(い)い得(え)ば即(すなわ)ち去(さ)らん」

    帰宗、円相の中において坐したれば、

    麻谷すなわち女人拝(にょにんはい)をなしたり。

    泉云く「恁麼(いんも)ならば則(すなわ)ち去(さ)らじ」

    帰宗云く「是れ、なんの心行(しんぎょう)ぞ」

 

【頌】楚の恭王の為に、樹上の白猿を狩りする最中射手の矢のことごとくを、白猿が手で振り払い阻止したので、弓の名人、太夫の養(よう)由基(ゆうき)が、その手こずらせた白猿を、不思議な矢で射止めたという・・故事にもとづく。

樹木をグルグル逃げ回るのを、誘導弾のように追いかけまわす由基の矢は、不思議にも、樹木をかいくぐって、グルグル旋回しながら(しかも、まっすぐに飛んで)的中したことになる。

禅界で知らぬ人無き、著名な忠国師の「一円相」は、まさしく白猿のような怪物だが、はたして、養由基のように、見事に射止めて、その正体を見届けた禅者がいたかどうか・・

彼ら三人は途中で長安行きをやめて、馬祖山に帰ったそうだが、ソリャ正解だ。

もともと曹渓(そうけい)、山猿の慧能(えのう)(焚き木拾いで生計を立てた六代目禅祖師)の手元には、本来「無一物」・・何もないのが取り柄だ。

だが、何もないところを、何もないまま見て回って、文化とやらの咲乱れるサマを、円相トヤラに映し込んで、お土産にしたらよかったものを・・・。

(どうも、手(て)・間(ま)=労力・時間を省くと、ろくなものにならないなぁ)

    *由基(ゆき)が箭(や)は猿を射たり。樹(き)を遶(めぐ)ること何ぞ、

    はなはだ直(ちょく)なりしぞ。

    千箇(せんこ)と萬箇(ばんこ)。これ誰か、かって的にあてしや。

    相よび、あい呼んでかえりなんイザ。

    曹渓(そうけい)路上(ろじょう)には登陟(とうちょく)することを休(や)めたり  

   (また云く)曹渓の道は坦平(たんへい)なるに、なんとしてか豋陟をやめたるぞ

 

【附記】この則は、馬祖道一の弟子、南泉普願(なんせんふがん 748~834)麻谷寶徹(まこくほうてつ 南泉と法系上の兄弟弟子)歸宗智常(きすちじょう=蘆山(ろさん)歸宗寺(きすじ)の三人が忠国師南陽慧忠 なんようけいちゅう)のいる長安(西京・千福寺)に行脚する道中の話だが、三名とも、まだ、馬祖山にいたる間なしの、諸国遍歴時代の青年修行者(二十五歳前後)であった。

自分たちの師、馬祖道一(ばそどうどういつ)の師すじにあたる、南嶽慧譲(なんがくえじょう)の兄弟弟子・・南陽慧忠が・・(この二人は六祖、大鑑慧能(たいかんえのう)を祖師とする)飛ぶ鳥をおとす勢いの粛宗皇帝の国師であることを知って、有名な「一円相」の元祖・家元の禅境話も聞きたし、さらに良いコネ、ツテがあれば名山の住持に昇進・・との、よからぬ動機もあり、いさんで馬祖山を旅立った道半ばの出来事だった

歸宗の「我は絶対の中心」にあり・・とする円相坐と、麻谷の茶目っ気たっぷりの観音礼拝の仕草に、真面目な南泉は、さぞかしガッカリしたことだろう。

この話は・・「いいえれば即ち去らん」とする意を領得できなかった二人の青年求道者の禅機上の遊戯を誘ってしまった南泉の失望話である。

  • 遊びをせんとや生まれけむ

   戯(たわ)ぶれせんとや生まれけむ

    遊ぶ子供の声きけば

     わが身さえこそゆるがるれ(平安期 梁塵秘抄・今様)

 

以降・・当奉魯愚は・・【jcom=ブロガリ⇒年末まで掲載終了】とシンクロして掲載しています。どうぞ、これからははてなブログ「お気に入り」に入れて、通読くだされば幸甚です。

 

◆禅者に・・君の名は?と尋ねられて・・  碧巌録第六十八則

碧巌録 第六十八則 仰山問三聖(きょうざん さんしょうにとう)(仰山汝什麼 きょうざん なんじのななんぞ)

 

【垂語】圓悟が坐下の求道者に垂示した。

およそ禅者は、天地をひっくり返し、虎や犀牛(さいぎゅう)を捕まえたり、龍か蛇かを識別したりする、溌溂(はつらつ)たる禅機を要する。

このような非凡な人物は、如何なる問いかけにも明確な応答ができ、どのような場合にも、臨機即応(りんきそくおう)の働きができる人である。。

さあて・・昔から今日まで、この禅門に、どんな禅者が、こんな活動をなしたものか・・その例をあげるから看よ。

    *天關(てんかん)をかかげ、地軸(ちじく)を翻し(ひるがえ)、虎兕(こじ)をとらえ、                                    

    龍蛇を弁ずるには、須く(すべから)是れ、

    この活驋驋(かつぱつぱつ)の漢にして、初めて句句(くく)相投(あいとう)じ、

    機機相応(ききあい)応ずるを得(う)べし。

    且(しばら)く従上来(じゅうじょうらい)、

    什麼人(なんびと)か合(まさ)に恁麼(いんも)なるべかりしぞ。請う擧す看よ。

 

【本則】相手の名前を知っていながら、その名を尋ねる奇妙な話を一つ。

仰山(きょうさん)慧寂(えじゃく)が三聖(さんしょう)慧然(えねん)に、あなたの名前は何ですか・・とたずねた。

三聖は、真面目に「慧寂です」と答えた。

仰山は「慧寂とは、そりゃ、わしの名だ」

三聖「それなら私の名は慧然です」

仰山はこれを聞くなり、腹を抱えて笑った・・と・・さ。

   *擧す。仰山(きょうざん)、三(さん)聖(しょう)に問う。

   「汝 名はなんぞ」聖云く「慧(え)寂(じゃく)

    仰山云く「慧寂はこれ我」

    聖云く「我が名は慧(え)然(ねん)

    仰山 呵呵大笑(かかたいしょう)せり。

 

【頌】三聖が自分の名を問われて、相手の名を答え、とがめられて、早速に自分の名を言い返す手際のよさ。まるで・・奪うも捨てるも、二つながらの自在の働きは、猛虎にうちまたがったような禅者といえよう。

三聖の答話を聞いた仰山、思わずの大笑いだが、その笑い声は風にのってどこかに消えたぞ。

さあて・・さて・・この笑い声、千年万年、何時までも天下の求道者の謎となり、寂寥の虎落(もがり)笛(ぶえ)となって、求道者にとりつくことであろう。

(仰山、大笑の落處=汝、真人は何処にありや・・)

   *雙収雙放(そうしゅうそうほう)なんたる宗ぞ。

    虎に騎(の)るには由来(ゆらい)絶功(ぜつこう)を要す。

    笑いやんで知らず、いずれの処にか去りしぞ。

    只(ただ)まさに千古悲風(せんこひふう)を動(どう)ずることになるべし。

 

【附記】相逢不相逢(あいおうて あわざる) 共語不知名(ともにかたりて なをしらず)(臨済

仰山慧寂(814~890)は、潙山霊祐の片腕として潙仰宗を創唱した穏健にして円熟の禅者である。

一方、三聖慧然(不詳)は臨済義玄の弟子。仰山、徳山、雪峰などと問答した記録があり、年齢的には、彼らより後輩であつたろうと推測します。

彼は北方禅、臨済(866寂)宗祖・・「赤肉団上(しゃくにくだんじょう=君の顔から出入する)一無位(むい)の真人(しんじん)」を看よ・・と迫る、将軍禅の鞭撻を受けた、禅機はつらつな禅者である。

臨済の弟子であり、彼の名は百も承知で、「無位=無依の真人」禅による生活をなす者・・の名をきく仰山。(実に辛辣な、禅境(地)を尋ねる問答です)

 

自分は「名づけようもなき無位の真人=禅(による生活)者である」・・これも百も承知で、仰山を名乗る三聖。

相逢うて、語るも互いの名を知らず・・と、禅機まるだしの三聖。

無位(依)とは、露(ろ)裸(ら)裸(ら)、赤灑灑(せき れいれい)、浄堂堂(じょうどうどう)と、この世で得た、あらゆるものをかなぐり捨てて、そのままに立つ(眞人)姿を言います。

臨済の「無位の真人」を、三聖に問うた仰山。

 

素っ裸で道を歩く訳にもいかず、衣をまとい、衣の名を「慧寂」として仰山の名を騙(かた)る三聖の答え。

「そりゃ、わし(仰山=真人)の名だ(お前さんの真人の名は何だ」と詰め寄る仰山。

あらゆる形骸を両忘して・・(ともに語りて名をしらず)答える三聖。

それを、「得たり」とばかり・・腹の底から大笑いする仰山。

 

虚栄・虚識に満ちた現代より、千年も昔の出来事の方が、はるかに、露堂々、明歴々・・スガスガしい生き方をしている・・と言えましょう。

 

この問答、重箱の隅をつつくような解説になりましたが、論理的に解説できる話ではありません。禅の問答は、どれをとっても、その人、それぞれの禅機(はたらき)禅境(地・・行い、心がけ)そのものだからです。

 その禅者の言動で、何か「気にさわる」・・「心惹かれること」が、導きとなって坐禅(禅境)を深めていってくれる・・はずです。

 

●碧巌の散策 第六十八回の歩記(あるき)である・・

 

Q 禅は、浄土宗などの宗教的区分で、「禅宗」と言われるのですか?・・(禅は宗教ですか?)

 

禅者であり佛教学者である鈴木大拙の・・「まず禅とは何かと云うことの決定」禅思想史研究 第二巻(岩波書店)・・何故に菩提達磨(ぼだいだるま)を禅の第一祖としたか・・の文中、大綱の一節を略述します。

「まず禅宗と云うが、この宗の字は、宗派の宗の義ではなく「楞伽経(りょうがきょう)」などに云う「宗通・説通」の区別をなすときの「宗」である。

ある意味で云えば、宗とは「證悟(さとり)の体験」そのものである。自覚聖智の作用である。説とはこれに反して、体験を概念化して人のために説破するか、あるいは智力特有の性質を発揮することである。

それ故、「楞伽」の心持でいえば、禅宗とは、「禅を宗(悟体験)する教え」・・との義である」

 

A=「宗」とは、悟りの体験そのもの・・をいいます。自覚して「禅により生きること」です。説とは、サトリ体験を概念化して、求道者のために教導、説破するか・・悟道者と衆生は、金石(きんせき)麗生(れいせい)にして別ならずの、一途な禅境地を任ずる・・の釈尊の教え・・との意味となります。

「禅」には、決して、欣求(ごんぐ)して済度(さいど)を願う・・宗教性・・は微塵(みじん)もありません。

 

*以前から、私の場合、禅録に記載されている「佛教・佛心、佛とは?」などの用語を、総て「禅」の一字に変えて、意訳しています。その方が、佛様・神様といわれる浄土宗系など「宗教」との誤解を避ける、最もよい方法だからです。禅は寺僧によって、長い間、保育・揺籃を得ましたが、禅=悟りは、求道者ひとり独りの覚醒と、その「禅による生活」=禅境(地)を深める行い・・です。

 

また、この碧巌録は、宗門第一の書と言われますが、圓悟の口述を、その弟子達が編纂、集大成したものであり、圓悟の【垂示(すいじ)】、【本則】、雪竇(せっちょう)の【頌(じゅ)の他に、圓悟の提唱、更に、本則・偈頌(げじゅ)に・・下語(あぎょ)、箸語(じゃくご・・後世代の禅者による異論、反論、講評、自説など)あり、自由闊達な見解(けんげ)が述べられています。

ただし、今回の「碧巌の散歩」では、圓悟の提唱や著語など、老婆親切でなされたアドバイスの数々も、意訳に枝葉が付きすぎて、大変に読みぐるしいので、全容が見定められない様子になりますから省きました。(いずれ数則だけ、加筆するつもりです)

公案も五十則を超えると、さすがの圓悟も、禅者の一悟・・手を変え品をかえての案内解説に疲れたのか、同義の文句を【垂示】で再三に述べています。

現代社会の趨勢(すうせい)の中の「禅」の・・これからでいえば、まずは【本則】の、登場する禅者の「禅機・禅境(地)」の言動に的を絞って、出来るだけ「露裸々(ろらら)、赤灑々(せきれいれい)」な意訳、紹介することが大事と考えます。(以上、お尋ねに答えて、追加)

 

私は、若い頃、盤珪が苦心努力して、念仏禅をした・・と書物で読みました。

しかし、尻が擦り切れて血が滲むほどに坐禅をしても悟達するに至らず、血痰をカベに吐いて、それがコロコロと転がり落ちるような死の寸前まで、公案禅に浸りこんでも、大覚できなかった・・との伝記を読んで、禅は欣求宗教ではない・・とハッキリと思いました。

多少、坐禅の真似事をしたからと言って、安心(アンジンと読みます)できません。

盤珪は、いよいよ自分が体力が衰えて、死期が近づいたのに気づいて坐亡(ざぼう=坐禅のまま死ぬこと)するべく、ヨロヨロと坐を組もうとした時・・「ヒョット」した拍子に、悩みのすべては「不生そのまま」で片づく・・と解かったそうです。

そしてそれ以来、看話・公案禅は、反古紙(ほごがみ)を有難がる問答禅であること。もう一つの曹洞宗、只管打坐(すかんたざ)は、枯木寒巌(こぼくかんがん)による枯れ木禅である・・として、庶民に「ただただ自分の中に、不生そのまま・・をみつけなさい」と語りかけています。

盤珪は、ひよっと体覚した「不生の一悟」をもって、欣求祈願しがちで、書物(知識)や寺僧、教導に頼りがちな人々に「執着しない、不生そのまま」であれと説いています。

かねてから云いつくしたことですが、禅は、自我意識を捨て尽くした「ドン詰まり」の「ドン詰まり」・・その一悟(語)を以って、禅による行い=生活をなす・・だけのこと・・です。

昔の人は、そうした、こだわりや執着心が無くなった状況、生活態度を、活きながら大死一番した・・といい、闇の世に、鳴かぬカラスの声を聴いた・・といい、天上天下唯我独尊といい、趙州無字を透過、見性した・・といったのです。

 

欧米で禅や東洋哲学の解説に、最も影響力をもつ人、アラン・ワッツ「ビート禅とスクェア禅と禅(阿部正雄訳)「講座 禅 第七巻」㈱筑摩書房・・文中に、大変、興味深い、言い得て妙の禅比較の例えがあります。

紹介しておきます。

「中略・・しかしながら、ビート禅とスクェア禅の両極の間の対立は、哲学的には大きな興味がある。それは、ヒンドゥ教徒のいわゆる猿の道と猫の道との間の、古くからの論争の、現代版であるから。

猫の場合は・・非常に猫にとって適切な例えであるが・・母猫が子猫たちを(口にくわえて)運ぶので、子猫たちは何の努力もいらない。これに反し猿の場合には、子猿は母親の髪の毛にしがみついていなければならないので、その道は困難である。

それでビート禅(猫禅)にとっては、サトリをえるため、また現在の自分以外の者になるため、何の努力も、何の修練も、何の人為的な骨折りもあってはならない。

しかしながら、スクェア禅(猿禅)にとっては、正式の老師のきびしい鉗槌(かんつい)のもとでの数年にわたる坐禅の修行なしには、真のサトリはありえない。

十七世紀の日本の偉大な禅匠たち、盤珪白隠は、おおよそ、この二つの行き方を代表している。そして、たまたま白隠の流れが勝ち抜き、今日の臨済禅の性格を決定したのであった。(以下省略)

 

「三分間ひとりイス禅」は、盤珪の「猫」禅に、時折、興味・関心のある公案をもって、注意・刺激や禅境を看る・・白隠の「猿」禅を加味した・・「ネコ猿禅」・・といってもよいでしょう。誰にも教えを乞わず、独り坐禅する者に、こうした、坐禅の形式、由来を尋ねることは、例え三分でも、かえって求道、集中の邪魔になることでしょう。

宇宙遊泳の二十一世紀の「禅」は、まずは手始めに、これぐらいの、宗教界や哲学的思考を脱臭した、気軽な坐禅がおすすめです。

三昧(さんまい)・・達道にいたる道筋はどうあれ、禅者は独り、何の価値もなき・・「禅による生活」=不生そのままの生活・・を行う人をいうのです。

【碧巌録 第六十八則 本則】は次回、掲載いたします。

 JCOM・ブルガリ=奉魯愚NO475-(Ⅰ)同文です。

 

 

人生元気の素・・禅の心・禅の話・・【碧巌の散策】第67回 

碧巌の散策 第六十七回の歩記(あるき)である

盤珪(ばんけい)の「不生(ふしょう)そのまま禅」について、教えてください盤珪の不生禅と白隠の看話禅の違いは何ですか・・)

 

私の禅、貴方の禅・・独り一人に「禅」=何の価値もない、しかし、天地いっぱいの「悟」境地がある・・そんな話をするには、禅が日本の鎌倉五山京都五山に、寺僧の教導のもと根を張って大樹となった歴史を知らねばなりません。

・・と言うのは一般論。

そんな事は、観光寺やPCで検索して、写真なり、記事なり見ればよろしかろう・・と思います。

大事なのは、不生「そのまま」の一真実をみれば、それで事足りる・・と喝破した盤珪(ばんけい)永琢(ようたく)(1622~1693)・・明眼の禅、その一語(悟)を知れば、私の提唱する・・「三分間ひとりイス禅」の、屋台骨=玄関が解かってもらえるでしょう。

盤珪には、語録文献がありません。弟子や門下生が聞き書きした出来事が、文字に残っているだけです。これは、釈尊の「仏教=悟りの教え」経典が、すべて「如是我聞(にょぜがもん)」=われ、かくのごとく、これを聞きたり・・の弟子たち・・聞き書きをまとめたもの・・と類似しています。

禅は、言葉や文字で表現できない、佛教経典とは別の教え・・を忠実に踏襲した、庶民(人と人)、個の人生問題である・・との立場で、ただ一語「不生そのまま」で済みますわいの・・で、悩みを料理して、おいしい食事にしてみせました。

例えば、短気持ちですぐ「カッ」となる人には、ヒョットして起こる短気は、生まれつきの短気持ちではない。(原因と結果の出来事にすぎない)

まるで、悩みが雲の如く湧き出ることになっても、「不生」の心持であれば、すぐに青空が見えてくる・・と、「不生そのまま=禅による生活」を説きました。

公案を師家のもと僧堂の坐禅で透過しようとする「看話(かんわ)禅(ぜん)」・・を、古本を読みあさるような、役立たずなことをする暇があれば、ただちに「不生そのまま」を獲得すればよい・・として、温室栽培の看話禅を否定して、実戦指導しています。

当時、盤珪ほど、生死、妄想、欲気、徳行について悩み抜き、禅達の師を訪ねて行脚し、念仏禅や、欣求禅など、いろんな体験学習した人はおりません。

死ぬ一歩手前まで坐禅に苦しんで、「ひょっと」して・・悩む一切のことは「不生」でかたづく・・と気づいた・・と語っています。

盤珪永琢の生涯は、岩波書店鈴木大拙「禅思想史研究」四巻中、第一巻全編に「盤珪の不生禅」として、とりあげてあり、約三十年前、購入して読んだときは、これを破いて食べてしまえば、身に着かないか・・と真剣に思いました。

 

佛教学者であり、禅者でもある鈴木大拙が、達磨から慧能にいたる第二巻・・臨済の基本思想 第三巻・・白隠公案論、禅と念仏の心理学的基礎 計、第四巻にいたる、その初刊に、盤珪一冊、まるごと紹介する所以(ゆえん)・・その深い思い入れに、どうにか馬翁(馬齢)をかさねて、しみじみとした感慨を覚えます。

赤線を引いたり、折ったり、シールしたり・・書き込みしたり・・ひどく乱雑に読了しましたが、私の骨になっている禅者が盤珪さんです。

今回の第六十七則・・は、テーブルをコツンと叩いて、「禅は此処から入れ」の様子は、盤珪「不生そのまま」禅・・「そのまま不生」で事済むことでしょう。

「エッ?えっ?・・?」と疑義すれば、「陛下、とっくの昔、禅の解説、終わりましたよ」となってしまいます。   

 

碧巌録 第六十七則 傅大士経講(ふたいし きょうを こうず)

 【垂示】ありません。

 【本則】仏教に帰依していた梁の武帝が、「金剛般若波羅蜜多経」の講釈をしてもらおうと、誌公の紹介で、傅大士(497~?)を招待した。

呼ばれた傅大師は講座に上がると、手にした笏(しゃく)で、コツンとテーブルを一打して、サッサと講座から降り去ってしまった。

武帝は、禅のカナメといわれる金剛経・・解かり易い話を聞きたいのに、いったいどうなったのか・・愕然(がくぜん)とした。(この「コツン」・・最も親切、解かりやすい・・禅による行い・・なのに、PC持って右往左往の現代人と変わらず、サッパリ訳の解からず屋、武帝である)

誌公が茫然(ぼうぜん)、模糊(もこ)としている武帝に「陛下、金剛経の神髄、理解なさいましたか」と尋ねると、武帝は「彼の行ないが一向に解せない」と素直に答えた。

誌公は、同じくキョトンとしている居並ぶ百官たちに「サアサ・・大士の講演はモウ終わりました。これにて閉会いたします」と、その場を取り仕切った。

 

 *擧す。梁の武帝、傅大士に、金剛経を講ぜんことを請(こ)いたり。

  大士、すなわち座上において、案(あん)を揮(う)つこと一下(いちげ)して、

  すなわち下座(げざ)せり。

  武帝愕然(がくぜん)

  誌公(しこう)問う「陛下、また會(え)せりや」

  帝云く「不會(ふえ)

  誌公云く「大士は講(こう)経(きょう)をおわりたるなり」

 

【頌】静寂と安心に満ちた禅庵に居れば良いものを、梁武帝の首都、金陵(現南京)まで、わざわざ出かけて御前講義をやるとは、傅大士の俗臭、どうかと思いますね。もし、あの場で、仙人じみた誌公が、閉会宣言をしてくれなかったら、達磨の二の舞。(碧巌録、第一則 武帝問達磨=聖諦第一義=廓然無聖

自尊心や野心のカタマリのような武帝と悶着が起こって、挨拶もせずコソコソ都を逃げ出す羽目になったことだろう・・テ。

  *雙林(そうりん)に向かってこの身を寄せ(よ)ずして、

  かえって梁土(りょうど)において塵埃(じんあい)をひけり。

  當時(とうじ)、誌公老を得ざりしならんには、また是れ栖栖(せいせい)として   

  国を去りし人なりしならん。

 

【附記】誌公(寶誌 不詳)住所不定、裸足にてどこでも横行した。頭髪モジャモジャの道者風態。禅観、佛理を語ること、声聞(しょうもん)羅漢(らかん))以上といわれた。堂々と宮中に入り、武帝の庇護のもと、仙人の如き、祖師禅の前駆者的な禅者に例えられる。

当時、宮廷では、盛んに佛教経典の解釈、講義が行われていて、その引用の一番は「維摩経」「涅槃経」「金剛経」などであった。(・・と、鈴木大拙は禅思想史 第三巻で記述)

とまれ、中国・禅の創世期(初代・達磨から六祖・慧能にいたる)は、欣求的佛教にコンクリされてきた中にあり、無功徳、無心の禅行を、直ちに見せつけられても、チグハグ差は避けがたいことだった。

禅のはじめは・・達磨の「不識(しらず)」と、この「コツンと机を叩く」ことからはじまった・・としておきます。それが「純禅」そのまま・・というものです。

 

◆米国発瞑想法「マインドフルネス」と坐禅の違いを教えてください・・

産経新聞の夕刊(9/20)ストレスを減らし、感情をコントロール・・瞑想で非行再発防げ・・女子少年院で導入・・の記事、私も見ましたよ。(以下記事抜粋)

眼を閉じ、椅子に坐り、後ろ手にして、その手に小さなヌイグルミやフィギュアを持ち、手(触覚)のみに集中させるプログラムとのことだ。

これは1979年、米マサチューセッツ大のジョン・カバットジン名誉教授が仏教の瞑想法を応用して開発した。「今、この瞬間に意識を向けること」や「気づき」といわれる「呼吸瞑想」ゆっくり足の感覚を確かめながら歩く「歩行瞑想」など、一つことに集中するのは、ストレスの低減や、感情衝動のコントロールに効果があるとされる。米、グーグルやアップル、金融大手などの他、スポーツ界でも、集中力UPが検証されており、脳科学の研究も始まっている・・そうです。

良い事ですね。

日本では、昔から、写経とか、書道とか、茶華道弓道、柔剣道など、瞑想以外に、「道」といわれる心・技・体の修練があります。職人や匠人(たくみ)の伝統的な作品は、すべて、この集中力が昇華したものだと考えます。

その根元というか、行いの素の「坐禅」があるのです。

ですから瞑想法など、人から教えられ、学んで行う、心身修行・・苦行ではなく、出来るだけ、リラックスして、楽しく面白く、瞑想オタクも結構・・続けてください。

そして、その上で、宗教でも、哲学でも、倫理でも、医学でも、解決のつかない「人生への問い=真人(しんじん)=真実の人間とは何か?」に突き当ったら、そこからが、貴方ひとりだけが一人で行う、誰にも学べない、教えられない三分間「坐禅」です。

 

瞑想は、姿勢を正して目を閉じますが、坐禅は、眼を半眼にして行います。

そして、ひとりイス禅は「机をコツン」ここから入れ・・のアドバイスだけ。

フト、人生に寂寥(せきりょう)を感じられたら、坐禅なさったらよろしかろうと、お奨めします。この碧巌録・第一則にもどってください。

 

*初めての移転先投稿です。要領をえず、見苦しいこと・・お許しください。

次回、碧巌の散歩 第六十七回で・・JCOM奉魯愚(ブログ・ブロガリは、明年一月に終了となりますので)この12月末まで移転=当奉魯愚に併行して記載します。

予定では、1週間、2回(散歩のEssay・本則)百則掲載。

これまでの則は、また別の折に書き直して・・と思い、インポートいたしません。

*お奨めする「三分間ひとりイス禅」は、この・・禅の最重要禅語録「碧巌集」ですら、余計な知識として、昔、焚書された経歴がありますから、参考に読み散らして忘れよ・・とする次第です。ただ、納得できない「疑団」だけは、坐禅の集中の縁(よすが)として、拈弄(ねんろう)なさることです。