◆如何なるか 禅? 石頭「石コロ」

【禅者の一語】碧巌の歩記(あるき)NO20  

◆求道者 問う「如何なるか是れ禅」

・・石頭云く「碌磚(ろくせん・石コロ、瓦)」

      碧巌録 第二十則 翠黴禪板(すいび ぜんぱん) 

                   龍牙再来無意(りゅうが さいらい いなし)

【垂示】圓悟が、座下の求道者に語る前置き話。

「禅ニヨル生活」は、釈尊坐禅から、中国へ渡海した達磨に、そして、日本の一休さん良寛さんにだけ伝燈された訳ではない。何も人間に限らず、河原に転がっているタクワン石や風にそよぐ稲穂の1本にも・・いや、全宇宙の満ち満ちた有り様に露堂々(隠さず)に独露身(ありのまま)を見せているのだ。

このことに気づかない求道者は、アチコチ行脚して、先達の師を求め、語録を読み漁りして、迷いに迷うことになる。

(最近、欧米人がZENを求めて、日本に来ることが多くなったが、純禅は名所旧跡の寺僧の元から、とっくの昔、消え失せてしまった。今は鈴木大拙(禅者・佛教学者)の英訳の著作を読むか・・千年前の無門関や碧巌録など禅語録を師として・・)

問答に生けるが如く、活手腕の禅者たちの振る舞いを挙げるから、試みに看るがよい。

    【垂示】垂示に云く、

     堆山積嶽(たいざんせきがく)撞墻磕壁(とうしょかいへき)なるに

     佇思停機(ちょしていき)するは、一場の苦屈(くくつ)なり。

     あるいは この漢あり。出で来って大海を掀翻(きんぽん)し、

     須弥を踢倒(てきとう)し、白雲を喝破(かっぱ)し、虚空を打破し、

     直下(じきげ)に一機一境に向かって、天下の人の舌頭を坐断せば、

     汝が近傍(きんぼう)する處ならん。

     しばらく道え、従上来(じゅうじょうらい)

     これ什麼人(なんびと)か曾って恁麼(いんも)になせしぞ。

     試みに挙す看よ。

【本則】若い竜牙居遁(りゅうげ いとん)は行脚に出た。

最初、翠黴無学(すいび むがく)に問いかけた。

「如何なるか 祖師西来の意」(達磨さんがインドから中国に来た目的は?・・ZENとは何か?の意味)

その時、翠黴は坐禅していたが、龍牙の問いに答えたのか、別のことか・・「チョット、そこの禅板(疲れた時の脇息)を取ってくれんか」と頼んだ。龍牙が取って渡すと、いきなりピシャッと頬を打った。

龍牙「私を打つのは構いませんが、要するに祖師西来の意は無いのです」と言い放って立ち去る龍牙を翠黴は無言で見送った。

續いて彼は、臨済を尋ねて再び、問う。

「祖師西来の意 如何」

臨済の一喝は、三日間は耳が聞こえなかったと云われる大喝だが、この時は、ミミズ(土竜)を見た虎の如く、彼の問いを意にも介さず「そこにある円座(坐禅用)を取ってくれんか」と云った。

龍牙が円座を取って渡すやいなや、臨済は、間髪を入れず、ピシりと彼の頬を打った。

龍牙「打つなら打つに任せます。ただ祖師西来意は無いのです」

    【本則】挙す。龍牙(りゅうげ)翠黴(すいび)に問う。

       「如何なるか 是れ祖師 西来(せいらい)の意」

        微云く「我がために禅板(ぜんぱん)をすごし来れ」  

        牙、禅板を過(すご)して翠黴に與(あた)う。

        微 接得(せっとく)して すなわち打つ。

        牙云く「打つことは即ち打つに任すも、要するに且(か)つ祖師西来の意はなし」

        牙また臨済に問う「如何なるか是れ祖師西来の意」

        済云く「我がために蒲団(ふとん)をすごし来れ」

        牙 蒲団をとり臨済に過與(かよ)す。

        済 接得して便(すなわち)打つ。

        牙云く「打つことは即ち打つに任すも、

        要するに且つ、祖師西来の意はなし」

【頌】龍牙山の龍には牙も爪もないようだ。せっかく翠黴が禅板を要求し、また臨済が座布団を求めて・・「坐久成労(ざきゅうじょうろう)」の禅・禅ニヨル生活(行い)そのものを実行しているのに、これを奪い取らず、馬鹿正直に、そっくりソノママ渡ししてしまった。そのお礼が頬への一打である。

エエイ!龍牙のボンボンぶりが口惜しいから、もうヒトコト添えてやろう。ワシ(雪賓重顯)なら禅板だろうが、円座だろうが、寄こせと言われたら、決して渡してなるものか。有難く(会難く)もらって帰るだけだ。

これは六祖(大鑑)慧能・・たしか あ奴は、焚き木拾いの米つき道者。禅者らしく振舞いたくて、それらしい道具立てを欲しがっていたようだからな。

「ダールマさんがコーロンだ!」・・

「だるまさんがころんだ」

「あゝ夕焼け空が真っ赤っか・・ミンナミンナ帰えろカナー」

  【頌】龍牙山裏(りゅうげさんり)の龍には眼(まなこ)なし。

     死水何ぞ曾って古風を振るわん。禅板 蒲団用(も)ちうること能わず。 

     ただ まさに分付(ぶんぷ)して盧公(ろこう)に與たうべし。

     (この老漢、また未だ勦絶(そうぜつ)することを得ず。また一頌をなす)

     盧公に付し了(おわ)るも また何ぞよらん。

     坐椅(ざい)して まさに祖燈(そとう)を継がんとすることを休したるなり。

     暮雲(ぼうん)の帰って未だ合せざるに対するに堪えたり。

     遠山には限りなき碧層層(みどり そうそう)

【附記】登場人物・・

翠黴無学(詳細不明・六祖慧能から五代目。唐 玄宗皇帝〈739~〉の頃 生まれ、憲宗皇帝(819~)の頃、亡くなった丹霞天然の弟子。

臨済義玄(?~867)臨済宗開祖。6祖に継ぐ6代目。

龍牙居遁(835~923)6祖から7代目。これは彼の20才頃の北方地方、行脚放浪の時の話。達磨西来の意図は無い・・との覚真にコダワリ続ける一途さをどう滅却させられるか・・後、南方の師、洞山良价(806~869)に「如何なるか 是 祖師西来意」と問うて、洞山「洞水の逆流せんを待って即ち汝に向かって道(い)わむ」。龍牙はこの一語によって忽然と省悟した。以降8年随侍。嗣法した。

 

青原門下 湖南の石頭希遷(699~790)本分の事をもって終始し、禅機作略をもちうることがなかった。当時の南嶽門下 江西の馬祖道一(709~788)の言葉に「石頭の路 滑らかなり」とある。この二門より後の曹洞・臨済二宗が展開する。禅の伝授、先達の禅定精進を論じない石頭の、求道者の舌頭を坐断する問答がある。

求道者問う「如何なるか是 解脱」・・石頭「誰か汝を縛(ばく)する」

求道者問う「如何なるか是 浄土」・・石頭「誰か汝を垢(けが)す」

求道者問う「如何なるか是 涅槃(ねはん)」・・石頭「誰か生死をもって汝に與(あた)うる」

 

坐久成労・・碧巌録17則「香林坐久成労」に詳しく記述済。祖師西来の理由は・・ダルマさん、暑い天竺から逃げ出して、涼しい嵩山(少林寺)で足腰しびれが切れるほど坐禅したくて、やって来た訳サ・・の意。

 

 

◆カラシ蓮根は実にうまいよ!それに熱燗!

【禅者の一語】碧巌の歩記(あるき)NO21

◆12月9日 補足追記 

12月1日から8日までの1週間は、釈尊が悟りを開かれた日として、これを1日間とみなし、臨済僧堂では「雲水の命取り」といわれる、ぶっ続け坐禅と師家独参の修行「蠟八大接心」がある。

釈尊が6年苦行の後、菩提樹下で端坐、夜明けの明星を看て、正覚を成じた由来を機しての接心会だが、食事と用便を除いて坐禅三昧。眠るのは午前3時までの、僅か3時間の坐睡のみ。雲水が、これほど激しく公案と向き合い自分と戦う姿は、まず修行中、無いといえよう。されば、本日の鶏鳴を迎え、熱い梅干し茶をいただく心持ちは、年老いても忘れ難いと云う。

禅は宗教の元という意味で禅宗といいます。宗派のことではありません。例え僧堂で何十人の雲水が、悪戦苦闘して正覚を求めても、坐禅、独参しての結果、得られるものではありません。

坐禅釈尊、達磨、先達の禅者のとおり、たった独りで行うことが大事です。

無理なく自然体で(現代人は)イス坐禅たったの3分間ぐらいの・・悟りなどの功徳や見返りを求めることなく・・役立たずの坐禅を、おりおりに繰り返すだけです。

時に、この・・はてなブログ 禅者の一語(碧巌録・意訳)や、禅のパスポート(無門関・素玄居士提唱、復刻意訳)、あるいは 羅漢と真珠(禅の心、禅の話)から、ご自分の禅境(地)を確かめられる道標になさって、あせらず、たゆまず、独り坐禅を・・のんびり・・お続けになってください。

ただ、注意は、決して、仲間づくりはなさらないこと。

独りポッチ、寂寥の坐禅であることです。

座禅と書かず「坐禅」と書いてください。

 碧巌録 第二十一則 智門 蓮華荷葉(ちもん れんげかよう)

【垂示】圓悟が座下の求道者に垂示した。

昔は、門前に旗や幟(のぼり)をたて鐘や太鼓を叩いて、人集めして仰々しく説法をしたというが、今時は流行らない。

肩の荷をおろして、ヤレヤレ大往生もわるくないけれど、ソリャ独善修行だ。

ここに挙げる智門の公案を、素直にわかる者なら、一を聞いて三を識る位の駆出し禅者といえよう。

だが、達者な人とはとうてい言えぬ。古人の逸話に耳を傾けよ。

  【垂示】垂示に云く、法幢(ほうとう)を建て宗旨を立(りっ)するは

   (これ)錦上に花をしくなり。

   籠頭(ろうとう)を脱し、角駄(かくだ)を卸(おろ)すは

   (これ)太平の時節なり。

   あるいは もし格外の句を辨得(べんとく)せば

   挙一明三(こいつみょうさん)ならん。

   それ或いは未だ然(しか)らざれば、

   舊(ふる)きによって、伏して処分を聴け。

【本則】蓮の葉と花の話である。

求道者が智門に尋ねた。

「蓮の花が、まだ水上に花を咲かせていない時ナントいいますか」

智門「蓮の花」

求道者「では水上に出て、見事な花を咲かせた時は・・?」

智門「葉っぱとでも呼んでおけ」 

     【本則】挙す。僧 智門に問う。

      「蓮華(れんげ)いまだ水より出でざる時は如何(いかん)」

       智門云く「蓮華」

       僧云く「水より出(い)し後(のち)は如何」

       門云く「荷葉(かよう)」

【頌】ハスの花が、水中にあれば何と呼ぶか・・伝灯録に、この種の問答が沢山、記録されている。

難しくいえば「宇宙の本質と現象」「無明と佛性」について、智門(禅者)に問われた幕間芝居だが、食えたシロモノではない。

千年前も、現代も、こうした求道者ぶった狐疑の連中がウロツイテいたようだ。

蓮根を泥池の中から掘り出して、辛子蓮根に仕立ててから問うて来たまえ。

   【頌】蓮華と荷葉を君に報じて知らしむ。水を出でればいかん。

      (水を出)でざる時は、江北,江南、王老に問え。

      一狐うたがい了(おわ)って 一狐疑(うたが)う。

附記】籠頭(ろうとう)を脱し、角駄(かくだ)を卸(おろ)す・・馬の口嵌(草を食べさせない道具)を外し、馬の背に分けて載せる四角の荷駄を下ろすこと。

智門光祚(ちもん こうそ 960頃~1030年代)雪賓重顯(980~1052百則頌古)の師。

 

 

◆コブラに噛まれた【毒消し】は要らんかねぇ・・

【禅者の一語】碧巌の歩記(あるき)NO22  

 碧巌録 第二十二則 雪峰鼈鼻蛇(せつぽう べつびじゃ)

【垂示】例によって圓悟の前おき話・・

宇宙の「宇」は無限(∞)の空間を表わし、「宙」は無限(∞)の時間を表わす。だから、宇宙の境界は無いのだが、それは理論・哲学から言うことで、夜空の星々の輝きを見ると、人が不思議に生かされてあるのを感ぜずにはおれない。

あえて言えば、人は宇宙の為に存在している訳でもないし、人の為に宇宙がある訳でもない。だから、文字通り個個・此処(ココ)に唯我独尊(遺伝子はみな違う)金石麗生(純金も路傍の石コロもそれぞれに麗しく生じている)を自覚して「禅による生活」を行いたいものであるが・・

サテサテ・・このような禅境(地)にいたる禅者は、イッタイ何処の誰であろうか。南山の毒蛇(コブラ)話を看るがよい。

  【垂示】垂示に云く、大方は外(ほか)なく、細きこと隣虚(りんこ)のごとし。

      擒縦(きんじゅう)は他にあらず、巻舒(かんじょ)は我にあり。

      かならず粘(ねん)をとき、縛(ばく)をさらん去らんと欲せば、

      直にすべからく迹(あと)をけずり、聲をのみ、

      人々要津(ようじん)を坐断して、

      箇々 壁立(へきりゅう)千仞(せんじん)なるべし。

      しばらく道え、これ什麼人(なんびと)の境涯ぞ。

      試みに挙す看よ。

【本則】雪峰義存が求道者に言った。

「この(雪峰)山に恐ろしくも珍しい毒蛇が現れた。お前たち行って看てきなさい」

弟子の長慶「実は、そのコブラ話で皆、戦々恐々です」と答えた。

別の求道者が玄沙に「どうです・・あなたもコブラ見物に行かれては・・」と話をもちかけると、玄沙は「剛毅(ごうき)な長慶さんなら、危険きわまりない冒険をしましょうが、私はご免です」

求道者「どうしてですか」玄沙「毒蛇の毒気に当てられて死にたくはありません」と答えた。

師が、さらに求道者達にケシカケタ時、傍らに控えていた雲門が太曲がりな杖を、ガラリと投げ出して「ホラ・・此処に毒蛇がいるぞ」とやってみせた。

  【本則】雪峰 示衆して云く「南山に一條の鼈鼻蛇あり、

   汝ら諸人 せつに すべからく好看(こうかん)すべし」

   長慶云く「今日 堂中には大に人の喪心失命(そうしんしつみょう)するあり」

   僧 玄沙に挙示す。

   沙云く「すべからく これ稜兄(りょうけい)にして はじめて得(う)べし。

   しかも かくの如くなりといえども、我は即ち不什麼(ふいんも)」

   僧云く「和尚 作麼生(そもさん)」

   玄沙云く「南山を用いて なにかせん」

   雲門 拄杖をもって 雪峰の面前に攙向(ざんこう)怕勢(はせい)をなしたり。

【頌】雪峰山は観光客の寄り付けない、とても高峻な山である。

それでも求道心の篤い参禅の輩は、コブラの一匹でも退治する気迫をもって山に登る。

 このコブラ出現の事件は、弟子の長慶にせよ、玄沙にせよ、怖気づいてしまって話にならない。

そこへゆくと雲門はどうであろう。

見上げた真の禅者といえよう。

雲門は、コブラが天竺(インド)でなら いざ知らず、いかに南方とはいえ中国に出現するのは、極めてまれな出来事と承知して・・「ホラ出た!」とばかりに、太く曲がった腕程の杖を、法宴の場に放擲(ほうてき・投げ出)して見せたのである。

いきなり「ガッッ」と牙をむきだしたコブラの出現・・その非凡な行動は、禅機ハツラツとしている。そして、誰も手だし出来なかったコブラは悠々と退散。姿をくらました。

後に、雪賓いわく「サア、このコブラ、イマ、この雪賓山に隠れているが、見たければ見せてやる。ただしヒトカミされたら、即、お陀仏だぞ・・ソレ危ないぞ!」とばかりに・・雪賓重顯は声高に云った・・看 脚下!

  【頌】象骨巌(ぞうこつがん・雪峰山の意)高くして人はいたらず。

   到るものは すべからく是れ蛇を弄する手なるべし。

   稜師も備師も いかんともせず。喪心失命 多少あり。

   韶陽(じょうよう)かさねて草を撥(はら)うも

   南北東西たずねるに處なきを知る。

   忽然(こつねん)として突出す拄杖頭。

   雪峰に抛対(ほうたい)して大(おおい)に口をはる。

   大に口をはる閃電(せんでん)に同じく、

   眉毛を剔起(てっき)すれば 又見えず。

   如今(にょこん)かくれて乳峰の前にあり。

   来たる者は、一々 方便を看よ。

    (師 高聲(こわだか)に喝して云く 看脚下)

 附記】この話は 雪峰(山)義存五十七才。弟子の玄沙師備四十五才。長慶慧稜二十五才。雲門文偃二十七才頃・・中国 唐代(878年頃)の、純禅に生きる「禅ニヨル生活」のひととき・・禅者たちが、暇を持て余し、互いの禅機・禅境を見合う遊びの一刻、寓話である・・ともいえよう。

当時、雪峰山には求道僧千五百人とあるが、禅機ハツラツとした者は、雲門ただ一人。禅を信仰欣求したり、分別、理屈で解読できると思い込んでいる学僧ばかりだった。

この猛毒コブラ・・蛇と云うのは例え話で、実態は、般若{空}のことである。

現代の寺僧や学人も同様に・・坐禅集中して、公案「隻手音声」を見性するといっても、このコブラ公案を透過するといっても、せいぜい師から両手でひっぱ叩かれたり、コブラのヒトカミで毒殺されてしまうだけの・・徹しがたい「空=無」の一字である。禅の正体を、たかだか数年の雲水・僧堂生活で、印可取得できると大誤解して思っているのである。でなければ、禅を卒業証書のように取得できるものと勘違いしているに相違ない。

あわてるな・・焦るな・・といいたい。

もっと肩の力を抜いて、独り3分ポッチの坐禅を、2~30年、寝起きの合間に続ければ・・独り一人に備わったZENが、自然に目覚めて自覚してくれるハズであるのに・・。

 この禅者の一語(碧巌録意訳)の他に、はてなブログ 禅のパスポート(無門関素玄居士提唱の復刻、意訳)を、参考に読まれて、コブラ(禅毒)の毒消しを身につけられるよう・・よく脚下照顧してください。

 

碧巌の歩記(あるき)NO23 鳥飛ぶに倦んで還えるを知る・・

【禅者の一語】

◆雲 無心ニシテ而 岫(しゅう)ヲ出ズ・・雲無心而出岫

 鳥 飛ブニ倦(う)ンデ而 還ルヲ知ル・・鳥倦飛而知還

                                                  陶淵明 帰去来の辞) 

碧巌録 第二十三則 保福長慶遊山次(ほふく ちょうけい ゆさんじ)

【垂示】物体の真贋(分析)は、金ナラバ試金石で・・剣は刃に吹毛すれば切れ具合でスグにわかる。水の深さは棒を立てれば測ることができる・・それでは禅者の禅機禅境・その深浅ぶりは、ピチピチ跳ね回るアユを捕まえるようで、ナカナカ難しい。

さあ、この遊山問答、どのように天秤にかけるか、道うてみよ。

   【垂示】垂示に云く、玉は火をもって試み、金は石をもって試み、

       剣は毛をもって試み、水は杖をもって試ろむ。

       衲僧(のうそう)門下に至っては、一言一句、一機一境、

       一出一入、一挨(あい)一拶(さつ)において

       深浅(しんせん)を見んことを要し、

       向背(こうはい)を見んことを要す。

       しばらく道え、なにをもってか試みん。請う挙す看よ。

【本則】雪峰義存(せっぽう ぎそん822~908が70歳の)891年頃・・その弟子達三名・・長慶慧稜(ちょうけい けいりょう38才頃)鏡清道怤(きょうせい どうふ24才頃)保福従展(ほふく じゅうてん22才頃)の、雪峰山、禅院での遊山問答である。

後の代になって雪賓重顯(せっちょう じゅうけん)が著語(ちゃくご 意見)している。

 

ある秋の日、保福と長慶が連れ立って、雪峰山頂を散策した。

保福がフト足を止めて「どうですか・・此処こそ(比較すべきもない真理無二の)妙峰山頂でしょう・・」と、善財童子を気取って云った。

「ナルホド、それはそうだが・・」長慶は肯定した・・が、

「まだまだダ。惜しいことだナ」とつぶやいた。

(これに雪賓が意見した・・散歩しただけで何が解ろうか。妙峰山頂は百万年たっても発見登頂は難しい。出来ないとは言わないがホンの少数だネ)

長慶に一本取られた保福、名誉挽回をはかるべく、兄弟子の鏡清に 自分の境地、どんなものだ・・と尋ねた。

すると鏡清、ほめるどころか「さすが長慶先輩、見識が高い。

よくぞ叱ってくれた。ただコレカラ、ここも観光寺になってしまって拝観者が押し寄せるぞ。困ったモンだ」とつぶやいた。

 【本則】挙す。保福と長慶と遊山せし時、福、手をもって指さして云く

     「ただ這裏(しゃり)すなわち これ妙峰頂(みょうほうちょう)」

     慶云く「是はすなわち是なり。可惜許(かしゃくこ)」

     (雪賓せっちょう 著語ちゃくご して云く

      「今日この漢と共に遊山して この何をかはかる」また云く

      「千百年 後(ご)なしとはいわず、ただこれすくなからん」)

     後に鏡清(きょうせい)に挙示(こじ)す。

     清云く「もしこれ孫公(そんこう)にあらざりしならば、

         すなわち髑髏(どくろ)の野に あまねきを見しならん」

【頌】ナント妙峰山頂は草ボウボウ。

誰にもココが天竺(インド)勝楽国、妙峰山とはわかるまい。

たとえ保福が雪峰山を妙峰山にダブらせたところで、ソンナ安っぽい禅(境地)に振り向く者はいない。

サテサテ・・後世・・解かったフリで受け売りコピペする「禅者モドキ」が、ウジ虫の如く湧き出てくるだろう。

たまったもんじゃない。

    【頌】妙峰孤頂(みょうほうこちょう)は草離離(くさりり)。

       拈得分明(ねんとくぶんみょう)にして誰にか付與(ふよ)せん。

       これ孫公の端的(たんてき)を辨(べん)ずるにあらざれば、

       髑髏(どくろ)著地(ちゃくち)幾人(いくにん)か知らん。

 附記】趙州従諗は、雪峰の先輩に当るが・・同時期の120才まで生きた禅者である。あるいは雪峰門下の公案(逸話)に見解(けんげ)を求められたことがあったであろう・・と推測される。

求道者から「如何なるか 是れ妙峰頂」と問われた事がある。

趙州は「汝に(この話)応えず」と・・答えて、堅く口を噤(つぐ)んだそうだ。

 

碧巌の歩記 NO24 貴方なら、この牡牛VS牝牛問答・・どんな値打ちをつけますか?9/16附記改訂

【禅者の一語】  巌録 第二十四則 鐵磨老牸牛(てつま ろうじぎゅう)

                       鐵磨到潙山(てつま いさんにいたる)

【垂示】圓悟が座下の求道者に垂示した。

高い山から眼下を見たり、深い海底に端坐して、世界を支配している者には悪魔や外道、仏様だって、その境涯は窺がえない。例え流星のような素早い眼識があろうと、雷電の如き手腕の輩であろうと・・こんな唯我独尊の境涯に安住している達道の禅者の前に出たら、チャント砂中に卵を産み隠した大亀が、足跡を尻尾で佩いて消し去ったにしても、尻尾の跡で卵を見つけるように、ヤスヤスと正体を見抜けるのである。

当時、坊さんながら、年老いた牡牛のごとく畑に出て働いていた潙山の霊裕老師78才頃(771~853)と、その山麓に住した、お尻が臼のように大きくてガンコで世話焼きの、年寄り牝牛の如き劉鐵磨(りゅうてつま)の山小屋芝居を看よ。

  【垂示】垂示に云く 高々たる峰頂に立てば 魔外(まげ)も知ること能わず、

   深々たる海底に行けば、佛眼もうかがえども見えず、

   たとえ眼(まなこ)は流星に似、機は掣電(せいでん)の如くなるも、

   未だ霊亀(れいき)の尾を曳くことを免(まぬが)れず、

   這裡(しゃり)に到って まさにいかんがすべき。

   試みに挙す看よ。

【本則】ある日の夕方。畑に出て帰って一休みしていた潙山霊裕のもとに、世話焼きの劉鐵磨がやって来た・

潙山「おゝ・・老いぼれ牝牛か・・よく来たなぁ」

鐵磨「近日、五台山で宣宗皇帝ご即位、仏教復興の大法会があるそうですが 行かれますか(行かれるなら)同行したいものです」

すると潙山和尚、今日は畑仕事でひどく疲れた・・様子で、ゴロリとよこになり寝てしまった。

劉鐵磨は、サヨウデ ゴザイマスカ・・の風で、すぐさま帰ってしまった。

        【本則】挙す。劉鐵磨(りゅうてつま)潙山にいたる。

         山云く「老牸牛 汝、来たれりや」

         磨云く「来日(らいじつ)臺山に大會斎(だいえさい)あり。

         和尚 また去るや」

         潙山 放身して臥(ふ)す。

         磨 すなわち出で去れり。

【頌】まるで女将軍が鉄馬に乗って、敵陣に乗り込んだような場面だが、潙山に老いぼれ牝牛の扱いを受けて体制を整えなおした。

「仏教復活の大法會があるとか。心境如何」問答の開始である。

ところが潙山・・ホントに戦争が終わったのかと、疑心暗鬼の女将軍を相手にするどころか、ホッタラカシで大いびき。

妙好人なら、さしずめ「わが親様の膝枕・・何で遠慮がイリョウカ」だろう。

老いぼれ牝牛も寝倉に帰る・・幕の内弁当もでないお粗末芝居(幕切れ)です。

だが、ソラ・・そこの方・・貴方なら、この問答に、いかほどの値をつけますか?

ご納得次第・・木戸銭はチャント払って帰りなさいョ。

    【頌】かって鐵磨にのって重城に入りたるも、勅(ちょく)下って 

     六国(りっこく)の清きことを 伝え聞きたり。

     なお金鞭(きんべん)をにぎって帰客に問う。

     夜は深し、誰と共に御街(ぎょがい)をゆかん。

【附記】百丈懐海(ひゃくじょう えかい 洪州 百丈山)に参禅したのち、司馬頭陀(しばずだ)の推薦を受けて、潭州、潙山に同慶寺を建てた霊裕老師と、まるで女相撲の容姿をした、麓の小庵に住む世話焼き婆さんの一幕ものの話である。当時、心ある禅者は、自ら田畑を耕し、庵を普請し、水を汲み薪を集めて 独り坐禅をしつつ自活した。彼は、弟子、仰山慧寂(ぎょうざん えじゃく)との名を採って「潙仰宗」の始祖となったが・・老僧百年後、山下の水牯牛となって働いているであろう・・と予言したごとく、自らを牡牛と自認していた。また劉鐵磨は、彼女が、浙江省衢州(くしゅう)の子湖利蹤(しこ りしょう・南泉普願の弟子)に、男勝りの問答を仕掛けて「お前は右回りの臼か、左回りの臼か」と問われて痛棒を喫したり、遠く山西省五台山の復興の大法会の出かけたいと、潙山に同行を強要したり・・とかく、デシャバリ牝牛と評判の女禅客であったようだ。頃は、仏教迫害の直後であり、聖地五台山詣でで浮足立っていた時代であるが、まだまだ、真の禅者は「唯我独尊」・・独りポッチの禅境に生きていたことを証明する話である。

有(会)難とうございました。

 

碧巌の歩記(あるき)NO25 月白風清

【禅者の一語】

禅は、常に「孤高性」を身にまとう「坐禅」が大事です。

碧巌録 第二十五則 蓮華峯拈拄杖(れんげほう しゅじょうをねんず)

              蓮華庵主不住(れんげあんしゅ ふじゅう)

【垂示】圓悟が座下の求道者に垂示した。

心の働きが止まって活動しないなら、有毒の大海におぼれ死ぬようなものである。素晴らしい、非凡な表現がなければ月並みな俗人になり染まる。

情報過多の現代人は、ご飯を食べるにも、カロリーがどうだとか、ダイエットがドウダとか、ドコ何処の店がおいしいとか、効能書きのスマホ・TVに振り回されている。

禅は「無功徳・役立たずの独り坐禅・・行い」が大事である。

では、禅者は、日頃、どのように生活しているのか・・どうすればよいのか・・3行目からの垂示を意訳すると・・(禅者たるもの)雷光一閃の内に黒白を見極め、大悟一番、あらゆる関(かかわ)りを坐断して、誰も寄り付けぬ千尋の碧巌に立つことだ。

サア・・お前さんたち・・コンナ「禅による生活」が日頃、何処で行われているか知っているか?

以下、先達の話を窺(うかが)い看よ。

【垂示】垂示に云く 

 機(き)位(くらい)を離れざれば、毒海に堕在(だざい)し、

 語、群を驚かさざれば流俗(りゅうぞく)に陥(おち)いる。

 たちまち撃石(げきせき)火裡(かり)に緇素(しそ)を別かち、

 閃電(せんでん)光中に殺活(せっかつ)を辨(べん)ずるが如きは、

 もって十方を坐断して、壁立千仞(へきりゅうせんじん)なるべし。

 また恁麼(いんも)の時、節あるを知るや。試みに挙す看よ。

【本則】雲門文偃の弟子➡金陵道深の弟子➡この則の主人公 盧山蓮華峯の祥(しょう)庵主は天台山の山奥に、隠者の生涯をおくっていた。

時に、求道者が尋ねてきて、問答を仕掛けると、いつも手にしている杖をあげて「昔の人は、どうして仙人の如き洒脱の生き方が出来なかったのか」と問いかけた。

(これにマトモニ答える者がいないので自らが答えて・・)

「無我無欲で安心立命できないで、名利の奴隷になっているのだろう」(と、云われても、さらに応える人がいないので・・)

庵主は自ら云う「やめた、やめた。話し相手がいないのなら、これからは杖を担いで白雲青山を友に暮らすことにする」

(この真意を知りたければ、雪賓(せっちょう)の頌を看取せよ)

【本則】挙す。蓮華峯 庵主、拄杖を拈じて示衆(じしゅう)して云く

    「古人 這裏(しゃり)に到って、なんとしてか住するこを肯(がえん)ぜざりしや」

    (衆 語なし。自(みず)ら代わって云く)

    「他の途路(とろ)に力をえざりしがためなり」

    (また云く)「畢竟(ひっきょう)いかん」(また自ら代わって云く)

    「櫛傈(しつりつ・拄杖の意)を横に擔(にな)って 人を顧(かえ)りみず、

     直に千峰萬峰に入り去らん」

【頌】ガリ(我利)ガリ亡者に、スマホ幽霊・・現代はまるでバーチャル世界。月白風清の深山も住みづらいことになってしまった。

しかし、見渡せば・・花いっぱい香いっぱい。溪聲いっぱい。

名聞利養の輩には、祥庵主が杖をつきつき、いったい何処へ行ったのか・・何をしてることやら・・キット見えないことだろう。

   【頌】眼裏(がんり)は塵沙(じんしゃ)、耳裏(じり)は土。

      千峰萬峰にも住することを肯(がえん)ぜざらん。

      落花流水は はなはだ茫々(ぼうぼう)。

      眉毛を剔起(てっき)すれば、何処(いずこ)にか去りしぞ。

【禅者の一語】碧巌の歩記(あるき)NO26 世界一の美人・・楊貴妃の一つ年下に生まれた禅者・・百丈山の懐海!

碧巌録 第二十六則 百丈独坐大雄峰(ひゃくじょう どくざ だいゆうほう)

【垂示】この則には【垂示】が欠落しているので、百丈を取り巻く環境を書いておきます。

ここに登場する百丈(ひゃくじょう)懐海(えかい720~814)が生まれたのは、中国史で誰でも知っている楊貴妃が719年に生まれた1年後(玄宗皇帝35才)である。

蜀のげんえんの娘が楊貴妃となったのは745年。玄宗皇帝61歳。楊貴妃27歳・・百丈懐海26歳・・当時・・安禄山の謀反があり、ひどく風紀が乱れ頽廃の時代にあって、寺院や僧たちも相当に堕落していたようだ。

彼が禅林(百丈)清規(しんぎ=禅の宗団生活の規則)を定めたのもうなずける。

五燈會元に、老齢の百丈が、率先して働く(作務する)ので、弟子たちが密かに作具を隠したところ、自分の不徳の所為だ・・と食を絶った・・との逸話がある。その時の有名な言葉が「一日作(な)さざれば、一日食せず」・・である。

彼の法系は、大鑑慧能→南嶽懐譲→馬祖道一から→百丈懐海となる。弟子に黄檗希運黄檗宗)→臨済義玄臨済宗)と、別に・・百丈→潙山霊祐→仰山慧寂(潙仰宗)の禅宗派の始祖となる・・すぐれた禅者達を打出した。

もし、玄宗皇帝の世に、百丈がいなければ、はたして日本に伝播した禅はどうなっていたことか・・解からない程の影響力がある。

百丈山(別名 大雄山)は中国江西省洪州にあり、そう高くもない、のんびりした山だ・・そうだが、大雄と云う(山)峰に独り坐す・・と決めつけたおかげで、日本の富士山のような雄大な山になってしまった。

 

【本則】奇抜で面白い「山」の話を紹介する。

百丈(大雄)山の萎(しな)びた禅庵に、少しは問答のできる求道者が尋ねてきた。

「何かめずらしいこと・・特別に賞賛に値することはありませんか?」

百丈懐海「奇特なこと?・・なにもない。ただ、独り山奥(大雄峰)に坐っているだけさ」

それを聞いた求道者、何故か、恭(うやうや)しく一礼した。

百丈、すかさず手にした竹箆(しっぺい)で、ピシリと求道者を打った。

        【本則】挙す。

            僧 百丈に問う「如何なるか これ奇特のこと」

            丈云く「独り大雄峰に坐す」

            僧 礼拝(らいはい)す。

            丈 すなわち打つ。

【頌】馬祖道一の弟子である、百丈懐海は まるで天馬の如き稀代の名馬である。禅の積極的な働き(向上・放行)と消極的な働き(把住・向下)を自由自在に楽しんでいる。

ちょうど、雷光一閃の瞬間、天地が逆さまになるような、すぐれた働きをする・・こんな非凡な禅者の前に来て「如何なるか是れ奇特事」とは。あたかも猛虎の髭をなでるような出来事だぞ。

ピシャリと打たれて済んだのも果報の内だよ。

(打たれるには意味がある)

      【頌】祖域(そいき)に交馳(こうち)す天馬駒(てんまく)

       化門(けもん)の舒巻(じょけん)は途(と)を同じゆうせず。

       電光石火に機変を存(そん)す。

       笑うに堪えたり人の来って虎髭(こしゅ)を捋(ひ)くことを。

【附記】「一日 作さざれば、一日 食せず」と、萎(しな)びた山間に独り、坐っている爺さん・・どうも一致しずらいのは、世の中に出回る勇壮な書一行「独坐大雄峰」のせいだ。

大雄峰は、日本の富士山のイメージで、一行の禅書にモッテコイの素材です。

ですが、百丈の生きていた現実は、僅か千メートルに満たない、竹林と滝があり、虎の出る山奥の・・素貧なひとり住まいの禅者の一語です。

この百丈懐海・・原の白隠一休宗純より、越後の(国上山)五合庵に住んだ良寛さんのような方だったのか・・興味はつきない。

現代社会は情報社会と言う・・けれど、頭脳の何千万人分、図書館の何千館分の知識がパソコンで利用できるのだが、広大な宇宙の果て銀河世界や、逆に最小単位のミクロ、量子物理学を究めつつあるとは言え・・親殺しや子殺しが頻発する(病める現代の世情を見極めきれない)宿業に振り回されている存在が人間です。そうした社会の為になる研究や開発、頭脳そのものの研究、自然科学の研究に情報の活用は大事です。・・だからこそ、釈尊以前からインドの地にあった「空・無」を拠りどころにする浄慮・静寂の「禅」が、現代社会の(心の)免疫不全に役立つのです(役立たずの禅が、無功徳という解毒剤の役割をもっているのです)

そして、先達が歩いた足跡・・禅語録(公案)が禅境(地)を語ってくれています。千年・二千年前であろうと、ひたすら内面に「自己とは何か」を問いかけることに、何の科学的情報や社会・寺僧の名利、教導とやらが必要でしょうか。

むしろ知的思考に頼り、スマホやパソコンの情報を解析のツールにする以上、バランスを失った理性は、般若(智慧)の真実から遠ざかります。思考は、分別分析の作業そのもの・・対比、検索の作業だから、まるでパソコンに、永久運動の機械設計を依頼するようなもの。円周率を計算させるような働きになってしまうのです。百丈に、竹箆で打たれた求道者は、自分の一大事は、自分でしか解決できないことを知ったでしょう(釈尊も、独り菩提樹下、スジャータの牛乳をもらって坐禅された。そして、釈尊の悟りが禅は宗教以前にある・・ことを証明しています)

釈尊以来「禅による生活」をなしてきた禅者たちは、万象の獨露身そのものの禅境(地)を体現しています。「自分とは何か・・」「幸福・安心とは何か」の問いに、答えを発見しようと行脚する・・いわゆる・・求道(好奇)心がある限り、どこかで誰かが「独り坐禅」を介して(キット禅の)発芽があることでしょう。

世の中で、最も奇特で大事な事・・とは、萎びた山中で、むさくるしい爺さんではあるが・・まるで「富士山のように聳え立つ般若の真ん中で、どっしりと坐っている自分(自我)・・これである」・・と自賛する百丈。まるで天上天下 唯我独尊を凌ぐ禅者の一語である。

 

 どうやら地球を尻に敷いて「ドン」と坐りこむ大虎の傍らで、仔猫のように、跳ね回るのは止めて、静かに大雄山から退散するとしましよう。

有(会)難うございました。この奉魯愚を看ていただいて☆マークをつけてもらいました。ただ、お返しの☆マークの操作も解らぬ(モチロン ツイッターなどしたことのない・・写真は旧、ミノルタフィルムカメラで撮影する)・・AI不適性のPC未熟者(アナログ老翁)です。どうぞ、それに懲りず、役立たず(無功徳)だからこそ、役に立つ・・3分間独りポッチのイス禅・・おりおりになさってください。お大事に。

  

【禅者の一語】碧巌の歩記(あるき)NO27 

 

   碧巌録 第二十七則 雲門體露金風(うんもん たいろきんぷう)

【垂示】圓悟克勤が座下の求道者に垂示した。

一を聞いて十を知り、一を挙げると三を明らかにする。

兎を見れば、直ちに鷹を放って捕獲したり、よく風の向きを読んで焼き畑の火をつけたり、

人の為に、説法で眉毛が落ちるような労をいとわない・・

そんなことは、マア それはそれでよいとして・・

イザ、虎穴に入って虎児を得ようとする時はどうするか・・

試しの事例を看よ。

     【垂示】垂示に云く、一を問うては十を答え、

         一を挙げては三を明らめ、

         兎を見ては鷹を放ち、風によっては火を吹き、

         眉毛を惜しまざることは、則わち しばらく置く。

         ただ、虎穴(こけつ)に入(い)る時の如きは如何。   

         試みに挙す 看よ。

【本則】ここに秋風を「金風」という詩的な言い回しで問答した、雲門文偃(うんもん ぶんえん)の話がある。ある求道者が尋ねた。

「世の中(季節)は秋。栄枯盛衰、生者必滅・・いかがですか」

雲門「花々も萎(いお)れ、鮭は遡上して卵を産んで死す・・寂寥の秋風が身に染むナア」

  【本則】挙す。

      僧 雲門に問う。

       「樹(き)しぼみ、葉(は)おつる時 如何(いかん)」

         雲門云く「體露金風(たいろ きんぷう)」

【頌】求道者の問いは 人生を自然の移ろいにかけて、雲門老師の禅機をスキマ見ようとしている。

しかし、さすが雲門の答えは「日々是好日」・・全くの秋一杯の自然流。

雲門の三句(函蓋乾坤の句、隋波逐浪の句、截断衆流の句)に見立てれば・・

雲門の放つた一箭は、すでに遠く遼の国まで飛び去ってしまった。

野原を吹き渡って、サラサラ風韻が奏でられ・・

雨はシトシトと大地を潤おして、実に天地同根の風情である。

ホラ、熊耳(ゆうじ)山の庵には、九年も面壁坐禅をした達磨さんが、まだ天竺(インド)に帰れずに、何を想ってかグズグズしておられるぞ。

(私は雲門の三句・・自然に即した意の函蓋乾坤(かんがいけんこん)の句。肯定、否定に関与しない如意の隋波逐浪(ずいはちくろう)の句。完全否定の無意の截断衆流(せつだんしゅうる)の句・・よりも、越後の山里、五合庵、良寛の句の数々を思い出します)

  【頌】問い すでに宗あれば、答えも また同じところ。

     三句 辨(べん)ずべし。

     一鏃(いっそく)遼空(りょうくう)。

     大野(だいや)には凉飈(りょうひょう)颯々(さつさつ)。

     長天には疎雨(そう)濛々(もうもう)。

     君見ずや、少林久坐(しょうりん きゅうざ)

          未帰(みき)の客(かく)

     静かに熊耳(ゆうじ)の一叢々(いちそうそう)による。

 

 

碧巌の歩き NO28 年を経た狐は 夜な夜な北斗の☆を観て白狐となる・・ソウナ! 

碧巌録 第二十八則 南泉不説底法(なんせん ふせつていのほう)

【垂示】欠如。 

・・につき、南泉普願(なんせん ふがん 748~834)の略歴を記しておきます。

唐、玄宗皇帝が楊貴妃を迎えた頃、黄河の南、河南省に生まれた。出家した少年期、修行の青年期、宋・高僧伝によれば、名を遺すにふさわしい徹底したものだったという。

師は馬祖道一。同期に百丈懐海(えかい)がおり、彼の弟子には、クチビルから光を発したと伝えられる、120歳まで生きた長寿の禅者、趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)がいる。

池州 南泉山に禅庵を構えたのは795年(48才)。87才示寂。ちょうど日本では弘法大師(空海)死去の前年にあたる。

本則の百丈涅槃(ねはん)は百丈懐海の弟子。紛らわしいので百丈(山)涅槃・・2代目とした。何でも、涅槃経の研究で有名だったようだが、詳細は不明です。

 

【本則】南泉普願(なんせん ふがん)が 百丈山二世、涅槃和尚を尋ねたおり、ここぞとばかりに問いかけた。

涅槃「禅は、釈迦や達磨、先達が極めつくして、新しい発見はなさそうですが、これまで、古賢先聖が人の為にまだ説いていない玄妙の真理があるものでしょうか」

南泉「ありますとも」とキッパリ断言した。

涅槃「それは、どんなことでしょうか。お示しください」

南泉「師(馬祖道一)の・・心ならず、禅ならず、出来事ならず・・総てを超越したものです」

涅槃「それで説明は終わりですか」

南泉「これ以上はありません。貴方はどうですか」

涅槃「私は学者じゃないので、賢人の未だ説かないことを云うことはできません」

南泉、これを聞いて、少し恥じたのか「実はその辺のことは詳しく説明できません」といった。

涅槃「そうですね。ワカラナイことを解かったなら、この問答、やりがいがありました」と締めくくった。

  【本則】挙す。百丈山の涅槃(ねはん)和尚に参ず。

   丈問う「従上の諸聖、また人のために説かざる底(てい)の法あるや」

   泉云く「あり」

   丈云く「作麼生(そもさん)か、これ人のために説かざる底の法なるや」

   泉云く「不是心(ふぜしん)不是佛(ふぜぶつ)不是物(ふぜぶつ)」

   丈云く「説き了(おわ)れりや」

   泉云く「某(それがし)は、ただ恁麼(いんも)、和尚は作麼生」

   丈云く「われ はなはだしく爾(なんじ)がために説きおわれり」

【頌】百丈(山)涅槃和尚は南泉に釈尊や達磨が、まだ説かない禅の深奥を尋ねたが「禅」は文字言句に縛られないものだから、絵にかいたモチは食べられない。

求道者は明鏡に写る「本来の自分の姿」を誤解する。それは、まるで南半球の夜空に、北斗七星を探すようなことだ。柄杓の柄すら見つからない・・闇路に鼻をつままれて口あんぐりの状態だ。

   【頌】祖佛 従来、人のためにせず。

      衲僧今古(のうそうこんこ)頭を競って走る。 

      明鏡は臺(だい)にあたって列像はことなるも

      一々南に面して北斗をみる。

      斗柄(とへい)たる、たずねるに所なし。

      鼻孔(びくう)を拈得(ねんとく)して口を失却(しっきゃく)。

【附記】日本の昔話によると、年振りの狡猾な狐は、馬の頭蓋骨(シャレコウベ)を被って、北斗の☆を眺めることが出来れば、白狐(びやっこ)となって人を誑(たぶ)らかすことができるといわれる。

この白狐伝説の由来は、戯曲「狐火」(きつねび 故・長田 純/早稲田演劇博物館 蔵)に出てくる村の古老の逸話にもとづきます。

元、麦の會=現・演劇塾長田学舎(京都 相国寺般若林)の主宰者でしたが、俳優や舞台条件や上演に厳しく、65年を経て、未だ上演されたことの無い幻の戯曲です。

(私は、この劇団で、村の子役、満次役で芝居の稽古をしていました)

【禅者の一語】碧巌の歩記(あるき)NO29

 

   碧巌録 第二十九則 大隋劫火洞然(だいずい ごっかとうねん)

                    大隋随他去也(たいずい ずいたこや)

【垂示】圓悟が座下の者達に話す。

水中で魚が泳げば、水が濁るだろう。

空に鳥が飛べば、羽毛が落ちるだろう。

いまどきは主賓が転倒してしまい、経文やスマホの言いなりで、祈願したり折伏したりする者が現れる始末だ。

何が本物で・・何がバーチャル(虚飾)か・・シッカリ判別できれば、そいつは明珠を手に、真贋判定ができる禅者と云おう。

サアテ・・どうすりゃ コンナ活眼の師となれるのか・・

試しに次の話を看よ。

   【垂示】垂示に云く 魚行けば水濁(にご)り、鳥飛べば毛落つ。

       明らかに主賓(しゅひん)を辨(べん)じ

       洞(ほがら)かに緇素(しそ)を分かたば、

       直に当台の明鏡、掌内(しょうない)の明珠(めいじゅ)に似て

       漢あらわれ胡(こ)きたり、聲(こえ)あらわれ色あらわれん。

       しばらく道(い)え、なんとしてか かくの如くなる。

       試みに挙す看よ。

 【本則】経文戒律に凝り固まった義学の僧が、四川省の山奥に隠居する大隋法真(だいずい ほうしん878~963)を訪ねて・・

「四十億年後、太陽が赤色矮星に膨張したら、地球も火星も劫火に包まれて滅亡するそうですが、この時、自我=私の意識はどうなりましょうか」・・と大上段に論戦を仕掛けた。

大隋はニベモなく「消滅するね」と答えた。

僧はナオも足掻く「それなら梵天、自我もろともに一切が滅亡するというのですか」

大隋「そうだ。スッカラカランだな」

    【本則】挙す。僧 大隋に問う。

     「劫火洞然(ごっかとうぜん)として大千(だいせん)ともに壊(え)する時

      いぶかし、這箇(しゃこ)は壊するものなるや。壊せざるものなるや」

      隋云く「壊す」

      僧云く「恁麼(いんも)ならば則(すなわち)他にしたがい去るものなりや」

      隋云く「他にしたがい去るものなり」

【頌】この義学の僧、未熟。滅と不滅、モノとココロをきれいに2分割している。大隋が一切合切、燃え尽きると答えたのはウマい。

話を繋ぐ取柄(とりえ)がなく、突き放す最上の一語だね。

大隋は、深山の樹穴で寝起きした禅者だが、彼の(禅)境地は、誰も窺うことができない山奥パンダの生活だった。

どうも昼夜・明暗は、掌の皺(しわ)が見えるか、どうかで決めていたようだ。

  【頌】劫火光中(ごっかこうちゅう)に問端(もんたん)を立て、

     衲僧(のうそう)なお両重の關(かん)にとどこうれり。

     憐れむべし、一句、他にしたがうの語、

     萬里区々(ばんりくく)として独り往還(おうかん)す。

 

碧巌の歩き NO30 温室栽培のボケ茄子は、何時でも採れるが・・

ボケ茄子は温室促成栽培で何時でも採れるが、この大根は、古今東西、比較すべきもの無き天下一品の味だぞ

 

  碧巌録 第三十則 趙州大蘿蔔頭(じょうしゅう だいらふとう)

 【垂示】欠如

     【垂示】ありません

【本則】この話は、奇抜だが よく看るがよい。

求道者が趙州に「噂では、南泉和尚に、長い間 随侍(ずいじ)ななさったそうですね」と聞いた。ちょうど畑の大根を掘り出していた趙州の答えが振るっている。

「(鎮州は大根の名所だ)この見事な大根の出来はドウダ!」

   【本則】挙す。僧 趙州に問う。 

    「和尚 親しく南泉に見(まみ)えたりと承聞す。是(ぜ)なるや否や」

     州云く「鎮州には大蘿蔔頭(だいらふとう)を出(いだ)す」

【頌】南泉普願に三十年余り、親しく随侍(ずいじ)したのは本当か?と質問された趙州。ちょうど畑から特大の大根を引っこ抜いてきたばかりだった。詩を創るより田を耕せ・・と、にべもなく答えた。学者どもは 白鳥はなぜ白く、カラスはどうして黒いのか・・解かったように理屈をこねる。騙されるなよ。趙州は、鎮州特産の大根で、ボケ茄子どもを煙に巻いてしまったぞ。

     【頌】鎮州には大蘿蔔頭を出すと、天下の衲僧(のうそう)は則(のり)をとれり。

      ただ知る 自己自今 いかでか辨(べん)ぜん。鵠(くぐい)は白く烏は黒きことを。

      賊々(ぞくぞく)。

      衲僧の鼻孔(びこう)は かって拈得(ねんとく)せられたり。

【附記】趙州従諗(778~887)は、師に「如何なるか・・これ道」と問うて「平常心 これ道」の一悟を得た偉大な禅者である。

この碧巌録には第二則「趙州 至道無難」から十則を超えて登場する。第四十五則「七斤布衫」同様、天地同根の公案

碧巌の歩記 NO31 雨風ひどい天気でも・・

 

雨風ひどい悪天候でも「Good Morning」👍・・のご挨拶

 

碧巌録 第三十一則 麻谷両處振鈴(まよく りょうしょにすずをふるう)

            【麻谷持錫遶床(まよく じしゃく にょうじょう)】

【垂示】圓悟が求道者に語りかける。

目の前に、どうぞと差し出された事象を見ても、それが何であるかサッパリ本質を理解できない人が多い。猫や狐が目先に追われるようなものだ。だが社会的な課題解決に長じた人は、まず、その本質から鋭くせまり、何の途惑いもなくスラスラと事をかたずけてしまう。肚が出来ているというか・・覚悟が出来ているというか・・未練たらしい振る舞いがない。その活動ぶりは まるで龍の水を得たるごとく、虎の野山を走るような自在の働きがある。

達道の人は、道端の小石ひとつ取っても、光り輝く黄金の価値を見出せるし、例え貴重なダイヤでも、湯を沸かす備長炭の価値すらないようにしてしまうのだ。

真の禅者から見れば、古人の公案など婆々(ばあば)談義の寄せ集め、感心する話は少ない・・が、マアものは試しだ・・この本則の葛藤が どんなことを意味するか、しっかり看るがよい。

    【垂示】垂示に云く 動ずれば スナワチ影(かげ)あらわれ、

      覚すれば 即ち冰(ひょう)生ず。

      それ或いは動せず、

      覚(かく)せざれば野狐(やこ)の窟裏(くつり)を免れず。

      透得(とうとく)徹し、信得(しんとく)きゅうすれば、

      絲毫(しごう)の障翳(しょうえい)なく、

      龍の水を得るが如く、虎の山に靠(たが)うに似たらん。

      放行(ほうぎょう)するや、眞金(しんきん)も色を失なう。

      古人の公案も、未だ週遮(しゅうしゃ)なることを免(まぬが)れず

      しばらく道え、なんらのことを評論するや。試みに挙す看よ。

【本則】ここに妙な話がある。

ある日 馬祖道一の弟子たちの一人 麻谷(まよく)が錫杖をならしながら、兄弟子の章敬(しょうきょう)を訊ねた。

そして章敬の(坐っている)禅床を、厳そかに三度廻ると、錫杖をチャリンと鳴らし、すっくと正面に直立した。

これに対して章敬いわく・・

「こりゃ上出来。禅者らしく よくしたもんだ」

(後に雪賓は、章敬の「是々」と云ったことに「錯」間違いだ・・と一語した)

章敬に「是」=上出来と褒められた麻谷は、気をよくして、今度は別の兄弟子、南泉を訊ね 同じしぐさで・・禅床を三回まわり錫杖をチャリンと鳴らしてスックと立った。

南泉云く「駄目だ。ダメダメ」とにべもなく否定した。

(後に雪賓は南泉の「不是」=駄目と云ったのに「錯」間違いだと著語した)

麻谷「先輩の章敬さんは、この禅境(地)は上出来と褒めてくれたのに、アナタ(南泉)はどうして駄目だと云われるのですか」

南泉「章敬の云ったことは上出来だとも。しかしお前さんのしたことはダメだ。禅はママゴトじゃないぞ」

   【本則】挙す。

    麻谷(まこく)、錫(しゃく)をもって章敬(しょうきょう)にいたり、

    禅床(ぜんしょう)をめぐること三匝(さんそう)し、

    錫を振ること一下(いちげ)して、卓然として立てり。

    敬(きょう)云く「是是(ぜぜ)」

   【雪賓(せっちょう)著語(ちゃくご)して云く、錯(しゃく)】

    麻谷また南泉(なんせん)に至り、禅床をめぐること三匝し、

    錫を振ること一下、卓然と立つ。

    泉云く「不是不是(ふぜふぜ)」【雪賓 著語して云く、錯】

    麻谷當時(とうじ)云く

   「章敬は是と道(い)いしに、和尚はなんとしてか不是と道うぞ」

    泉云く「章敬は是是なるも、汝は不是。これはこれ風力の所転(しょてん)にして

    終(つい)に敗壊(はいかい)をなすものなり」

【頌】雪賓が云う・・麻谷の振る舞いを 章敬は「是」とし 南泉は「不是」とした。どちらも鑑識眼がない判定だ。

あんな(麻谷の)行いは無視するに限る。

世の中は平凡そのもの。雨風ひどい悪天候でも「グッド モーニング」と挨拶してるじゃないか。

釈尊の教えに、一切経を十二分割した錫杖経がある。狂言芝居はやめて気付け薬「十二部経」で禅病を癒やすがいい。

   【頌】これも錯。かれも錯。せつに拈却(ねんきゃく)することを忌む。

      四海 浪たいらかに 百川潮(ひやくせん うしお)落つ。

      古策(こさく)風たかし十二門。門々道あり空蕭索(くうしょうさく)

      蕭索(しょうさく)にあらず、作者よし無病の薬を求むるに・・。

【附記】私は、仏教学者ではアリマセンので、雪賓重顯の推奨する古策(古い錫杖)風高十二門・・禅病を寄せ付けない無病薬・・を見聞したことはありません。むしろウザッタイ人混みを避けて、岸辺で釣りをして、青空に浮かぶ雲を看ることが大好きです。

*南泉普願(なんせん ふがん748~834)/麻谷寶徹(まよくほうてつ ?~815)/章敬懐惲(しょうきょう かいうん?)いずれも馬祖道一の弟子達。

禅(ZEN)について素直で単的な見解・疑問・質問があれば・・日本語のメールでどうぞ。

日本語で率直にお答えします。宛先 加納泰次⇒ Male:taijin@jcom.zaq.ne.jp

【禅者の一語】碧巌の歩記(あるき)NO32【_(._.)_】した瞬間の大悟事例です

碧巌録 第三十二則 定上座佇立(じょうじょうざ ちょりつ)

              【定上座 臨済に問う】

【垂示】圓悟の垂示。禅者たる者は、誰も窺い知れぬ境地で 活眼の見識と、一句をもって 迷いを断ち切る力がなくてはならぬ。無尽蔵に展開されている自然(ありのまま)の黙示を、自覚できない迷妄の輩には、禅者の体験の逸話を挙げる。看よ。

    【垂示】垂示に云く 十方を坐断し、千眼をとんに開き 

     一句もて載流(さいろ)し、萬機を寝削(しんさく)す。

     見成公案(けんじょう こうあん)、

      打疊不下(たじょうふげ)ならば、

     古人の葛藤(かっとう)あり。試みに挙す看よ。

【本則】長い間、修行していた定上座(求道者)が臨済に問うた。

「仏法(悟りの教え)・・禅の大意をお示しください」

聞くやいなや 臨済、イキナリ起ち上ると定上座の襟(エリ)くびを掴み、ピシャリと一掌(ヒッパタイテ)してドンと突き放した。

長年の坐禅修行で、目イッパイ・・禅にくるみこまれた定上座、びっくり・キョトン、茫然と突っ立ったまま固まってしまった。

かねてから 気短かな臨済の棒喝の仕打ちを知っている侍者が 佇立している定上座に云った。

「サアサア・・<(_ _)>だ。_(_^_)_! ご老師はお辞儀抜きでは承知なさらんぞ。オジギをせんかい」

定上座、云われるままに お辞儀をした。

その_(._.)_の最中に (禅機が内爆)大悟・見性した。

  【本則】挙す。定上座、臨済に問う「如何なるか これ仏法の大意」

   濟 禅床(ぜんしょう)をくだって、擒住(きんじゅう)して、

   一掌をあたえて すなわち托開(たくかい)したり。

   定 佇立(ちょりつ)す。

   傍僧(ぼうそう)云く「定上座 なんぞ禮拝せざる」

   定 禮拝するにあたって 忽然(こつぜん)として大悟せり。

【頌】臨済義玄(生年?~867 臨済宗の始祖)は、さすが黄檗希運の一番弟子だけのことはある。定上座へのハツラツな振る舞いは誰にも例えようがない。臨済にとって「禅の大意」ナンて どうってことのない質問だ。まるでチョット手を挙げ、崋山(山脈)を二つ(太崋山と首陽山)に分け黄河を通したという巨霊に勝る働きだ。

 【頌】断際(だんさい)の全機(ぜんき)は、後蹤(こうしょう)をつぐ。

    持(じ)し来れり、何ぞ必ずしも従容(じゅうよう)にあらん。

    巨霊(きょれい)は手をもたげたれば、多子(たし)なく、

    分破(ぶんぱ)せられたり華山の千萬重(せんまんじゅう)。

【附記】釈尊坐禅と定上座の坐禅修行は、どこが違うのでしょうか?菩提樹下、金星の輝きで大覚(悟)された釈尊と、臨済に頬を引っ叩かれて佇立・見性した定上座の悟りは、どこの何が違うのでしょうか?

禅語録をひも解くと、悟り(禅機)は、生活行動の最中の、いろんな場面で、ヒョットして発見・発明されています。

坐禅時間が長いとか、坐禅の仕方が規矩の通りだとか、禅堂(戒律)の古参新参、年季の入れようなど、修行組織や戒律に関係なく、薫風自南来に花は開き、花開いて蝶おのずから来たる・・ごとく、人それぞれにある【禅】が、人それぞれに開花、見性してくれるのです。

最近、アメリカで「ナイト スタンド ブディスト」・・宗教に関与しない、働く個人の坐禅(瞑想)が広く、静かに普及しています。

しかし、出来るだけ 宗教・倫理の布教団体や瞑想・ヨガなどの教導組織、教本などの影響を受けることなく、ひっそりと「独りポッチの坐禅」を「ナイト スタンド ザゼン」として、為されますように・・。

教えられ・・習って解かるような「ZEN」ならば、それは「禅」ではありません。定上座の場合、臨済の一掌が「禅機・・ヒョットしたハズミ」で悟りに至りました。悟りは・・花の香りを嗅いでとか、石が竹に当たってとか、樹上で坐禅してとか、明星を看て(釈尊)とか・・独り一人、大覚する(禅機)の条件は全部、違います。

悟り、坐禅を・・何か【自分や人の役に立てようとする、ワガママな思いの造作、価値観】を持って行なったら、絶対に【悟りの発見・発明】はありません。まずあなた自身が・・「役立たない」「効用・効果」など、一切ありえない・・と覚悟して、独りポッチ坐禅をなさることです。

坐禅の仕方・道場作法」など、決まりを作ったり、組織だって行うのは、寺僧だけで充分。数息観や独りポッチのイス坐禅のやり方は、この奉魯愚【はてなブログ 禅・羅漢と真珠】で、簡単、無料で書いてあります。これとて薬の効能書きですから、読まれたら、捨て去り忘れ去って、どうぞ独り坐禅をなさってください。

禅(ZEN)について素直で単的な見解・疑問・質問があれば・・日本語のメールでどうぞ。

日本語で率直にお答えします。宛先 加納泰次⇒ taijin@jcom.zaq.ne.jp

4月7日・10日・17日加筆

 

 

 

碧巌の歩記(あるき)NO33 自分だけの「かけがえのない宝」とは・・何だろう?

碧巌録 第三十三則 陳操 看資福(ちんそう しふくにみゆ)

                        【陳操 具隻眼 ぐせきげん】

【垂示】圓悟が座下の求道者に垂示した。

東西南北がわからずに道に迷う者がいる。だが、太陽は東から昇り西に沈み、北斗星は北を指し、南十字星は南に輝いていることは、昔の漁師や旅人は皆、知っていて目的地に迷うことは少なかった。

現代でも、スマホのナビを知らずとも、人の「生きるべき大道」について、迷わずに暮らしているも沢山おられる。

人間の評価は、地位や権威、財力など、利権の有無、損得勘定の渦の中で行われるから、地獄の沙汰も金次第となるけれども、真の達道の禅者を見分ける方法や基準点など、誰も持ってはいないようだ。さて、次に述べる古人の言行が、大悟、落處を知っての事か、それとも知らずの出来事か・・おのおの、シッカリと看るがよい。

      【垂示】垂示に云く。東西を辨せず、南北を分かたず、

          朝より暮れに至り、暮れより朝に至らんには、

          また、かれを瞌睡(かっすい)とは道(い)わんや。

          時には眼(まなこ)の流星に似たるには、

          かれを惺々(せいせい)と道わんや

          時には南を呼んで北となすことあらんには、

          しばらく道え、これ有心か、これ無心か。

          これ道人なるか、これ常人なるか。

          もし、箇裏(こり)に向かって透得(とうとく)して、

          はじめて落處(らくしょ)を知らば、

          まさに古人の恁麼(いんも)なること、

          不恁麼(ふいんも)なることを知るならん。

          しばらく道え、これ何の時節ぞ。試みに挙す看よ。

 【本則】政府(睦州)の長官であった陳操が、参禅の師、資福禅院の如寶を訪問した時の事である。

資福は陳操がやってきて、まだ、挨拶の「ア」の字もしない先に、指先で(空中の)大きな円相・・〇を描いて見せた。

この出し抜けの振る舞いをみた陳操「ご挨拶する前に、一円相を描いて見せるとは・・(どうゆう了見ですか?)私は、そんな空中絵を見に来た訳ではありませんよ」

すると資福、すかさず方丈の戸をピシャリと閉めてしまい、彼を門前払いにした。

(雪賓重顯・・この件に附言して云く・・さすがに陳操は活眼の禅者だ。彼は、したたかな資福の狂言を見抜いて、空に描いた円相をぶち壊した)

   【本則】挙す。

    陳操尚書(ちんそうそうしょ)資福如寶(しふくにゅほう)にまみゆ。

    福、来るを見て、すなわち一円相を畫(が)す。

    操云く「弟子、恁麼に来たる、はやく これ便(べん)をつけず。

    いかに況わんや さらに一円相を畫くするか」

    福、すなわち方丈の門を掩却(えんきゃく)したり。

   【雪賓重顯 せっちょうじゅうけん 云く「陳操ただ一隻眼を具(ぐ)す」】

【頌】資福が空中に描いた円相は、玉の触れ合うような、美しい音を奏でる。だが、結構な重さであるから馬や驢馬では載せきれまい。大きな鉄の船なら、どうにか運べるかナ。いや、太公望を気取るヒマ人に伝言して、大ウミガメを釣りに行く時に、この資福の円相(ワッパ)を、亀の首絞め釣り具に使ってくれと頼んでやろうか。(雪賓・・さらに著語して・・そりゃあ面白い一案だ。この円相の首絞め縄は、どんな禅僧も外すことは不可能だろうテ・・)

  【頌】団々(だんだん)として珠(じゅ)はめぐり、

     玉は珊々(さんさん)たり。

     馬を載(の)せ驢(ろ)を駞(だ)し、

     (また)鉄船を上(のぼ)さん。

     分付(ぶんぷ)せよ 海山無事の客(かく)に、

     鼇(ごう)を釣る時には、一圏攣(いちけんれん)を下(くだ)せよと。

     【雪賓また云く、天下の衲僧(のうそう)も 跳不出(ちょうふしゅつ)】

【附記】潙山霊裕、その弟子、仰山慧寂を始祖とする潙仰(いぎょう)宗に、禅境(地)を表す円相は付き物といっていい。昔、国師慧忠の画いた大事な円相97枚を耽源應真から譲り受けた仰山が「アンナもの・・後生大事にするものではない」と燃やしてしまった(次の碧巌の歩記NO34で、少し解説しています)・・のと同様・・資福の円相(挨拶)を陳操が特別視していないことに、雪賓は賛同している偈です。

当時、禅境を表現するのに、大変、円相がもてはやされたようです。(現代でも、著名な禅者の円相が茶懸けになって高額で売買される・・呆れた時代です)

お金やスマホを最も重要な価値をもつものと見る現代人には、春夏秋冬「清風名月」は、朧月夜のようにしか見えないことだろう。

「ナイト スタンド ブディスト」への提言を・・はてなブログ 禅・羅漢と真珠 で紹介しています。ご覧ください(2019-04-01追記)

 

碧巌の歩記(あるき)NO34 禅は文言(文字・言葉)にあらず!

木を見て森を看ず、森を見て山を看ず・・モッタイナイ人生旅ですナア!

  碧巌録 第三十四則 仰山不曾遊山(ぎょうざん ふそうゆさん)

【垂示】ありません。「仰山 かって遊山せず」と読みます。

     【垂示】欠如。

【本則】ひとつ 逸話を述べる。

ある時、仰山慧寂(きょうざん えじゃく)のもとに求道者が訪ねてきた。

仰山「何処からお出でたのか」

求道者「盧山です」

仰山「それならば、有名な五老峰に遊山しただろうね」

求道者「いいえ、私は修行一筋。行きませんでした」

仰山(李白の詩に・・盧山東西五老峰 青天秀出金芙蓉とあるが)「あんたさんは、せっかく天下の五老峰に参じているのに、英気を養う遊山をしてないのかい」

 

この話を聞いた雲門文偃(うんもんぶんえん)云く「仰山老師はナカナカ親切心のある人だから、婆々談義をしたのであろう」 

    【本則】挙す。仰山、僧に問う。

       「近ごろ いずれの處を離れたるぞ」

        僧云く「盧山(ろさん)」

        山云く「かって五老峰(ごろうほう)に遊びしや」

        僧云く「かって到らず」

        山云く「闍梨(じゃり)かって遊山せざりしか」

   (雲門云く・・この語は みな慈悲のゆえのために、落草の談あるなり)

【頌】未悟底の者に、婆々談義をしたのか、そうでなかったのか・・誰に解かるものか。

雲門の一語はデシャバリそのもの。

看よ・・五老峰は白雲重々。紅日杲々。右も左も天下の絶景だ。

評するに言葉は要らない。

寒山は拾得と手を携え、人間の臭気を嫌い天台山国清寺を去って、戻らなかったというではないか。

彼らは 知らぬ間に白雲紅日に溶け込んでしまったようだ。

  【頌】出草(しゅっそう)か、入草(にゅうそう)か、

     誰か尋ね たづぬることを解(げ)せんや。

     白雲は重々(じゅうじゅう)、紅日(こうじつ)は杲々(こうこう)、

     左顧(さこ)するに瑕(きづ)なく、右眄(うめん)すれば すでに老いたり

     君みずや 寒山子(かんざんし)、行くこと はなはだ早く十年帰りえず。

     来時の道を忘却したるなり。

 

【附記】仰山慧寂(814~890)は潙山霊祐(いさんれいゆう)の弟子。潙仰宗の祖。彼を中心にして、同時期の禅者を見渡すと、無門関・碧巌録など禅語録の名だたる禅者たちの活動と、その別離が錯綜している。

仰山を卓抜した禅者として評価するのは、かって陳源應真(ちんげんおうしん)に参禅した時、六祖恵能以来の貴重な円相97枚の装丁本を贈られたが、その価値を無視して、そっけなく焼却してしまった逸話がある。

他に、師との涅槃経についての問答・・どこが仏説、何処が魔説か・・と問われて、総是魔説「全部 大間違い」と否定。師をうならせたという景徳伝灯録の記載を見ても、さらに陳源亡きあと潙山の片腕となって、虎やオオカミが跋扈(ばっこ)する深山(大潙山)に禅院を建設、禅(潙仰宗)を提唱した禅者だからです。                               

仰山は・・禅の開拓者として、木を斬り、道場を普請し、田畑を耕作し自給自足の「禅ニヨル生活」を実践した・・逆境にめげない禅者でした。

仰山を取り巻く禅者の去来を見ると・・彼の生まれた814年・・百丈懐海(ひゃくじょう えかい)示寂。仰山9歳の時、雪峰義存(せっぽう ぎそん)逝去・・11歳の時、丹霞天然(たんかてんねん)死去。21歳の時、南泉普願(なんせんふがん)、40歳の時、師の潙山霊裕、52歳の時、徳山宣鑑(とくさんせんかん)。54歳の時、臨済義玄(りんざいぎげん)。56歳の時、洞山良价(どうざんりょうかい)。74歳の時、巌頭全豁(がんとうぜんかつ)示寂。そして仰山は77歳(890年)で示寂したが、その時の趙州従稔(じょうしゅうじゅうねん)は113歳。趙州は7年後に示寂した。

当時の時代を参考に追記すれば・・唐 武帝による仏教大迫害(会昌5年)は、仰山32歳の時。

仰山に禅院を構えたのは66歳の時である。

栄枯盛衰は世の常だが、禅者の「禅ニヨル生活」は、決して言説でつかみ取れるものではない。例えば食事をする・・そこに総てが現れているのだ。仰山の生きた時代を知るのは本(禅語録)以外にはない。が・・ソレはソレとして、臨済や趙州や仰山など先達のみならず、参考本著者、井上秀天さん・・(氏は終戦の年、神戸のご自宅の庭に出ておられて、B29の直撃爆弾で粉々になられたという)無常去来を看ることどもを・・大事にしたいと思います。3/11追記。

(この年代別の項註は「碧巌録新講話」井上秀天 著。昭和9年 京文社書店刊行 参考)